#1-B いつかきっと辞めてやる
バーチャル会議を終えた主に呼ばれ、部屋に入ったシグ・ルーベンスは、主のいつにもない沈鬱な表情に面食らう。
いつも心配性で気弱なチャッピィ――我が主は、矮人ながらの愛嬌があり、大抵の心配事が杞憂でしかないという、笑い話のネタをいつも提供してくれるのだが。
今回の様子はいつもとは違っていた。
妙に落ち着きがなく、狼狽えている様子が見て取れる。なんの会議だったのかは聞かされていないため知らないが、その会議で何かよくないことでも起こってしまったのだろうか。
「主よ、少し落ち着いたらどうなんですかい。お茶でも一杯……」
「シグ! た、大変なのだ! ボクは聞いてはならないことを聞いてしまったのだ!」
大きな執務机の上を行ったり来たりする主は、シルクハットを脱ぎ捨て、ステッキをぶんぶんと振り回しながらシグに大変さを訴えてくる。シグは彼の脱ぎ捨てた指の先ほどしかない小さなシルクハットをペン立てに刺さっている羽ペンの頭に被せ、転がっていた髑髏の仮面を同じくペン立てに先端を曲げて引っかけただけのクリップの先にかけてやる。
「それは俺が聞いてもいいことなんですかい?」
「勇者が! 勇者が来るらしいのだ!」
会話がかみ合わず、それこそ、聞いてはならないことを聞いてしまったのではないかと、シグは眉間に皺を寄せる。
――ユウシャ。
はて。聞いたことのない単語に、シグは首を傾げた。来るということは、客人の名だろうか。しかし、それにしては主の慌てようは異常だ。まさかとは思うが、客人ではなく、敵――ということか?
「主、ユウシャとは誰かの名前なんですかい?」
「っ!? まっ、ま、ま、ま、ま、まお、……いや、シグは勇者を知らないのか」
「まお?」
「そ、それはどうでもいいのだ! それよりもまずいのだ!」
「何がまずいんですかい?」
「勇者が来れば、ボクは死ぬかもしれないのだ!」
そこでシグは再び首を傾げた。主が死ぬ?
何を言っているのだろうか。そんなことなどあり得るはずがない。なぜならば、主は不死者だ。吸血鬼とは、元来、死の概念がない存在であるがゆえに、たとえ力を使い果たし、大きな傷を負ったとしても時間が経てば回復する。主の命を奪うことは不可能であり、主を邪魔に思うときはシグがいつもしているように、厚紙で作った棺桶に突っ込んでおけば、それだけで事足りる。
――なんだ、やはり大したことないではないか。
シグの頭には、いつもの心配性な主の姿が重なり、結局は何も問題ないのだと理解する。しかし。
「シグ! 今すぐ勇者を探し出して始末してくるのだ! でなければ、ボクは昼も眠れず、夜に寝てしまうかもしれないのだ! そうなったら朝に目が覚めて……健康的な吸血鬼なんて死んだも同然なのだあああ!」
吸血鬼は夜行性の生き物だ。昼に寝られず夜に寝てしまうとなると、活動時間が昼夜逆転してしまう。いや、むしろ健康的でいいんじゃないですかい。とは、口が裂けても言えない。そんなことを言えば、お仕置きと称して血を吸われかねない。あれはとても痛いのだ。今日の会議は昼間だったために寝ていた主を叩き起こし、無理やり会議に出席させたが。
「しかし、そんな、ユウシャという人物、俺にはさっぱり心当たりないんですがね」
「だ、大丈夫なのだ! こんなこともあろうかと頼んでおいた、稀代の占い師からの占い結果がちょうど今、届いたのだ! 占い予約から二百年経った今になって届いたのは僥倖なのだ!」
「に、二百ぅ……!?」
確かに、当たりしかない、という高名な占い師がおり、その占い予約は年単位で待つ必要があるという話は耳にしたことがあったが、まさか百年単位とは驚きだ。シグは今から予約しても、占ってもらえる頃には自身は死んでいるという、その事実に驚愕する。
「占いの結果は、『信頼のおける部下をハンター管理局本部に清掃員として派遣し、本部長室前の廊下にあるゴミ箱の前で、銀髪碧眼の、左胸に企鵝が魚を丸呑みしているタトゥーを入れた少年からゴミを受け取れ』と、書いてあるのだ。あとは画面の指示に従うように、流れに身を任せればよい、というのがアドバイスらしいのだ! 信頼できるかどうかはおいといて、ボクに部下はシグしかいないからあとは任せるのだ!」
占いとは?
えらく具体的な作戦指示のような内容に、シグは訝る。それは一体何を占ってもらった結果なのだろうか。その行動の意味も意図も理解することが難しい。よって。
「いや。のだ、じゃなくてですね、主」
当然、シグは主を止めようと言葉をかける。しかし、当の主は先ほどから行ったり来たりを繰り返し、シグの言葉に耳を傾けようとはしない。そろそろ棺桶を準備しておいたほうがいいかもしれない。
「ちょうどよく、このタイミングでハンター協会本部から清掃員の求人が出ていたのだ! シグの名前で応募しておいたから行ってくるといいのだ!」
「はぁ……。どうしてこうなった」
こうなるともはや主を止めることは叶わない。棺桶に突っ込んでしまおうかと準備していた手をそこで止めたとき、胸ポケットに入れていたシグの携帯端末が何やらメッセージを受信した。
――こちらはハンター管理局人事課です。清掃員のご応募ありがとうございました。書類を受理いたしましたので、つきましては――。
どうやら清掃員として働くことが決まってしまったようだ。ハンター管理局といえば、この世界では力のある組織だ。戦いに明け暮れる優秀な狩人を管理する、世界の秩序の中心として存在している。そんなハンター管理局を敵に回せば、いずれ狩られることになるのは自分かもしれない。
我が主はなんてことをしてくれたんだ、と恨みがましい目で見るも、当の主は執務机の上に自分で布団を敷き、すでに眠りについていた。
「はぁぁぁぁ……」
これが終わったら退職届でも出すか、そう思いながらシグは主の眠る部屋の電気を消し、盛大な溜息とともに部屋から退出していった。