授業9 母、帰還
「ふふふっ」
部屋の扉が開く。
聞き覚えのある笑い声に俺は、布団から頭を出して扉の方を確認する。
そこには、白衣を身につけた銀髪の幼女が立っていた。
幼女は髪と同じ銀色の瞳を細めて微笑している。
長い睫毛に透き通るような白い肌。作り物を疑うほど整った顔立ちをした彼女を見た人は将来はさぞ美人な女性になるだろうと褒め称えるかもしれない。
だが俺は違った。
俺は彼女の姿を見て、滝のように流れ出した冷や汗を感じながら、ベッドから飛び起きる。
「か、かかか、母さん!?」
幼女の正体、それは、俺の母さん。
マッドサイエンティストの鈴屋早希だった。
「久しぶりですね。りっくん」
母さんは腰まで伸びた銀髪を揺らしながら、スタスタと俺の方へ向かって歩いてくる。
「か、母さん! い、今のはち、違って!」
「ふふっ、今のってなんのことですかぁ?」
俺の目の前までたどり着いた母さんは微笑んだまま、首を傾げる。
き、聞かれてなかったのか? そ、それなら良かったけど……。
軽くほっとしたのも束の間、母さんは閃いたように人差し指を立てて、言葉を発する。
「あっ、もしかしてロリババアと言っていたことですか?」
立てていた指は銃口を突きつけるように俺の方へと向けられている。
か、完全に聞かれてましたか……。そ、そうですか……。お、終わった……。
ニコニコと屈託のない笑顔の母さんから告げられたその事実に俺は、死の宣告のような絶望感を覚えた。
「ふふふっ、りっくんたらお母さんのことをババアなんて呼んだら駄目じゃないですか」
笑顔のまま表情は変わらない。他の人にはーー感情が読めなくて――可愛らしく注意する幼女に見えるだろう。
けれど、息子の俺には母さんがなにを考えているのかある程度わかる。
その証拠に、俺には、母さんの後ろに白装束を着て般若のお面を付けた髪の長い女の人が見えているのだから。もちろん実際にはそこになにもいないけど。
母さんの背後の般若面の女は手にもった刀を今にも抜かんとその凶悪なお面の前に掲げている。
つまり母さんがなにか恐ろしいことを考え、実行に移そうとしているということだろう。
「ふふっ、りっくん。そこに正座してくれますか?」
「はい!」
母さんのお願い(拒否権はない)を叶えるために、俺はその場で正座する。
「ふふふふっ」
母さんの笑いに合わせ後ろの般若が刀を抜く。
ああ……。おおお、終わりだぁぁ……。
これから自分の身に起こることを想像して俺の体はガタガタと震え出す。
今日はどんな薬を注射されるんだろうか。
笑い薬か泣き薬か惚れ薬かはたまた媚薬か。
今までに打たれた薬の苦しみを身体が思い出して震えが激しくなる。
「りっくん、震えすぎですよ?」
震える俺に母さんは針の長い注射器を見せて暗に注射出来ないから震えるなと要求する。
そんなこと言われると普通余計に震えてしまうだろうが、既に俺の体は母さんによって調教されている。
震えを止めなければもっと酷い目に合うことを身体で理解しているから、俺の身体は自然と震えるのをやめた。
「ふふっ、お利口さんですね」
母さんがその小さな手で俺の頭を優しく撫でてくれる。
ああ、いつも、この優しい母さんだったらいいのに……。
俺は心底そう思いながら、薬を注射される覚悟を決めて瞼を閉じた――。
…………?
一向に針を刺される痛みは訪れない。
な、なんでた?
不審に思い、俺は薄目を開ける。
「さ、早希さん。お久しぶりです」
そこには注射器を持った母さんの右腕を掴む青姉の姿があった。
「ふふっ、お久しぶりですね。青ちゃん」
母さんは青姉の方へ顔を向けて挨拶を返す。
今の内だ!
俺は自分の身を救ってくれた青姉を生贄に、その場から逃げようと立ち上がる。
しかしそんな人でなし行為が上手くいくはずもなく、すぐ二人に窘められしまう。
「あれ? りっくん、どこに行くんですか?」
「おい鈴、どこに行く気だ?」
さらに、生贄にしようとしたせいで救世主だったはずの青姉までもが敵に回ってしまった。
「りっくん、そこに座って下さい」
「鈴、そこに座れ」
「あっ、えっと、その、はい」
冷やかな声で床を指差す二人。
俺は何事もなかったかのよう素直に従い、指定された床に正座した。床はベッドと違い少し硬かった。
あのまま耐えていれば青姉が助けてくれたかもしれないのに、青姉が敵になったのは自分だけ助かろうとした俺の自業自得だ。ごめんよ青姉。
「青姉、母さん」
二人の顔を交互に見る。
ああ、これはダメだ。
俺に名前を呼ばれて穏やかに微笑む二人の顔を見てもう誰も助けてはくれないということを悟り、俺は静かに瞼を閉じた。
数秒後、右腕が冷やっとしてからチクリという痛みが訪れる。
俺は、消毒されてから針を刺されたんだと理解した。
「ふふふっ」
母さんのおしとやかな笑い声を聞きつつ、身体の中に薬が入ってくるのを感じる。
「りっくん。もう終わりましたよ」
母さんが俺の肩を優しく叩く。
俺は目を開けて右腕を見る。痛みのあった部分には予防接種の時に貼られるような小さな絆創膏が張られていた。
まだなにも変化はない。
俺はいつ薬の効果が表れるのかびくびくしながら、正座をしたまま待った。
「……」
「だ、大丈夫か?」
「ふふっ」
俺が沈黙していると、敵になったはずの青姉が心配そうな顔で俺の顔を覗きこんでくる。
母さんはというと、心底楽しそうに笑っていた。
一体どんな薬を注射されたのか。
俺が色々と想像して怯えていると、身体に異変が起こり始める。
う、歌が歌いたい! 歌いたくて堪らない!
「ら~ら~らら~」
我慢出来なくなった俺は口からメロディを奏でる。
「ぶふぅ! ちょっ、鈴、いきなりやめっ、あはははははは」
俺の歌を聞き、青姉は吹き出して笑う。
「ふふふっ」
母さんも口元に手を当てておしとやかに笑っていた。
「ら~ららら~らら~」
お、おかしい! 二人に笑われて死ぬほど恥ずかしいのになぜか歌わずにはいられない!
や、やめたいのに……!
「らららららら~」
だが、どれだけ願ってもと歌わずにはいられなかった。
青姉に音痴だと言われて、当分人前で歌うのはやめようと思っていたのに、どうしてこんなに歌いたくなるんだ!
「あはははは、も、もうやめ、はぁはぁ、あはははははは」
涙を流して笑い転げる青姉を見て、自分の歌はそこまで笑うほど下手なのかと悲しくなって泣きそうになる。
もうやだ!! もう歌いたくない!!
けれど俺の口は止まらない。
「ららら~らら~」
ま、まさか!
「もしかして~これが~薬の効果~?」
普通に喋りたくてもミュージカルのように歌いながらになってしまう。
「鈴、ひっ、ひひ、全然、ひぃ、音程合ってないぞ」
「はい。りっくんの言う通りそれが薬の効果ですよ。ふふふっ」
青姉は笑いすぎで過呼吸になりそうだ。
母さんはクスクスと笑いながらおみごとですと続ける。
容姿も相まってイタズラが成功して喜ぶ子供のようだった。
「母さん~なんで~こんな薬を~」
「ふふふっ。実は私、さっき二人が話しているのを聞いてしまいまして、せっかくですから青ちゃんにはもっとりっくんの素敵な歌声を聞いて貰いたいなぁと。なのでたまたま持っていたこの薬を使いました」
母さんは楽しそうに白銀の瞳を輝かせ、悪びれる様こともなく白状する。
たまたまこんな薬持ってるわけあるかぁ!
いつもいつも、その時に俺が嫌がることを的確にしてきやがって……。
「このロリババアがぁぁ~!」
俺は積もり積もった母さんへの恨みを晴らすように大声で歌う。
「あは、あはははは、く、苦しい。も、もうダメ」
部屋の中には俺の歌声と青姉の笑い声が響き渡っていた。




