酒飲んでたらなんか色々解決していた話
ギシギシいう体をなんとか持ち上げて、痛む頭を押さえてから深いため息をついた。
もがくように起きたからか視界は砂嵐が過ぎているかのように蒙昧で、映像が安定してからは見慣れないものに困惑する。
斜めに下がる低い天井に、少しの明かりを取り入れる天窓。全体的に埃っぽくて薄暗い部屋は、隅っこに幽霊でも隠れているかのような暗闇を湛えている。タンス代わりなのか籐編みらしき籠があり、中に暗い色の衣服が折りたたまれていた。
「ん-……お仕着せ?」
取り出した衣服を身に着けてみる。エプロンもあるが、ちょっと大きい。
「屋根裏、ってことは、使用人なのか」
小首を傾げて彼女は呟いた。
自身や人物に関する記憶はないが、言葉や貨幣の事は覚えている。
それならなんとかなる、と思う。
「さ、まずは仕事の確認でもしに……」
降りるか、と足を向ければ、階下から金切り声が聞こえてきた。
「アーチェ! いつまで寝てるんだこのグズが!」
うわクソババアだ、と思いながら、彼女は大人しく梯子階段を下りていく。
その半分まで来たところで、思い切り棒で叩かれて、驚いた彼女は手元に縋りついた。
「早く降りてきなさい! いつまで熱があるとか言い訳をしてサボる気なの!?」
怒鳴りながら何度もふくらはぎの辺りを叩かれる。
痛いし、いつまでも降りれないし、うるさい声が頭に響くし、アーチェは階下でバタバタ暴れる女性を睨みつけた。
「うるせぇババア! 降りてんだから大人しくしてろボケェ!」
「はっ!?」
驚きに口を開けて動きが止まった隙に全力で床まで降りた。
未だ唖然とする女性に向けて、ぺこりと頭を下げる。
「おはようございます、奥様」
「あ……貴女今、私の事を罵ったわね!?」
「聞き間違いです」
「うるさいわね! 口答えして!!」
女性が手にしたものでアーチェを殴る。
二度アバラを打たれ、一度頬を叩かれた。その衝撃で口の端が切れたか血が飛んで、女性は留飲を下げたようだった。
「ふん、痛い目に遭いたくなかったら、二度と逆らわないことね! 今日は広間と廊下を全部掃除しなさい。終わるまで食事は抜きよ」
軽く肩で息をしつつ、薄く笑いながら得意げに話す女性。
アーチェは、彼女がもう手を出してこないことを確認すると、棒を奪って体の真ん中あたりを突いた。
「げェッ……!」
「二度とこんなとこ来ねぇよ! 使用人だからって好きにしていいわけねぇだろが!」
言い捨てて、アーチェは逃げた。
殴られたところが痛いし、足は重くて仕方なかったけれど、雇い主に反撃をして無事に済むとは思えない。
特に、少し寝坊か何かをしただけであれだけ打擲してくる相手だ。牢屋かなんかにぶち込まれて折檻代わりに拷問されて殺されても不思議じゃない。
全力で走って、裏口らしきところから外へ出た。
他の人とすれ違わなかったことを幸いに、裏門から飛び出して、そのまま人が多く住む方とひた走る。
あまり屋敷の外に出たことはないけれど、たまに買い出しをした際に庶民街がどちらにあるかは覚えていた。
人が多ければ、使用人服を着た自分など紛れてわからなくなるはずだ。
さすがに手間をかけてまで探されるわけがないだろう。彼女はそう信じた。
さすがに喉が渇いた。
だから、近くの酒場に入り込んで、エールを一杯注文した。
そして大きく息を吸い、全力で宣言する。
「誰か飲み比べしようぜ! 負けたほうがおごるってのでどう?」
店中がしんとした。
次いで湧き上がる笑い声。
小馬鹿にするようなそれに、顔を真っ赤にするようであれば度胸試しなんてしない。
不敵に笑うアーチェに、眦に涙を浮かべた男が近付いてきた。
筋肉の盛り上がりが力仕事を生業にしていることを物語っている。
「嬢ちゃん、そもそもそんな金はあるのか?」
「ない。だから、勝っておごってもらう」
「豪胆だな! よし、勝負してやろう。三杯飲めたら嬢ちゃんの勝ちでいいぞ」
「そっちもなかなか剛毅だね。財布を用意しといて」
テーブルとイス、それにエールが用意され、野次馬たちが周囲に群がる。
アルコールが入った娯楽に飢えた人間にとって、ちょっとした賭け事はオタノシミの一つだ。
「ところで、いつもはどれくらい飲むんだ」
「それ、今聞くこと?」
「まあ、俺の稼ぎがかかってるんでね」
「飲むのは初めてかな」
「なんだって?」
「負ける気はないから大丈夫!」
言って、アーチェは一杯目を勢いよく飲み干した。
続いて二杯目もカラにする。目を丸くする男を他所に三杯目も飲み干して、ジョッキを掲げれば沸く観衆。
「良い飲みっぷりじゃねぇか」
「次は俺がおごってやろう! おい、おかわりだ!」
「腹減ってねぇか? 飯を食わせてやるよ!」
「いやー、ありがとうありがとう、助かるよ」
ニッカリと笑う彼女に、いかつい男達はご機嫌な笑い声を返す。
小柄でともすればすぐに折れてしまいそうなほど細っこい小娘が吐いた気勢が、なぜか酔った頭にいくばくの爽快感を生み出す。
そのうちに、何人かが飲み比べ勝負を挑んできて、アーチェはそのすべてに勝利した。
益々ボルテージの上がる会場。
次の挑戦者が向こうの椅子に腰を掛けた。
暗い色の外套を纏って顔が見えないが、体つきや喉仏、見える部分がごつごつしているのでおそらく男だろう。
「おにーさん、お金持ち? 衣装の布地が高級品っぽい」
「そう見えるか?」
「しこたまおごってもらおうかな。ワインで良い?」
「いや、ウイスキーを」
低く耳を抜けていく良い声だ。
そこから紡がれる言葉の旋律に酔ってしまいそうになるくらいに。
「名前を聞いても?」
「うむ? 勝ったらいいぞ」
そんな言い合いの間に、注文したものが届く。
持って来た人は同じく外套を身に着けている。彼の仲間か何かだろう。
「この店に置いているボトルだ。それなりにいいものだから、美味いぞ」
「それは楽しみ。普通に飲めばいい?」
小さめの器にストレートで出されたものをみて、舌なめずりするアーチェ。
男は小さく笑って頷いた。
「出会いに」
「うん? 出会いに」
差し出される器に器を返して、アーチェは一気に琥珀色の液体を飲み落とした。
瞬時にかッと熱くなる身体。むせかえる酒気に咳き込めば、目の前の男に笑われる。
逆流しそうな感覚を抑えて鼻から熱気を吹き出しながら、涙目で相手を睨めば、彼は処置なしとばかりに肩をすくめた。
「どういうものか知っているとばかり」
「無知で悪かったね。もう一杯いい?」
「どうぞ」
今度は相手と同じようにちびちびとやりながら、アーチェは目の前の男を観察する。
勝負が終わりになったと野次馬も解散しているが、奢りの品は残ったままだ。それを少しずつ摘みつつ、彼女は口を開いた。
「何か用事でも?」
「いや?」
「勝負するなら、もっとがぱがぱ飲めるものの方が良いじゃん」
「ああ、なるほど。言っただろう、出会いに、と」
「うん?」
そういえばそうだったかもしれない、と思い返していれば、男はまた微笑んだ。
良く笑う人だな、と思う。正体を隠しているのは、ばれたらまずいからか、趣味かのどちらかだ。
キープボトルがあるのだから行きつけの酒場なのだろうし、そんなところで犯罪まがいの事はしないだろう。
連れも怪しい格好であるが、周囲の人も普通に受け入れているし、その点では問題なさそうだ。
二人してただ黙々と飲んでは食べる。
酒場に広がる喧騒と談笑の声がただ心地よい。
「ちょっと、奢ってあげようと思って」
「え?」
自分の分を飲み干したのだろう、急にそう言って、男が懐から金貨を取り出した。
アーチェは目を丸くする。一杯の値段にしては多すぎる、というか、今夜の飲食代にしても足りすぎる。
「ちょ……」
「行く当てがないなら、この店で厄介になればいい。俺も様子を見にこれるし」
「え、つまりこれは口止め料的な……」
「リナルド」
いきなりの名乗りに顔を上げれば、嬉し気に弧を描く口元に指を立てた彼がいた。
「名前、誰にも教えないように」
「あ、はい……」
呆れたようなもう一人と連れ立って帰っていく男。
その背中をボンヤリ見送って、アーチェはカウンターへ近付いた。
思いがけない収入を手に入れてしまったので、それを使って交渉するためだ。
どこかで働かなければ生活できない。そして、この店でちょっとした知り合いができた。
名前以外はよくわからないが、身なりは悪くなかったし、あっさりと金貨を出すほどの人物。
その縁を手放すなんて考えられない。
アーチェの頭の中では、既にこの店で働くビジョンが見えていた。
馬車の中で従者にため息をつかれて、リナルドは彼をぎろりと睨んだ。
その眼差しだけで人を殺せるんじゃないかというほどの眼力を受けてなお、従者は飄々としている。
というか、受け止めすぎて平気になっている。
そんな短い付き合いでもないし、それくらいできなければ彼の側で働くなんてことはできない。
「何が不満だ」
「そりゃ俺の台詞なんですけどね。なーにをさっきから酒場の方を睨んでいるんだか」
「……だが、見ただろう、あの女性の風貌を」
「ま、下女ならあの細さもわかりますが、あざが見えてましたね」
服の裾から見えた怪我。見えないところがどうなっているかなんて想像したくもない。
どうして彼女があの場所にいたかはわからないし、あの性格で殴られ続けて黙っていたとも思えないが、妙に気になる。
「……手持ちもなさそうだった。逃げ出してきたばかりだろうか」
「だとしたら、捜索届が出ているかもしれませんね。いや、ないかな? 一応は調べておきますか?」
「ああ、しばらく該当書類に目を配っておいてくれ」
「それで、どうするんです」
「なにがだ?」
いやね、と楽しそうに続ける従者にしかめ面を返すが、それすらも娯楽の一つと言わんばかりに彼は言葉を紡ぐ。
「探している家が分かったとして、普通に返すのかってことですよ。あの子が素直に従うとも思えませんが……」
それ以上に。
リナルドが何かしでかすことを期待しているような言葉尻に、ため息を返す。
「雇用主が是といえば返す以外の方法はないだろう」
「いやですねー、朴念仁ですか貴方」
「あのな、出会う端からそんなことしてたら、俺は何人の妻を持つ男になってるんだ」
「そりゃそうですね。ま、脈もなさそうですし」
「は?」
「貴方が興味を持ったっていうのに、あの子も平然としたものでしたから」
「……外套を着たままだったろう」
「まーそうですね。そういうことで」
実際、リナルドは外見が良い。
それに肩書も、伯爵家の出身だが第二騎士団長補佐として抜擢されるほどの腕前を持っている。
若手の出世頭でもあるため、人目を引くことこの上ない。
だからと、万人に好かれるかといえばそういうわけではないのだが。
若い令嬢が結婚相手の候補に入れるくらいにはいろいろと整っていた。
いつの間にか下世話に移行していた話題にため息をついて、リナルドは車窓に視線を移す。
夕刻に沈む街がいつもよりもよりくっきりと見えた気がした。
ベッドに横になり、カサール夫人は腹の痛みに耐えていた。
思い切り突きを食らって動くこともできず、探しに来た娘に使用人を呼んで部屋まで運んでもらい。
家令に旦那を呼ぶように指示を出し、今はそれを待っているところである。
医者にもかかったが、傷を見せるわけにもいかず、腑の薬を処方されただけだった。
今は娘のイラリアと侍女がそばに控えている。
やがて足音高く帰ってきた夫が、彼女の部屋にやってきた。室内に軽く目を走らせ、ベッドに駆け寄るとそっと妻の身体を抱きしめる。
「何があったんだフェリ、連絡を貰ってすぐに帰ってきたが、詳しい話は知らないんだ」
「あなた……ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
「なんてことを言うんだ、それより何があった」
「あの子……アーチェです」
夫にもたれかかれながら、夫人が涙を浮かべて小声で訴える。
震える身体と声を支えるように、カサール子爵が腕に力を込めた。
「アーチェ? あの子がどうしたんだ」
「あの子に叩かれたんです。私が、私が義母として至らないばかりに……」
「アーチェが! 今までお前に任せていたが、これ以上は我慢ならん。私から言い聞かせよう、アーチェはどこにいる」
「それが、飛び出して行ってしまって……」
「なに!?」
さめざめと泣いている妻。彼女を慰めようとするも、事を起こした本人がいないという。
子爵はもう一人の娘と侍女へ目を向けるが、二人とも首を横に振った。
「もう、お姉さまってば身勝手なんだから。放っておきましょうよ、どうせそのうち帰ってきます」
「いや、しかし……」
「ちょっと心配してほしくて、勝手に出て行ったんですよ。構ってほしいだけです。ですから、少し無視していた方が良いですわ。そのほうが反省するでしょうし」
イラリアにそう言われて、父親は黙った。
仕事で忙しくて、家の事は全て夫人に任せている。そして、姉とよく一緒にいるはずの娘がそう言っている。
いつもワガママばかりで周囲を困らせていて、ぜいたく品を好んで出費が多く、昼に出かけて好き放題遊び、夜はパーティで遊び散らかし、そのくせ家族と顔を合わせるのを嫌がって帰れば引きこもっている。
そんなアーチェが、家を飛び出し一人で何ができるのか。
確かに放っておいた方が反省するかもしれない。少し大人しくなれば、妻の負担も減るだろう。
カサール子爵は頷いた。
「そうだな、そうしよう。だが、帰ってきたら直接叱る。戻り次第、すぐに連絡をするように」
傍らに控えた家令に指示を出し、子爵は妻から体を離した。
「あ……」
「すまないが、仕事を残してきているんだ。戻らなければ」
「せめて、今夜だけでも」
「すまない、苦労を掛けるが、もうしばらく我慢してくれ」
「……分かりました」
夫人がしおらしく答えれば、夫はその頭にポンと手を乗せた。
撫でるように動かされた掌がすっと離れる。
「いつもすまないな。好きな宝石を買ってよいから」
「……はい、いってらっしゃいませ」
仕事に戻る子爵の背を見ながら、カサール夫人とその娘はぐっとこぶしを握った。
欲しい宝飾品があったのだ。これで堂々と購入できる。
翌日、またしても現れた外套の男を見て、無事に店員となったアーチェは快活に挨拶を飛ばした。
「いらっしゃいませぇー!」
「……無事、雇ってもらえたんだな」
「おかみさんもマスターも、良い人達ですね! 何よりお酒が大好きだっていうんで、私みたいな酒飲みは大歓迎とまで言ってもらえましたよ!」
明るく笑う彼女に笑みを返して、男は店の隅にある席に腰を落ち着けた。
常連の席は決まっている。他の客も大体の位置を掴んでいるので、特にこの場所はいつも空いている。
「ご注文は? 取り置きの消化をしますか?」
「そうだな。今日はワインを」
「三樽くらいあるんですっけ? 全部開けます?」
「ザルディーニで頼む」
「はーい。おつまみは適当に見繕ってもらいますね!」
「そうだな、今日も君と飲みたいんだが、良いか?」
その言葉にきょとんとした顔を返してから、アーチェは笑った。
「マスターに良いって言われたらご相伴に預かりましょう!」
からからと朗らかな笑い声を上げながら、アーチェがカウンターの向こうへと消えていく。
そのあと、マスターが顔をのぞかせたかと思えば、しばらくしてつまみのスライスチーズと二つのグラスをアーチェが運んできて、小樽をいかつい顔の男が持ってきた。
「許可が下りました。樽をカラにしてやれって」
「マスター、この子にどれだけ飲ませるつもりだ」
「ふん、うちの看板娘をあまり胡散臭い男に付き合わせるわけにはいかないからな。今日はそれ飲み干したら上がりで良いぞ」
「おっ、マスター太っ腹! おにーさんも、このワインをみんなに振舞ったり?」
「しないよ。すぐになくなっちゃうじゃないか」
「ちぇー、早上がりできると思ったのに」
ぶつくさ言いながら、席に着いたアーチェが早速とばかりにグラスへ酒を注ぐ。
ライトボディの口当たりが柔らかいものだ。酒気が感じられず飲みやすいもので、初心者向けのワインである。
二つのグラスが満たされて、赤色に反射したアーチェの顔がにんまり笑った。
「今日は何に乾杯します? 再会に?」
「じゃあ、再会に」
軽く器を合わせた後、アーチェはするりと中身を飲み干した。
フルーティな香りが鼻孔を抜けて、彼女は満足げな顔で頷く。
「美味しい! 他のワインとなんか違う」
「それは良かった、遠慮せずに飲んでいいから」
「やったー!」
本当に遠慮せずにお代わりをする彼女を見て苦笑をもらしながら、リナルドは口を開く。
「昨日の今日で、すでに看板娘なんだな」
「うん? ああ、おかみさんとマスターがほんとに気に入ってくれたみたいで、娘みたいなもんだって」
「そうか、頑張れよ」
「ありがとうございます! おにーさんのおかげでもありますから、感謝しています」
そういう割に、既に次の一杯を注いでいる。
感謝と遠慮は別口らしい。
「ところで、聞きたいんだけど」
「なんでしょう?」
「名前は?」
家出人か調べようにも名前も知らないことに気がついたのは、詰め所に戻ってからだった。
従者はわかっていたようだが、気付いた瞬間のリナルドの反応を見たくて黙っていたらしい。
赤茶の髪に、痩せた小柄な女性、という特徴だけでは、到底探しきれるものではない。
そういった類の届け出は、膨大ではないが少ない数ではないのだ。
「アリーでいいです」
「そうか、年齢を聞いても?」
「ん-、たぶん二十くらい?」
「出身は?」
「ここですかね?」
「あやふやだな」
「記憶がないんですよね」
あっけらかんと言い放ったアーチェの言葉に、リナルドの思考と動きが止まる。
そんな彼に構わず、小柄な女性はグイッとグラスをあおって中身を飲み干した。
「記憶が、ない? 何も覚えていないのか?」
「いや、全部じゃないですよ。お金の事とか、計算方法とか、文字の読み書きとか、そういうのは大丈夫です」
「そうか……自分の事を覚えていないという事か?」
「ま、そうですね。名前も不明、年齢も不明、あ、性別はわかりますよ!」
けらけら笑うアーチェ。
その顔に不安はなく、本当に気にしていないということがうかがえる。
それが強さなのか、能天気なだけなのかは知れないが。
「そうか、アリー」
「なんでしょう?」
「記憶が戻ったほうが良いと思うか? そして、君が逃げてきただろう場所に、戻りたいと思うか?」
「嫌ですよ、絶対に嫌。まあ、金貨五十枚くれるなら考えてみますけど」
「そんな持ち合わせはないな。……わかった」
リナルドが二杯目を注げば、ちょうどよく小樽が空になった。
容赦ないアーチェのお代わり攻勢に、目の前の容器程度では耐えられなかったらしい。
「んじゃ、ごちそーさまです」
「はあ……ああ、またな」
上機嫌でカウンター向こうに去っていくアーチェ。
あまりにも早く飲み終わったため、もう少し店を手伝うらしい。
あれだけ飲んでおきながら、酔ったふりの一つもない。
肝臓強すぎ娘の姿を目で追いながら、リナルドは口の端を持ち上げた。
執務室まで戻れば、応接用ソファに寝ころんで片手間に書類を確認していた従者と目があった。
彼はいつも通りの軽薄な笑みを浮かべてひらひらと手を振ってくる。
「やめろディック」
「それで、肝心のお名前を聞き忘れたリナルド団長補佐殿は、今日こそ彼女を口説き落とせたんですか」
「推定アリー、目算成人女性、記憶喪失につき詳細不明だ」
どさりと疲れたように腰を落としたリナルドに、従者で同僚の男は居住まいを正した。
あわよくば彼女が出自を零してくれないかと色男を宛てがったが、思わぬ以上の話が出てきてしまった。
これでは当人から情報を聞き出すことはできず、目星をつけた捜索届のどれかに当てはまるか、すぐにはわからない。
調べれば判明する事だろうが、そこまでして彼女を元の家に戻したいかと言われれば、上司をからかいたいだけという動機と比べて労力がでかすぎる。
「そうですか……はいこれ、お望みの成果ですよ」
「ああ、特徴から調べてくれたのか。……多いな」
「赤茶の髪、小柄、女性、で絞ってこれです。使用人も家族も、こんなに行方不明になっているものなんですね?」
「珍しくない髪色ではあるが……うーむ、この中にはなさそうだ」
「えっ」
苦労して集めたものがばっさりと捨てられて、ディックは唖然とする。
元より業務外の調べものだ。ちょっとぐらいは労ってくれても良いはずなのに。
「さすがに時期が古い」
「あー……失念してました」
疲れてたんですかねー、と言いながら、従者はその紙の束をまとめて暖炉へと放り込んだ。
火をつけてそれを燃やしつくす。原本は別にあるので、これはなくなっても構わない。
「ってことは、まだ誰も探していないってことですかね。まあ、下女ならそんな手間をかけるより、新しく雇ったほうが良いでしょうし」
「都合よく記憶も失っているしな。体罰の証拠が出ないなら、捨て置いても問題ないか」
「非人道的雇用は一応は法令違反なんですけどねー……」
本人が訴え出ないことには何もできない。
えてしてそういう人たちは読み書きもできないので、雇い主が違反行為をしているかどうかなど知る由もない。
「……いや、彼女は下女じゃない」
「なんです?」
「読み書きと計算ができると言っていた」
「そりゃまた、使用人としてはなかなか珍しいですね」
メイドとして雇われている中でも、読み書きができず目で見て仕事を覚えるものも多い。
それなのに計算までできる。
その見た目と反してあまりにもちぐはぐだ。
「それで言うなら、商家の娘? 裕福な庶民……」
「令嬢」
「まさか、あの風貌で?」
考えるほどにわからない。
可能性だけであれば、どんなものでも当てはまる気もする。
「わからん」
「ま、そこまで気にしなくても良いんじゃないですかね。そのうちわかりますよ」
お手上げだ、とディックが肩をすくめる。
仕事の範囲外だ。専門家でもないのに、これ以上踏み込む理由は面白さ以外には存在しない。
「まあ、そうだな、時間が解決するかもな」
「もしくは彼女が何か思い出すかですね。そこはお任せしますよ、通い詰めて仲良くなってください」
「ああ、そうしよう」
義務でもなんでもないのに、冗談で言った提案にまさか乗るとは。
無意識かもしれないが、リナルドが興味を示している。
ディックはにんまりと笑った。放っておけば、さらに面白いことになりそうだ、と。
騎士団へ配属された歓迎会で、新人は理想の女性像を発表するという謎儀式が存在する。
そして婚約または結婚した時に、相手の女性が夢見た相手であるかとからかわれるのだ。
だから、大抵の隊員は、優しいとか、胸が大きいとか、笑顔が可愛いとか、そんな無難な話をする。
その年のリナルドは、騎士団への所属が決まったことで釣書やらパーティにかこつけたお見合いやらで、様々な女性から、女性の家族からアプローチを受け続けていた。
なまじ顔が整っていて将来有望だったがゆえに、上は未亡人から下は年端も行かぬ子供まで。
さすがにそこまで寄ってたかられては疲弊する。
そこから逃げ出すように下町にまろび出て、落ち着いた場所が酒場だった。
おもいおもいに酒を飲み、騒ぎ、知人も別人もなりふり構わず仲良くやっている様子に別世界を見たようで楽しかった。
そこで出会ったのが、おかみさんである。
豪快に笑い、がばがば酒を飲み、客を客とも思わぬ手痛い扱いをしながら、そこには愛情が溢れていて。
見たことのない女性像に、とにもかくにも衝撃を受けた。
だからだろう。彼は歓迎会でやらかした。
理想の女性は酒豪であると宣言したのである。
騎士団員はほとんど貴族の集まりでもあるので、夜会や晩餐会など、警備と参加を持ち回りでこなしている。
その上で、警備希望者はそちらに回されるのが通例だが、あまりにも参加をしなさすぎるということで、リナルドは参加者一覧に入れられてしまった。
今度の夜会は未婚者が多く参加するということで、婚約者すらいない彼に白羽の矢が立ったと、そういうことだ。
執務室に戻って思いっきりため息をつけば、楽しそうな様子の従者がからかってくる。
「ついに団長からもせっつかれちゃいましたね。ま、いい年して恋人もいない身ですもんね」
「煩わしいだけだろう。俺が所帯をもつ柄か?」
「団長もそう見えますけど、立派な愛妻家ですからね。あれですね、熊を素手で倒せる女性を見つけたからですね」
「無理だと思って宣言したら実在してて惚れ込んでしまったっていうアレか……」
そんなやつおらんやろシリーズの第一弾である。
数年に一度は出てくる無理難題の一つであるが、運が良いのか悪いのか、団長には相手が見つかった。
「ですから、相手次第ってことですよ。現に、酒豪なら見つかってるでしょう?」
「まあ、それは……」
ふっと頭をよぎる赤髪の女性。
それを振り払うように頭を振って、リナルドはもう一度ため息をついた。
「まあ、決まってしまったものは仕方ない。酒樽を担いで会場入りするしかないな」
「やめてください。手配はしておきますので」
婚約者がいない場合、親類の女性をエスコートするものであるが、それは夜会を楽しみたい場合である。
周囲のヤキモキする気持ちとは裏腹に、リナルドはまだ身を固める気がないので、堂々と一人で参加した。馬車に酒樽三つを括り付けて。
会場に入れば視線が一斉に集中するが、そんなものは気にせず、壁によって食事を楽しむ。
こういった会の一番いいところは、普段めったに食べることがない食材が惜しげもなく使われており、酒も美味いので舌が楽しいことだ。
それと、あまり交流のない職場の人間と話ができる事。自分から話しかけるタイプではないが、会話は嫌いではない。
女性たちにはチラチラ見られているが、近付いても来ないので無視していればいい。
このまま適当な時間まで飲み食いする。リナルドがいつも通りに過ごしていれば、一人の派手な女性が近付いてきた。
面倒くさい気配がして、彼はさっと逃げた。
女性は追いかけて来ようとしていたが、近くにいた別の男性が狙っていたらしく、うまい具合に行く手を阻んでくれる。
「あ、ちょっと」
「アーチェ嬢、本日も麗しいですね」
「え、ああ、ありがとうございます、令息……」
ちらりと背後を振り返る。
赤金の髪に、淡い桃色の薄布を重ねたドレス。それを白と赤の宝石で飾り立てており、宝飾品も目を引く大きさだ。そこまで来ると、可愛らしさよりも派手ないやらしさが目立つ。
小顔に目が大きく可愛らしい顔立ちで、若い令息たちには人気があるだろう。リナルドとしては何千通りと見てきた女性たちと何ら変わらない出で立ちである。
「腐った匂いがするんだよな……酒がまずくなる」
ああいった類の女性は香水がキツイので、嗅覚がマヒしてしまう。
そうなると、風味が楽しめず何もかもが不味く感じるようになる。できれば近付きたくない手合いだ。
幸いにして会場は広い。
人ごみを縫いつつ早歩きで反対側までやってきて、今度はそこにあるご馳走を堪能するべく飲み物のグラスを手にすれば、辺りを見回す怪しい人物が視覚に入った。
職業柄、その場に馴染まない者は目につきやすい。
誰かを探しているのだろう。
必死になっている姿を笑うことも指摘することもできず、かといってなぜか放っておくこともできず、リナルドは彼に歩み寄った。
「すみません、どなたかお探しでしょうか」
「えっ。あ、ああっ、これは失礼……」
「良ければどうぞ」
「なんと、失礼します」
ぐっと一気に飲み干す。
その姿が最近知り合った女性に似ている気がして、思い至った。
彼の髪色もまた赤茶色だった。
「どなたかお探しでしょうか」
「ああ、いえ、まあその……娘なのですが」
なんとなく困ったような風体で。
言いたくなさそうな雰囲気でもあるが、リナルドは言葉を続けた。
「どのようなお嬢さんでしょうか。良ければ私も探しましょう」
「いえいえ! そんな」
「ここで会ったのも何かの縁ですし」
「ははあ……」
押しの強さに負けたか、困り顔の男性は頭を下げる。
「申し遅れました、私は、アルディル・カサールと申します。探しているのは娘のアーチェ、こういったパーティが好きで、派手に着飾り参加していると」
「アーチェ? それなら、あちらの方で」
「えっ」
先ほど逃げてきた方へ指を向ける。
そこから金赤の髪を揺らして、派手な装いの女性が近付いてきた。
どうやらめげずに追いかけてきたらしい。
「あの方ですよ」
「いや……確かに娘ですが、あれは……」
「お父様!」
目当ての人物が父親と一緒に居たからか、喜色満面で近付いてくる令嬢。
その視線はあからさまに「紹介しろ」と語っている。
「アーチェ嬢ですね」
「えっ、いえ、私は」
「こちらはイラリアで……」
「アーチェ嬢、待ってください!」
「うぇっ」
紹介される前に問いかければ、頬を引きつらせた令嬢が否定を零し、わけがわからないといった父親が名前を訂正して。
その間に、さらに後ろから追いかけてきたらしい令息が、彼女の名前を呼んだ。
イラリアは逃げようとしたが、父親がそれを許さない。
「どういうことだイラリア。パーティで遊び回っているのはアーチェで、お前はいつも家でおとなしくしていると」
「っていうかなんでお父様が夜会にいるのよ! いっつも仕事仕事でろくに家にも帰ってこないくせに、本当はこうやって遊び回っていたわけ? 今日の会は独身が多いの、もしかして愛人でも探しに来たの?」
「はぁ? 何を言うんだ、アーチェを探しに来たに決まっているだろう!」
言い争いを始めた親子。
むろん衆目が集まるので、リナルドは早々にその場から逃げ出し、イラリアを追ってきた男性にそっと近づいた。
「すみません、ちょっと」
「うわっ!」
「聞きたいんですけど、あの女性はアーチェで合ってますか」
「え、ああ、そうだが……」
「彼女はよくパーティに参加を?」
「あー、毎回見かけるな。一晩の相手としてそこそこ人気らしいから、俺も声を掛けてみたんだけど」
「なるほどな、ありがとう」
他人の名前を使って好き勝手しているようだ、と察してリナルドはさらに距離を取った。
カサール氏が探している娘と同じ名前、ということは、姉妹の名前を使っていたのだろう。
「赤茶の髪の娘で行方不明……といってもなぁ」
アリーは使用人の服装をしていたし、やせ細って、指先も荒れていた。令嬢としてはあり得ない風体。
娘を探すカサール氏と似ているとは思うが、この場にいるということは貴族なのだろう、つまり娘は貴族令嬢。
「わからん……」
会場を後にしつつ、リナルドは呟く。
元より頭を働かせるのは得意ではない。
であれば、動くのみだ。
彼はいつもの酒場に足を向けた。
今日も今日とて繁盛している酒場。
その中をせわしなく行き来しながら、アーチェは新しくやって来たお客へと声を掛けた。
「いらっしゃ……」
そして詰まる言葉。
見たことないほど華美に整った男性が佇んでいる。
高級そうな布地に銀糸で刺繍が施され、暗めの髪と目の色が際立って、性別を吹き飛ばして美しいという形容詞しか出てこないほどに打ちのめされた。
同じ世界の人間なのだろうか。いや多分違う。
アーチェが口をあんぐりと空けて棒立ちになっている間に、貴族だろう男性はすっと近付いてきた。
慌てて距離を取る。
「えっ……」
「いやいや! どちらさま、というかお客様ですか?!」
「そうだけども……」
「あれ、アリーは初めて見たのかい?」
「おかみさん?」
固まるアーチェの後ろからげらげら笑いながら恰幅の良い女性がやってくる。
ばしりと背を叩かれて、体が浮き上がった。
「いつもあそこで呑んでる陰気な客だよ。外套ない方がイイ男なんだけどね、恥ずかしがりなのか、あまり素顔は見せないんだ」
それもそうだが恰好が。
呆気にとられるアーチェを他所に、おかみさんは彼をいつもの場所まで案内した。
そのまま注文を取りカウンターへと消えていく。
アーチェは見目麗しい客に手招きされて、誘われるままに正面に座った。
他の客は見慣れているのか気にしていないのか、バカ騒ぎを続けているだけだ。
「驚いた?」
「あーはい。というか、口止め必要だったんですか? 皆さんご存知のようですし」
「名前は知らない……はずだから」
そういうものかと頷く。
「それで、アリーに聞きたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「君の本当の名前は、アーチェ・カサールじゃない? カサール家のご令嬢」
真剣な瞳で。
真直ぐ見られて、アーチェは肩をすくめた。
「いや、覚えていないんで」
「本当に?」
「ん-、まあ、最初にアーチェと呼ばれた気はしますが……」
「やっぱり」
自分の推理が当たって嬉しいのだろう、笑みを浮かべるリナルドに、アーチェは苦笑を漏らした。
「で、名前を呼んできた貴族の奥様みたいなのに、棒で足を叩かれたんですよね。屋根裏から降りる途中で。で、その後は腹とほっぺたを棒で殴られました」
口の端が切れて血も飛んだっけ。
のほほんとそんなことを思い返していたら、青ざめたリナルドが立ち上がったところだった。
それに驚きつつ、アーチェは彼をなだめる。
「や、もう終わったことですし、戻るつもりもないんで」
「だとしても……それが本当なら」
「覚えていないし、いいんですよ。おかみさんもマスターも、お客さんも優しいし楽しいし、ここに来れて良かったって思ってますから」
からりと笑う、そのタイミングで注文した品が来た。
それをご馳走して気持ちのいい飲みっぷりに感心して、仕事に戻る彼女の背中を見送って。
何もできることはないのだと突き付けられ、もやもやした気持ちを抱えながら、リナルドは帰途についた。
その捜索届が提出されたのは、夜会の数日後であった。
「また赤茶の捜索状がでましたよ、カサール子爵家からだそうです」
楽しそうにニヤニヤするのは従者のディック。
有能ではあるのだが、その能力を享楽に使うことが多いため、人の上に立つことを危ぶまれる人物である。
「団長補佐殿の慧眼の通りですね~。あの子、カサール子爵家のお嬢さんの可能性がありますよ」
「本人は否定したけどな」
先日の会話の要点については情報共有している。
それにディックは否定的であったが、リナルドはどこか確認していたようだった。
その答えが、子爵家からの捜索届である。
「噂じゃ、娘さんと奥さんは謹慎することになったとか。アーチェの名前を使って好き放題していたようですね~」
「どこで聞いてくるんだそんな噂」
家内の醜聞ほど人の耳をひきつけるものもないが、厳重に扱われるものない。
よっぽどの伝手でもない限り、たかが子爵家の内情まで把握できるわけがないのだが。
「ディックちゃんの秘密ってやつです」
「うるさい」
「それで、どうします」
どういう意味だと睨めば、へらへら笑って返される。
「探し人っぽい人の目当てがあるのだから、教えますか?」
「それは……そうだろう」
「本当に?」
「なんでだよ。家族が探しているなら、会ったほうが良いだろう」
「親父さんは仕事で家にいない、その隙に継母が虐待してくる、使用人も見て見ぬふり、そんな家に帰す気ですか」
「帰すとは言っていない」
「お?」
その先に何を望んでいるのか、楽しそうに言葉を待つ同僚に嘆息する。
「決めるのはアリーだろう。帰りたければそうすればいいし、残りたいならそれでいい。俺は彼女の選択を尊重するだけだ」
「おや、嫁にしなくていいんですか」
「……それは、アリーが望むなら」
ふっと視線を逸らすその仕草に、ディックは静かに快哉を上げた。
「いつもみたいに酒樽三つ用意しておきます」
「ああ、それと……」
反論するでもなく、狼狽えるわけでもなく。
追加注文までされて、ディックは笑いを堪えられなかった。
いつもの酒場に、カサール子爵と共に入店する。
そこではお客相手に酒飲み勝負をしているアーチェがいた。
「……ルーチェ……?」
呆然と、誰かの名前を呟く子爵。
「ん、あっ、いらっしゃいませー! ご新規さん? カウンターにしますか?」
「あっ、いや」
「私の連れなんだ。いつもの席で」
「はーい! 三名様ご案内ー!」
元気に叫んで、リナルドの席までメニューを持ってきた。
注文が決まったら呼ぶと伝えて、彼女を遠ざける。
愛想よく笑顔を振りまくアーチェをまじまじと見つめる子爵。
リナルドは咳払いをした。
「カサール殿」
「あっ、ああ、すみません!」
「お探しの人ですか」
「はい……あの子は間違いなく、アーチェ……私の最初の伴侶である、ルーチェの娘です」
髪色は父親に似たが、それ以外は母親似らしい。
懐かしむような、慈愛の視線がアーチェの方へと飛んでいる。
「それで、お嬢さんがあれほどやせ細っているのはなぜです。平均より背も低い。最初に会ったとき、彼女は使用人の服を着て、今より細く、痣も見えていました」
「そ……! む、娘たちの事は、妻に任せていました……」
「奥方に。何と言っていたのですか」
「アーチェは、いつも遊び回っていると。家の金で好き勝手に買い物をしていると。現に、アーチェの名前で請求書が届いていました。それに、アーチェのパーティ好きは噂も聞いていたので……」
それで信じ込んでしまったらしい。
実際に娘に会うことはなかったが、信頼している妻の言葉だからと信じたところもあるのだろう。
「全て虚偽でしたね」
「そんな……! 私は、私はどう娘に……ルーチェに詫びれば……」
「記憶をなくしているそうです」
ハッとして顔を上げるカサール子爵。
目を向ければ、楽しそうに働くアーチェがいる。
「戻りたいかと聞けば、絶対に嫌だと強く拒否しました」
「アー……」
「このまま、彼女を自由にするのが、貴方にできる最上の手向けではないでしょうか。あのように笑う娘の姿を、貴方は見たことがありますか。あるなら、それはいつ。どんな時に」
「ああ……娘と、ルーチェと、私と、庭でささやかな食事を……ああ、その頃が、一番幸せだった……」
悔悟の涙を流しながら、俯き小さく縮こまるカサール氏。
さすがに異変に気が付いたのか、酒飲みたちが横目で見てくる。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり、後悔に沈む男のすすり泣く声が妙に響いた。
「あーもう、辛気臭いのはダメだってば!」
そこに、ドンと置かれるジョッキ。
こぼれたエールが机を濡らすが、それよりもアーチェが掲げたもう一つの器の方に目がいった。
それは飲むための物ではなく、保存するための容器。小樽を加工して片方の口を開けたもので、大の男でも飲み干すのは容易ではないと理解に訴えてくる代物。
「そういうのを吹っ飛ばすために飲むんですよ! オッサン、何の悲しいことがあったか知らないけど、そういうときこそ笑わないと! そのための、お酒と美味しいおつまみです!」
マスターがお代わりだろう樽を持ってくる。
「そうだよ、何があったって、とりあえずバカ騒ぎしてすっきりして寝れば、大体なんでもうまくいくようになるんだよ! 悩むだけ無駄なのさ、ほら飲みな!」
おかみさんが大量のつまみを持ってきた。
それを置くと、机のジョッキを項垂れる男へと突き出す。
カサール子爵はそれを受け取る。アーチェがにっこりと笑った。
「乾杯の挨拶は何にする? 出会いに?」
「……いや、再出発に」
「そう、再出発に!」
そのまま、なみなみ入っていた樽の中身を一気飲みするアーチェ。
暴挙ともいえるその所業に、飲んだくれたちのボルテージも上がる。
「で、馬車に積んできたやつを運び入れたんですけどね」
「ああ、ご苦労だディック」
「うまい事まとまったんですか? で、これどうするんです」
袋を放って渡されて、リナルドが少しよろめく。
そう軽々しく扱わないでほしい。
「アリー」
小樽でもう一杯飲みほした女性を手招きすれば、彼女はすんなりとやって来た。
あれだけの物量が収まっているのも不思議なものであるが、全く酔った様子がないのも恐ろしい。
「ここに金貨五十枚あるんだが、うちにこないか」
「え」
目の前に袋を置いてやる。
じゃらりとなる音が、中身に相違がないことを示していた。
「あの、人身売買はちょっと」
「いやそうじゃなくて」
「え、彼女に渡すんですか。マスターへの袖の下だと思ってました」
「いやだから、金貨五十枚あれば考えるって……」
「言いましたっけ? ほら、記憶喪失なので」
「そういうところですよ、貴方が本質的にはモテないのって」
「ああもう! これは単なる会計だ!」
「無理がある」
アーチェは未だに酒場で働いている。
時折やってくるようになったカサール氏は、楽しそうにしている彼女を見ては嬉しそうにしている。
二人目の夫人と子供とは縁を切るために係争中で、社交界のいい噂のタネとなっているが、特に気にしていないというか、むしろ率先して相手の悪口を零しているらしい。
なかなか陰湿なことをしているが、自分の失脚に二人を巻き込む心積もりのようだ。
なお、アーチェを目当てにやってくる客は彼だけではない。
その中でも最も熱心な青年がいるのだが、彼は数多のライバルたちを蹴散らして、今のところアーチェの関心を一番強く集めている。
周りとしても、まあそろそろくっついても良いんじゃないかと生ぬるい目で見ているくらいだ。
その酒場からは楽しげな声が聞こえてくる。いつも通りに、いつものように。
恋愛モノ書けない呪いを解こうとしたんですが、単なる飲んだくれになっただけでした…
ざまぁとか難しい! というかヒーロー像って難しい! 格好いい男性より格好いい女性がイイ!
健気女子も好きだけど自分の気質的に絶対書けない。敗因はこれか…!
あと呪いを解こうと思っただけなのでストーリーとかいろいろ無いです!