幼いシェリアと記憶の底⑦
「──これで、今年の宴の開催も問題ない」
延々と続いたお菓子作りが終わりを迎え、シェリアは、ほっと息を吐いた。
消費したそばから補充されていく材料たちに、一時はこのまま永遠にお菓子製作を続けることになるのではないかと不安に駆られたが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。
幼いシェリアには少しばかり不便な、大人用のサイズの台所と調理器具たちを使ってのお菓子づくりは、なかなかに大変であった。
おまけに、いつ終わるかは分からないのだ。
その作業を思い出すだけでも、シェリアは気が遠くなりそうだった。
これはもしや、妖精たちの棲みかに、人間であるシェリアが踏み込んだ罰なのではないだろうか。
作業中、ふいにそんな懸念が頭に過り、シェリアは、思わず背後で見守る宴のおやつ係を振り返って見たのだが──
シェリアと目があった赤褐色の髪を持つ生き物のひとりは、羽根をひらひらとさせ、きらきらとした期待に満ちた視線を返してきた。
他の小さな生き物たちも同様に。
そこには、悪意は欠片もなく。
──ということは、つまりこれは、本当にただ先が見えないだけのお菓子づくりであるらしい。
そう結論を出したシェリアは、小さく息を吐くと、ホイッパーで再びかき混ぜるのだった。
「──さて、それでは、記憶をけさなくては」
「…………え」
思いがけない言葉に、シェリアは回想から現実へと引き戻された。
「しんにゅうしゃの記憶は、」
「おどして消す、きまり」
「今回は、とくべつ」
「おどさずに、消す」
「しゅっけつ、大サービス」
赤褐色の小さな生き物たちに、シェリアはいつのまにか取り囲まれていた。
「宴のきょうりょくに、感謝する」
「きっと、女王さまも、」
「およろこびになるに違いない」
「うむ、われわれも」
「いいしごとをした」
どうやら、理に属する者から助けてくれたのは、宴のお菓子の為であり、用が済んだからお役御免ということのようだ。
因みに、一応、お菓子づくりの仕事をしたのはほぼシェリアである。
赤褐色の髪の小さな生き物たちも、確かに人間であるシェリアを妖精丘の台所に連れてくるという仕事をしたが。
「──さて、それでは」
どうやら、本当に記憶を消されるらしい。
シェリアが咄嗟に、台所の隅にいる困惑した表情の少年に視線を向けたその時──
屋内だというのに、天井から、ぽたぽたと水が落ちてきた。
ぽたぽた。ぽたぽた。
シェリアと、赤褐色の小さな生き物たちが、反射的に頭上を見上げると──
そこには、なにもなかった。
ただの真っ白な天井だけが、そこにはあった。
疑問に思ったシェリアと赤褐色の髪を持つ者たちが、首を傾げていると──
ぽたぽた、ぽたぽた。
何の仕掛けもないはずの天井から、突然、水滴が発生して、こぼれ落ちてきた。
「………あま、もり……?!」
「丘で……?!」
「森のそとのかんしょうは、うけないはずでは……?!」
「われわれの、しろが……!」
赤褐色の髪を持つ者たちは、戸惑い、困惑と嘆きの混じった声が上げた。
「おやつ……!」
はっと気付いた表情の赤褐色の髪を持つ者が、慌てて宴のお菓子があるはずのテーブルの方を振り向いた。
せっかく用意した大事な宴のお菓子がだめになってしまうかもしれない。
──だが、先ほどまであった宴に出すはずのお菓子は、そこにはなかった。
「ど、どうして……」
あるはずのクッキーが、ない。
目を丸くした赤褐色の髪を持つ者たちが、視線をさまよわせて探せば──何故か、雨のように透き通った髪を持つ者たちがいた。
宴の為の大量のクッキーの入ったバスケットを、数人で大切そうに頭上に抱え上げて。
「あめがないなら、」
「あまつぶ、ひとつ」
「あめがふっても、」
「あまつぶ、ひとつ」
雨に属する者たちは、背中の羽根をひらひらさせ、楽しげに歌う。
まるで、雨乞いでもしてるかのように。
「あ、あめは、屋内で、ふらせるものではない」
「われわれの、宴のおやつ……!」
「がんばったのに……」
宴のおやつ係でもある赤褐色の髪を持つ者の、嘆く声が聞こえる。
因みに、頑張ってつくったのは、一応シェリアである。
「こうかん、じょうけん」
「きおくを消すの、だめ」
「そのまま、かえすべし」
雨に属する者たちは、告げた。
どうやら、宴の菓子は人質ならぬ物質であるらしい。
「…………まもらないと?」
大切な宴のお菓子だ。返して貰わなければ大変なことになる。
赤褐色の髪を持つ者たちは、問いかけた。
「ことしの宴の、おやつはなし」
「おやつ係、しっかく」
「くび」
雨に属する者たちの返答に、赤褐色の髪を持つ者たちは衝撃を受けた。
絶対守れない条件なのに、無茶苦茶だ。
このままでは、今年の宴の菓子は無しになってしまう。
どうしよう。
もう一度、この人間の少女につくらせるべきだろうか。
だが、人間の少女は、何故かいつのまにか、雨に属する者たちに囲まれている。
これでは、近付くのは難しそうだ。
「し、しかし、それは」
「われわれが、決められることではない」
「理のそんざいに、かかわる」
赤褐色の髪を持つ者たちは、説明した。
妖精という生き物は、自分の属性に反すれば、存在が消えてしまうことさえあると。
だから、シェリアの記憶を消すのだ。
妖精たちの森へとやってくるほどのシェリアの妖精への好奇心は、妖精たちにとって危険だから。
理の妖精は、共存のルールを脅かす存在を排除しなければならない存在で、森にやってきた人間を無害にして追い返さなければならないから。
その役割は、理の妖精がこの場にいなくても有効なのだ。
赤褐色の髪を持つ者たちは、同胞を危険に晒す気などなかった。
ただ、宴の準備の為に一時的に借りたに過ぎない。
だが、この雨に属する者たちは、そうではないらしい。
「──記憶って、」
「けさないと、だめ?」
「ぜったい?」




