幼いシェリアと記憶の底⑤
先ほどの風が吹きすさぶ音が合図だったのだろうか。
シェリアと少年を取り囲む気配がする。
シェリアには姿は見えない。
だが、確実になにかがいる。
それらは、侵入者であるシェリアを警戒しているのだろうか。
ぞわりとした感覚に、シェリアは思わず腕をさすった。
「人間だ」「にんげん」「なにしに?」
「このじきに」「まもなく、うたげなのに」
「まさか、じゃましに?」
「だとしたら」「はいじょ、だ」
「それとも、もしや」「みずから、くもつに?」
風がざあっと吹いた。
身の危険を覚え、がたがたと身体が震えたシェリアは、思わず尻餅をついた。
来るべきではなかった。
来るべきではなかったのだ。
人間は安易に足を踏み入れてはならないのだと、言われていたのに。
知っていたのに。
後悔しても、遅いのかもしれない。
人間はいつだって、取り返しがつかなくなってから気付くのだ。
不穏な気配に反応して、シェリアの瞳から、はらはらと涙がこぼれる。
こぼれてこぼれて、地面に落ちていった、その時──
「あめが、降ったら」
「われらの、でばん」
「あめが、なくても」
「われらの、でばん」
場の雰囲気に不釣り合いな楽しげな声が、どこからか聞こえてきた。
気のせいだろうか。
周囲が、ざわざわとし始めている。
「あめが、ないなら」
「あまごい、しよう」
「あめが、ふっても」
「あまごい、しよう」
楽しげな歌声と共に現れた小さな生き物たちは、雨のような透き通った、紫陽花のようなグラデーションの髪をしていた。
シェリアが、森に来るときに出逢った子たちだ。
「とうちゃーく」
シェリアの姿を認めるや否や、にこにことはもり、掴んでいた木の枝からシェリアのいる地上まで軽やかに着地しようとしたのだが──地面に真っ逆さまに落下していった。五人同時に。
「ぴゃう」
なんとも残念な声が、その場に響いた。
「──あめが、なんのようだ」
どこか非難めいた、それでいて困惑したような声がした。
すこしばかり、声を発するまで間があったのは、気のせいではないだろう。
「なに、しに?」
投げかけられた問いに、地面から顔を上げ、一様に首を傾げた雨に属する者たちだったが──
「宴にきたの!」
あっ、と思い付いたらしいひとりが答えると、皆同様にうんうん、と頷く。
「宴には、まだはやいが……」
「うん、だからね……」
夏至はまだ先だ。宴にはまだ早い。
意気込んで参加しようと来たのなら、浮かれすぎにもほどがある。
若干呆れ気味に対応した者に対して、雨に属する者たちだったが──
「いくのが、はやい」
「道案内の、いみをしるべき」
その声を遮ったのは、突如土の中から現れた、赤褐色の髪を持つ小さな生き物たち。
ひとり、ふたりと地面の中からぽつぽつと現れ、あっという間に、シェリアの両手の指の数を遥かに超えた人数が集まってしまった。
「──こんどは、土か」
「これもまた、めずらしい」
「ふだんは、丘からでないのに」
突然現れた土に属する者たちに、対応しようとしたのだろうか。
樹木の向こうから、草花の陰から、ひとり、またひとりと小さな生き物たちが現れた。
それらの視線は全て、赤褐色の髪を持つ、土に属する者たちへと集まっている。
シェリアと少年の存在など、すっかり忘れられてしまったようだ。
不穏な空気はどこへやら、いつの間にか、この場は小さな生き物たちの集会へと変化している。
「なにしに、きたのだ?」
代表して質問してきた小さな生き物に、赤褐色の髪を持つ者たちは、当然のように答えた。
「決まっている」
「じんざい確保だ」
「宴のじゅんび!」
「──宴の、じゅんび?」
訝しげに首を傾げた小さな生き物は、暫しの逡巡のあと、ふと思い付いたようにシェリアに視線を向けた。
「──これ、で?」
そして、シェリアを指し示すと、とんでもないことを訊ねた。
「……たべるのか?」
驚いて身体が跳ねたシェリアは、思わず確認するように少年の方を向いた。
少年は首を横に振るが、それは一体、どちらの意味だろうか。
まさか、ぺろりと食べられてしまうのだろうか。
危険とは、そのような意味だったのか。
「まさか、」
「それとも、」
「理は、たべるの?」
赤褐色の髪の小さな生き物たちは否定すると、訊ね返した。
反対に問いかけられた方の理と呼ばれた小さな生き物は、慌てて否定する。
「冗談だろう。われわれは、そのような悪食、などではない」
心外だとでも言いたげに、小さな生き物は全力で否定した。
「でも、さっき、」
「供物って」
「言ってた!」
赤褐色の髪を持つ者は、『違うの?』とでも言いたげに首を傾げる。
「あれは、脅しただけだ! おどかして、追い返す。それが、われらの、やり方だったはず!」
『断じてそのような真似はしないぞ』とでも言うかのように、身振り手振りで全力で説明する。
「まねかれていない人間は、きけんだ」
それは、この森においての真理だ。
好奇心で踏み込んできた人間に、同胞が拐われかけたこともあるし、羽根をもぎられたこともある。
こうして脅かして追い返すことは、とても大切な儀式だ。
「でも、今回は、れいがい」
「だって、宴のまえだもの」
「しかし……っ」
当然のように断言する赤褐色の髪を持つ者に、理と呼ばれた小さな生き物は、食い下がる。
当然だ。宴の前だからといって、危険人物かもしれない人間を招き入れるわけにはいない。
宴の前だからこそ、といってもいい。
「……そうだ、供物だ。貢ぎ物の菓子のひとつもないようなやつなど追い返すべきだ!」
『これならどうだ!』と誇らしげに告げた理の妖精に──
「…………おやつ、もらったよ」
そう恐る恐る告げたのは、菫色の髪をした小さな少女。
自身の身体の何倍もの大きさの花の影からこっそり姿を現した彼女は、バスケットの中から突如消えたと思われたクッキーの消失先のひとりだ。
「……なに?」
理に属する者に威圧するように視線を向けられ──
「…………ひっ」
悲鳴を上げた小さな少女は、花の影へと戻っていく。
彼女が怯えるのも無理はない。
理に属する者は、同胞にだって容赦はないのだ。
「そういえば、ぼくも」
「わたしも」
小さな少女に加勢したのは、赤褐色の髪を持つ小さな生き物たち。
昼に、森へ向かう途中に転んだシェリアが落として、土に沈んでいったクッキーの受け取り妖精だ。
「おかし係にぴったり」
「これもきっと」
「女王さまのおぼしめし」
まさか、自分たちが昼に菓子を受け取った人間が、今回の侵入者だったなんて。
これは、女王様の思し召しといっていいだろう。
理に属する者は、浮かれる宴のお菓子係を横目に、侵入者の排除を諦めざるを得ないのだった。




