#2-A(前) 拉致監禁? もう少しサボらせて欲しいんだけど
肩を思い切り押され、どさり、と後ろに倒れると、柔らかいソファが僕の身体を受け止める。
何が起こったのか目を白黒させる間もなく、金髪の女性の鬼の顔が超至近距離で僕の視界いっぱいに入ってくる。
黒縁眼鏡をかけた、ウェーブがかった金髪の女性。執拗に眼鏡の縁を押して上にあげる姿が、知的な印象を受ける。年齢は知らない。教えてもらってないので。細身の黒いスーツをきっちりと着こなす姿は、今の僕と同じ――いや、同じなのは服だけだ。僕の格好はきっちりではなく、ゆるゆる。
「イチノセリクト! こんなところで油を売って何してるの!?」
どうやら会議システムで強制ログアウトさせられた際に、僕の肩を進行役の男が押したように見えたが、現実の彼女と重なっていたらしい。それもそうだ。会議システムは仮想空間のため、進行役の男でさえ、僕に触れることはできなかったのだから。
いつの間にやら、僕の姿はさっきまでの魔王モードではなく、黒いスーツ姿になっていた。ふわふわで手触りのよかったペンギン帽も消え、腕の中には――まるでぬいぐるみのような存在感の――しかし、その羽毛はまさに天鵝絨の手触りの企鵝が、ちょこんと収まっている。
誰にも気づかれず、いや、僕自身さえ気づく間もなく完了している”早変化”。さすがはペンデヴァー。僕がサボるために会得してくれた変身スキルは、今日も健在だ。
ところで、そのペンデヴァーの目が”点”になっているではないか。
これはつまり、今は助ける気はないということかな?
完全に無となり、ぬいぐるみであることを貫く表情じゃないだろうか。ペンデヴァー傍観モード、ここに極めり。へいへい。しょうがないので、この場は自力でなんとかしますよ、っと。
え、違う?
お前は何もするなって?
僕が何かするたびに世界が終わる?
そんなわけないじゃん。僕はただの一般人なんだから。そろそろカーミラさんに答えてあげないと、彼女の頭が噴火しそうだよ。
「僕は油なんて売ってないよ? 揚げ物するわけでもないし。そんなことよりカーミラさん、僕と子づくりしませんか?」
僕は手品師のように、突然、胸元から小さな花束を取り出し、彼女の前にそれを差し出す。ものすごく便利だね、これ。花束取り出したいって思えば、ペンデヴァーがやってくれるから。傍観モードでもしっかりと僕の要望に応えてくれるペンデヴァー、大好き。愛してる。
しかし僕の手は、花束ごと勢いよくカーミラさんに払われてしまった。花びらが床に散らばり、それがあたかも、最初からそこにはなかったかのように儚く消え去っていく。
あーあ。せっかく出したのに。ペンデヴァーが。
「カーミラって一体誰よ!? ていうか、あんたと子づくりなんてするわけないでしょ!? 馬鹿なの!?」
おっと、フラれてしまった。
めちゃくちゃいいタイミングだったと思ったんだけど。これでまたもや僕の主夫になってぐうたらサボる作戦は遠のいてしまったようだ。早く相手を見つけてぐうたらしなければ、僕の体力が削り取られてしまうというのに。
「ところでカーミラさんは、こんなところで油売ってていいのかな?」
「あんたねぇ!! いい加減、私の名前くらい覚えなさい! 私はカミュラよ! あと、どの口が言ってんの!? 大体、あんたみたいな平職員が、なんで本部局長室にいるのよ!!」
「やだなぁ。カーミラさんだって僕と同じ平職員なのに、本部局長室にいるじゃないですか」
ジト目で睨みつけられ、長い長い、それはもう長いため息をつかれてしまった。カーミラさんは僕の姿を見るといつだってこうやって叫び散らかすのだ。一体僕が何をしたというのか――。
ねぇ?と訴えかけるような目でペンデヴァーを見やると、彼は目を逸らした。誤魔化すのはやめなさい。その嘴で口笛は吹けないよ?
「ここに自由に入ることができるのは、本部局長とトップハンターであるリクティオ様だけよ! 私はあんたを探しに来ただけ!」
「んー、僕がそのリクティオなんだけど」
「は?」
ものすごい圧力が上からのしかかってくるのを感じた。
カーミラさんは黒縁の眼鏡をクイっと持ち上げると、鬼の形相をさらに悪鬼の形相に変え、僕を睨みつけてくる。僕の上から下までを一通り眺めたあと、ブチブチブチっと、勢いよく僕のシャツのボタンを弾き飛ばしながら、裸の胸を露にさせた。
「あ、ちょっと、ちょっと! カーミラさん!?」
「なによ、このひょろ細い身体! どこがリクティオ様と同じなの!?」
カーミラさんは、僕の裸の胸をバンバン叩いてくる。まるで高いガラスの花瓶に猫パンチをかまし、それを落として割る――猫のごとく。
「胸なんてまな板だし、腹筋も割れてない!」
叩かれた左胸を押さえながら、僕は痛みに顔をしかめる。白い肌に、みるみるうちに赤いもみじが広がっていく。
「ていうか、ここ! 刻印がないじゃないの、ここに!」
そんなにバンバンバンバン叩かなくても。そろそろやめて欲しい。あんまり叩かれると、まな板の胸が凹んでいく。これじゃまな板じゃなくてサラダボウルになるじゃないか。
「それに! リクティオ様の銀髪と碧眼は唯一無二なの! あんたのその真っ黒な目とボサボサ頭のどこに共通点があるっていうのよ!」
うーん。髪の毛のボリュームとか?
目の色は今は違うかもだけど、目の形自体は変わってないはずなんだけどなぁ。
「唯一、共通点があるとしたら、不本意だけどあんたの名前とリクティオ様の愛称が同じってところだけ。でもね、あんたはリクティオ様じゃない。それはリクティオ様に失礼よ!」
一通りまくし立てたカーミラさんは、腕組みしながら僕のことを斜め上から見下ろしてくる。
その目に宿るのは――呆れ、怒り、諦め。そしてちょっとばかりの、いや、かなりの殺意。知らんけど。
「はぁ……。いい加減あんたの相手をしているのにも疲れてきたわ。これ以上、無駄な話はしたくないの。これを持ってさっさとハンター志望の候補者テストに行ってきなさい! 今日の試験官、あんたが担当なんだから!」
バサリ、と書類とともに試験官イチノセリクトと書かれた名札のストラップを渡される。えぇ……。これ、僕がやるの?
やだなぁ。サボれないかなぁ。
「ほら! さっさと行きなさいよ!」
ソファから引っ張り上げられ、半ば強制的に僕は部屋から退室させられる。勢いよくバタン、と扉が閉められ、外に締め出される僕。いや、この格好のままで歩くのは駄目じゃない?
ボタンが取れ、肌をさらけ出した状態の胸を見下ろして、僕は思案する。すると、腕の中のペンデヴァーの目が星になる。彼は、
「グァ」
と、一言だけ小さく鳴くと、僕の腕から跳び上がり――ボン、という音とともに白煙を上げて僕の身を包み込んだ。
途端、僕の服装が一瞬で早変わりする。
後ろ腰には武器。アサルトライフルと長剣がクロスするように留め具で固定された、これだけでも雰囲気のある姿。
イケメン度を高める黒い腰マントは、実は内側が赤と緑のタータンチェックになっていて、ペンデヴァーの遊び心だろうか。若者の間で最近流行りらしいし。そういえば、今日の僕の運勢、タータンチェックが運命の分かれ道とかなんとか、天気予報のお姉さんが言っていたような……?
黒いローライズのパンツはごついベルトのバックルで留められていて、露出した下腹部に当たってちょっと冷たい。
そして――たった一つしかボタンのついていない白いシャツは風もないのにたなびき、僕の鍛えあげられた肉体を露にする。いや、実際には鍛えていないからペンデヴァーが作り出した肉体なのだが、細身ながら逞しい胸を見下ろすと、左胸に企鵝が両の翼で大きな魚を掴んで丸呑みしようとする刺青が彫られていた。カッコいい。
最後に、口元は企鵝の嘴で覆い隠し、完了だ。
自分自身では見ることができないが、きっと今の僕の瞳は碧く、髪は銀色に変化していることだろう。これが、ハンター管理局に所属するトップハンター、リクティオ――僕の三つ目の姿だ。
ぐうたらサボるためには組織のトップにいれば、働かなくていいのでは、なんて思ってペンデヴァーにイメージを寄せたらこうなった。だが、この姿のときも、あまりサボることはできず、割と働かせられているような気がする。次から次に狩りの依頼が僕宛てに届き――まぁ、それは全部、僕の仲間たちに丸投げするのだが。そのせいで僕の仲間たちは皆、今は不在にしている。
そんなことより、今は、おしっこ漏れそうなのをなんとかしなければ。
とりあえずトイレに行ったあと、仕事サボっておやつでも買って帰ろうかな――。僕はそんなことを考えながら、ゆっくりと歩き出した。