いつかの光景
どこか遠くで、鳥がばさばさと飛び立つ音がする。
「…………ねえさん、夜が来る前に、屋敷に入ろう」
日が沈むにはまだ少し早いけれど、物事には不測の事態がつきものだ。
“かれら”によって、予定よりも早く夕闇が訪れることは珍しくないので、用心するに越したことはないだろう。
「ええ。そうしましょう」
頷いたシェリアに、アンディは片手を差し出した。
これはもしかして、エスコートだろうか。
首を傾げつつ、シェリアは自分の手を重ねた。
「ここのやつらは、ねえさんに好意的だけれど、それでも種族としての違いはある」
手を引いて一歩先を歩くアンディの後ろ姿に、シェリアはふと見覚えがある気がした。
この光景をどこかで目にしたことがあるような。
「…………前にも、こういうことあった……?」
シェリアがぽつりと疑問を呟くと、アンディがぱっと振り返った。
シェリアの瞳に、目を丸くしたアンディの姿が映る。
「…………気のせい、じゃないかな」
否定の言葉を口にして、アンディは目をそらした。
確かに、シェリアとアンディは一緒に出掛けたことなどない。会話だって、ほとんどなかったくらい、関わりはなかった。
そのはずなのに、何かがひっかかるのだ。
背中を向けようとするアンディを引き留めようとシェリアが口を開きかけた時──シェリアのお腹がぐうと鳴り空腹を訴えた。
そういえば、クッキーがしっかり焼けているか試しに食べたくらいで、きちんと昼食は摂っていない。
そのことを思い出したシェリアは、なんともいたたまれない気持ちになって俯いた。
「──これ、食べる?」
視界の端にバスケットが映る。
シェリアが顔を上げれば、心配そうなアンディが目の前に差し出していた。
差し出すその手は、ぷるぷると震えている。
「……ありがとう。でも、大丈夫よ」
自分で食べたいのに分けようとしてくれているアンディに、シェリアは思わずくすりと笑う。
彼女は感謝しつつも、そっとアンディの手元にバスケットを押し戻す。
「それは、アンディの為に焼いたものだもの。……渡す前に一個欠けてしまったけれど」
アンディは納得いかない表情をしている。
本当に大丈夫かと、いいだけだ。
問題ないのだと、アンディを安心させようとシェリアは微笑んだところで──ふたりに呼び掛ける声がした。
「──あら、シェリアにアンディ。ふたりとも、ここにいたのね」
声の先を振り返れば、シェリアとアンディの母親であり、シーリティ伯爵夫人であるクラリスがいた。
「とても美味しそうな匂いがするわね」
そう言ったクラリスが、大事なおやつが入ったバスケットを覗こうとしたので、アンディは慌てて後ろ手に隠した。
アンディの様子に、クラリスはまるで悪戯っ子のような表情を浮かべて、少しだけ距離を縮めた。
アンディはというと、自分の分け前を渡すまいと、クラリスからの視界に映らないよう死守しようとしている。
これは、誰かが止めねばならないだろう。
そう考えたシェリアは、ひとまず、ふたりの間に割って入ることにした。
「…………お母様、アンディをからかうのはやめてください」
シェリアがさりげなくアンディをかばうように立てば、クラリスは肩をすくめて降参したように微笑んだ。
「……そうね。ほどほどにしておきましょう。ごめんなさいね、アンディ」
シェリアとクラリスの様子から、どうやらクラリスが本気ではなかったらしいと知ったアンディは、少しだけ頬を膨らませてみせた。
「あら。怒らせてしまったわ」
「…………当たり前です……」
シェリアは少しだけ呆れたように呟いた。
クラリス・シーリティには、少々悪癖がある。
結婚してこの地に根付くまで病弱だった彼女は、少女のような心を持ち合わせていて、時折気まぐれに、からかってみせるのだ。
シェリアは書物上でしか“かれら”を知らないが、もしかしたら、妖精よりも妖精らしいのではないかと思わずにはいられない。
「……どうしたら、機嫌をなおしてくれるかしら。……そうだわ。ふたりとも、ここで待っていて。すぐに戻ってくるから」
クラリスはそう告げると、早足で廊下を去っていく。彼女は大きな紙袋を抱えていたので、きっと置きにいったのだろう。
シェリアとアンディがエレンと出会ったのは屋敷の裏口に差し掛かるところだったのだが、この裏口は、シーリティ伯爵家の当主夫人用の別邸への出入口でもある。
クラリスは週の半分ほどをこの別邸で過ごしている。
何をしているのかシェリアは知らない。
残りの半分は、朝早くからどこかに出掛けては、日が傾く前には帰ってくる。
これもやはり、何をしているのかシェリアは知らないが、日に焼けて帰ってくるので、どうやら領地内を見回っているようだ。
「アンディ。とりあえず中に入りましょうか」
シェリアが提案すると、アンディは頷いた。
このまま扉の前にいるよりは中に入った方が良いだろう。
そう考え、ひとまず、シェリアとアンディと屋敷の中へ入ると、小走りでクラリスが戻ってきた。
なにやら、見覚えがある皿を持って。
「……アンディ。お詫びにこれを」
そう言ってクラリスが差し出したのは、シェリアが焼いたはずのアップルパイだった。
なんと、まるまる一台分ある。
「…………お母様」
このような場合、自分で焼いたものを差し出すものではないだろうか。
困惑したシェリアを横に、アンディはバスケットの持ち手を腕にかけると、差し出されたお皿を引っ込められる前にとそそくさと受け取り、大切そうに抱えた。
そのアンディの様子に、シェリアは胸に湧いた疑問はしまうことにした。
バスケットにお皿にと、持つのは大変だろう。
シェリアは、どちらかを持とうとアンディに協力を申し出てみたが、首を振って却下されてしまった。
「……有難うございます、……お母様」
アンディはそう言ってクラリスに一歩近付くと、彼女の耳元で密やかな声で告げた。
「…………心配しなくても、すぐに帰ってきますよ」
その言葉に、はっとした表情を浮かべたクラリスが、どのような意味かと訊ねようとした時には、シェリアとアンディは彼女にすっかり背を向けて、階段室に向かって歩き始めていた。