612.5 手記30
「どうしてここに……」
上の階の猫が、どこから入ったのか俺の背中に触れていた。
生き物の温もり——……
紛いモノの。
花も木も、こういう生き物も、すべては誰かが創り出した幻想だ。
「帰りなよ」
何もないこの部屋にいる必要がない。
……求めていない。
それでも、背中はただ、暖かかった。
「宗一郎君、入るよ」
三島さんは、いつもそう言ってから入ってきた。
季節が、どのくらいの速さで移ろいだのか分からない。
それでも、少しずつ事態は進んでいた。
「ビー玉ソーダ買って来たんだ。飲むかい?」
炭酸で喉を潤したかった。
シュウジとみっちゃんが好きなビー玉ソーダ。
幾夜もの思い出——
「……飲みます」
冷たい壁に凭れて、ビー玉をソーダの中に落下させる。
二酸化炭素が弾ける音が耳についた。
「猫……」
「ん?」
「猫が居たんです」
「へぇ」
三島さんは、銭湯の匂いをさせてくる。
何度も誘われたけど一度も一緒には行かなかった。
「もうすぐ完成するよ。僕たちの二号機」
ハイドロレイダーは、複数名の合力で力を増幅し、不足部を補うシステムにされた。
「搭乗者連携システムの実現は考えつかなかったな……宗一郎君のおかげだよ」
でも、三島さんも俺も、特務機関のスタッフの誰も、新しいレイダーには適合しなかった。
機械じゃなく、生物の心理やバイオリズムに詳しい人材が必要だった。機械と、それを繋ぐ存在も。……父さんなら、出来たかもしれないのに。
「まぁ、適合者を探す測定式はもうあるわけだし。誰かしらみつかるよ」
その誰かしらがまた、俺のような存在だったら。
未来を望む力を失った存在だったら……。
「大丈夫。少なくとも、君と出会えて二号機の開発が進んだわけだしね」
「……機関は……古代のアニメや特撮に影響されてる人が多すぎるんですよ。もっと理論的に検証しないと」
「まぁ人型である必要も本当はなかったよね。でもモチベーションって大事じゃない」
否めない……のかもしれない。少なからず、俺の喉は炭酸を感じることが少しずつ増えていた。
ハイドロレイダーであればもしかしたら……IOP消失を……ほんの少しの可能性かもしれない。……それでも、防げたかもしれない。
でも今更意味があるのか……上手く行くのか。
靄に飲まれるような想像ばかりが繰り返される中で、目にも映らないような不確かな光——
「いいんだよ、手を動かしていればさ」
そんな風に言う三島さんも、最近は和室の壁に凭れて宙を見つめることが増えていた。
それを咎めることも、励ますことも、今の俺には出来ない。
ガラス瓶を揺らすと、夜の光を反射したビー玉がカラカラ鳴って、二酸化炭素が弾ける音が、ただ、鳴り続けた。




