クズ理論
ゴミ袋からあふれたゴミが散乱する部屋で、特に何を見るでもなく、ベッドに腰かけていた。ニートになってから数か月経った。趣味もないので、きっと貯金は数年はもつだろう。
ふと外から、子供が遊ぶ楽しげな声が聞こえてきた。ひどく息苦しさを感じた。
(あの子供たちや、その親にとってみれば、どう考えても俺は犯罪者予備軍なんだろう、当たり前だが)
子供の声を聴いて、ここまでネガティブになれる自分が嫌いだ。当然、周りの人間も俺のことは嫌っている。俺はしょうもない人間だ。軽薄な人間だ。
だからこそ、俺はベッドから出ない。俺はクズだから。クズだから、こんな生活をしているのも仕方のないことなのだ。
まともな人間とは、初めから出来が違うのだ。
──誰も俺を許してくれない。
独自理論を組み立てて、自分を納得させている自分が嫌いだ。
自分がクズだということに甘えている自分が嫌いだ。
自分の全てが嫌いだ。
ふと、ネットサーフィンで目に付いた単語を思い出す。
『タルパ』
自分の精神力で作る、独立した人格を持つ存在。
どれだけ都合のいいことでも許される。例えば、「クズの俺を心底から愛して、許してくれる存在」とかだって、俺の精神次第で作ることができる。
惨めな自己欺瞞だということは分かっている。それでも、俺はタルパを求めていた。
現実は何一つよくなっていないのに、心は救われたような気持ちになれるというのは、クズの俺にぴったりの救済だと思ったのだ。でも、これは理由の一つだ。
本当の理由は、誰かに気持ちを伝えたかったからなのかもしれない。
まずはタルパのビジュアルを決めるらしい。といっても、もう決まっていた。
使いかけのノートを開く。静かな部屋に、シャープペンシルの芯を出すカチカチという音が響く。
描くのはいつも女の子だ。中学生のころから、ずっと手癖で描いている子だ。下手くそで、棒立ちのイラストをスラスラと描いていく。
ちょっと困ったような顔をしていて、手を後ろで組んでいる、制服の子だ。これはヒミツだが、頬に斜線を入れるととてもかわいくなる。
無心になれるのが好きだった。無心になって、ただ紙に線を走らせていれば、貯金のことも、他人のことも、自分がクズであることも考えなくて済む。ただ、俺が描ける一番かわいい女の子のことだけを考えていればいい。
(この子をタルパにする)
この子の設定は特にない。どういうしゃべり方をするのかも、何が好きなのかも知らない。
ただ、クズの俺を肯定してくれるだけの存在──。
そんな存在を、今まさに作ろうとしている俺を、俺は軽蔑した。
ベッドの横の壁に、女の子のイラストを貼り付ける。タルパを創造するのに、あと必要なものは自己暗示と集中力だけだ。
壁の絵をじっと見つめ、目を閉じて頭の中で反芻する。呼吸を整え、キャラクターをイメージする。どんな人格で、どんな声で、どんなことをするのか──。
十日ほどが過ぎた。毎日壁の絵を見つめ、彼女を思い浮かべる。毎日声をかける。毎日話しかけてくれるのを待つ。
無心でいられるこの時間は、少し心地よかった。このまま自分を洗脳していけば、自分を肯定できる人間になれるような気もした。現実を逃避できる、新たな言い訳だった。
昼下りのことだった。心地よいまどろみ。昼寝にぴったりの時間で、頭がぼんやりとして心地いい。ふと意識を取り戻して、女の子をイメージするのを繰り返す。
突然、感じた。自分以外の人間が部屋にいる感覚があった。目を閉じているのに、そこにいる存在が明確に見える。
(来た……!)
全身が粟立った。ついに、求めていたものが手に入った。
逃がさないように、慎重に、うっすらと目を開けた。壁には、女の子のイラストが貼ってある。それだけだ。
俺は、顔を左に向けた。居た。
「えへへ、来ちゃった」
俺は長くため息をついて、身を震わせた。
* * *
タルパは、究極的に優しかった。
「疲れてるんだよね」
「仕方ないよ」
「今は休む……それが大事だよ」
一時は、それが心地よかった。確かに、俺は求めていた安らぎを得られた。
しかし、現実の生活は何も変わらない。貯金は減っていくし、人間関係は断絶したままだった。
「俺は、ずっとクズ理論で、俺を甘やかしてたんだ」
「俺はクズだからしょうがない、クズだから何もできないってな」
「あなたはクズなんかじゃない」
「違うんだ!」
声を荒らげる。タルパは沈黙するが、その優しさも俺が生み出したものだった。
「こんなはずじゃなかった!」
いや、こんなことになるのは、知っていた。自分を肯定するだけの存在を生み出そうとしたときから、こうなることは目に見えていた。
「こんなはずじゃなかったんだ!」
腕を振り上げて、冷静になる。本気で怒っているときでも、物を壊したときの後始末や、手が痛くなることを考えると、どうしても物に当たることはできない。損得勘定をしないと何もできない人間なのだ。そして、そのことが一層自分を嫌いにさせる。
「俺は救ってほしかったんじゃない!」
ベッドを叩く。怒りを込めて、マットレスに拳を叩きこむ。
ドン、ドン、ドン。
埃が舞い上がる。手がじんじんとしびれ、そのことが俺を少し冷静にさせる。
「……うっ、くぅ……」
歯を食いしばる。どうしようもなく惨めで、卑小で、愚かな自分への嫌悪がこみあげてきて、涙となって流れ出す。顔を伏せてなお、声が漏れた。
ひとしきり泣いた後、顔を上げると、タルパがいた。
「辛かったね」
「……うん」
俺はベッドに力なく倒れこむ。涙があとからあとから出てきてしょうがない。うつぶせになって、袖に涙を吸わせる。
(きっと、俺のクズ理論を、打ち破ってほしかったんだ……)
(それを期待していたのかもしれない……)
最低な俺が泣き疲れて眠るまで、タルパはずっと俺のそばにいた。
何時間眠ったのだろう。泥のように眠った俺が目覚めたのは、太陽もだいぶ西に傾いたころだった。
驚くほど、頭が軽かった。
泣き叫んでスッキリしたのだろうか。頭のなかが冷たくさえわたって、すがすがしい。全身に行動力が満ち溢れている。
(今なら何でもできる)
自然と、そう思えた。このエネルギーを、どこに向けようか。
結論はもう決まっていた。クズ理論も、悩みも、苦しみも、タルパも捨てる。全てを終わらせるんだ。
(首吊り)
俺は冷静な頭で分析する。どこにロープを吊るすのか?家の中には梁もなく、首を吊れるような場所はない。
一方、ベランダの物干しも、微妙に高さが足りなさそうだ。しかも、万が一見つかって「生きてしまう」ことを考えると、ゾッとした。
(もっと確実な方法があるはずだ)
俺が行きついたのは、練炭だった。ネット通販で七輪とマッチ練炭、そして小さなテントを買う。
狭い部屋でも、机の下のスペースを使えばギリギリ入るだろう。
準備は怠らない。コンビニで、すっきりした飲み味で好きだった日本酒を二本も買ってしまった。
タルパは何も言わない。俺を止めることもしないし、俺を慰めることもしない。もっとも、俺はもちろんそんなことは望んでいなかった。
この瞬間も、タルパは俺の望み通りに行動していた。ただ、俺のそばにいた。
数日後、大きな段ボールが届いた。ずっしりと重いこれは、きっと練炭だろう。
動悸が速くなる。ハサミで段ボールを開くと、そこには黒い練炭の塊があり、独特のにおいがした。
頭がクラクラする。吐き気がする。
『死』が、現実感をもって目の前にあった。
耳に膜が張ったような、不快感。末端から血の気が引いていく。口の水分がカラカラに乾いていく。
生き物として逃れられない、動物的な恐怖を感じる。
(怖い)
目の前にやってきた死が、たまらなく恐ろしく感じた。
手が震える。手だけではない、体中が震えて、重い頭が自然と垂れてくる。はっ、はっ、と短いため息をついた後、練炭の上に水が落ちる。
いつの間にか、恐ろしさで、俺は泣いていたのだ。涙なのか、鼻水なのかもわからず、俺はそのままの姿勢で震えていた。
俺は、死ぬこともできないクズです。
俺は、その日から声を無視し続けた。何か、優しい声をかけてくれているような気がするが、それは気の迷いだ。
クズの俺に、誰かから優しい言葉がかかるわけがない。
優しい言葉をかけないでほしい。
(死ぬ勇気を、全てを終わらせる勇気を奪ったのは誰だ?)
俺はクズだ。これだけは、天地がひっくり返っても譲れない前提だ。
俺に優しくしてくれる奴なんて、俺を騙そうとしているか、陰で笑っているかの二択だ。
(優しい言葉なんて、気持ちが悪い)
「消えろ」
俺しかいない部屋で、俺は言った。
「優しい言葉も、甘えも嫌なんだ。全部俺を苦しめるだけだ。」
(俺はどうしようもないクズで、それを自覚して、それを利用して、それにすがって)
「……だから一層クズなんだ」
「」
「うるさい」
脳内の声が、たまらなくうるさかった。俺を甘やかす声も、俺を否定する声も、何も考えたくない。何も考えない。何も聞こえない。何も聞かない。何も聞かない。
顔を上げたとき、もうタルパはいなかった。
ベッドの横の壁には女の子のイラストが貼り付けられている。
俺は、丁寧にセロハンテープをはがし、しばしそのイラストを眺めた。
「ありがとう」
感謝の言葉は、あまりにも形式的で、あまりにも軽薄だった。テンプレートじみたその状況に、声が漏れた。
「クッ……クッ……」
どうしようもなく、笑いがこみあげてきた。
自己嫌悪から逃れる新たな依存先を生み出して。
その依存先も結局俺の自己嫌悪を増幅することしかせず。
そして、物語の最後みたいなお決まりのセリフを言ってしまう。
この状況も、俺も、すべてが滑稽だった。俺の人生は、なんて壮大な茶番劇なのだろう。
ナンセンスで、突発的で、最後だけ形式的に締めくくる。その一連の流れが、心の底から、最高に面白かった。
そして、泣いているのか笑っているのかも分からないまま、丁寧に四つ折りにしたイラストを、無造作に机の上に放り投げた。




