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幼いシェリアと記憶の底③

「うう。もうしわけない……」

「しつれいしてしまった……」


 泥のおばけ──ではなく、全身泥まみれになった小さな生き物たちが、ぺこりと頭を下げた。


 ぬかる遊びに夢中になっていた小さな生き物たちは、気が済むまでぬかるみに飛び込んで遊んでいた。

 そして、散々遊び尽くしたあとに、はっと我に返り、シェリアの存在を思い出したらしい。

 今、シェリアの目の前で、全員が深々とお辞儀をしている。


 残念ながら泥にまみれて表情は見えないが、きっと申し訳なさそうな表情をしていることだろう。


「……わ、私は大丈夫だから、気にしないで」


 畏まられて恐縮したシェリアは、慌てて両手を横に振った。


 目の前に突然、妖精らしき存在が現れて、遊び始めたのだ。

 シェリアは、どきどきしながら、小さな生き物たちの一挙手一投足を興味深く見守っていた。

 むしろ、もう少し見守っていたかった気持ちような、終わってしまって残念な気持ちである。


 しかし、この小さな生き物たちにも大事な用事があるようだ。

 いつまでも遊んではいられないだろう。


「それじゃあ、おねが……あっ」


 そう言いかけた小さな生き物たちのひとりが、自分たちが全身泥まみれであることに気付いたようだ。


 いつの間にかどこかにしまっていた葉を取り出すと、空に向けて掲げた。

 すると、小さな生き物たちに降り注ぐ雨だけが強くなりだし、泥を洗い流していく。


 まるで魔法のような光景に、シェリアは感嘆の息を漏らす。

 だが、当人たちは不服のようだ。

 

「あめのじかんも、こうやって、のばせたらいいのに……」

 

 ぽつりと呟かれた声は、雨の音に飲み込まれていった。



「るんるんるーん」

「きょうは、すてきな、あめびよりー」


 シェリアのスカートの上で、小さな生き物たちが鼻歌まじりにうたい、楽しげにはしゃいでいる。


 本人たちの希望通りシェリアのスカートにぶら下がる──のではなく、シェリアがスカートの裾を摘まんでハンモックのような形状にし、窪みに小さな生き物たちが乗り込む形だ。


 貴族の令嬢が人前で足を出すのは、はしたないそうだが、幸いここにはシェリア以外の人間の姿はいないので問題ないだろう。多分。


 森へと繋がる道を、ただひたすらに歩いていく。

 ひとりで向かうはずだった旅路は、今はちょっぴりにぎやかだ。


「あめがあれば、まいにちたのしい」

「それさえあれば、なにもいらない」

「でも、たまにはおやつもほしい」

「あめふれ、あめふれ、どんどんどーん」


 なんとも不思議な歌をうたう小さな生き物たち。

 先ほど、無力感に打ちひしがれ落ち込んでいたのは嘘みたいに、楽しげだ。


 紫陽花のような不思議なグラデーションの髪が、雨で濡れて透明感が増す。

 真っ暗闇の中で、光を帯びていて、まるで唯一の灯りみたいだ。


 シェリアは、小さな生き物たちを見守りながら、ふと考えた。

 焦燥感に駆られて衝動的に飛び出して来てしまったけれど、これでよかったのか。

 クラリスも心配しているかもしれない。

 けれど、あのまま部屋にはいたくなかったのだ。


 シェリアが自問自答を繰り返し、小さな生き物たちが楽しげにうたっている間に、森の前まで辿り着いた。


 目的地に着いたので、ここでお別れだ。

 小さな生き物たちは、シェリアのスカートの上から、ふわりと降りた。

 森の向こうにある丘に用事があるらしい。


「じょうおうさまに、あうの」

「まいにち、あめにしてもらうんだ」


 きらきらとした瞳で目的を教えてくれた生き物たちは、屈んで見送るシェリアの手のひらの上に、なにかをのせた。

 触って確かめると、葉や茎で出来た感触がある。


「ありがとう」

「また、どこかで」

「あめのひを、よろしく」


 そう言って、ぺこりとお辞儀をした小さな生き物たちは、ふわりと地面から浮上すると森の奥へと飛んでいったのだが──


「ぴゃう」


 姿が見えなくなった森の奥から、小さな悲鳴が聞こえた。



 道中出逢った小さな生き物たちを見送ったシェリアは、森の中へ一歩踏み出した。

 すると、背筋が凍るような感覚を覚えた。


 ざわざわと、木々の葉が掠れる音がする。

 ただそれだけなのに、シェリアの心をざわつかせ、金縛りにあったように動けない。


「──もう、来たらだめだって言ったのに」


 ふいに、頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。


 その瞬間、呪縛から解放されたシェリアが顔を上げると、そこには、昼間出逢った少年が眉を顰めて樹木の枝の上に座っていた。


「すぐに帰った方がいい。もう日が暮れてしまっているし、この暗さは人間が過ごすには危険すぎる」


 少年はそう告げ、地面に飛び降りると、シェリアに手を差し出した。

 案内してくれるのだろうか。


「帰ろう。もうすぐ夏至祭が近いんだ」

「……夏至、祭?」

「多くの妖精たちが集まってくる。人間(きみ)に害意を持つやつもいるかもしれない」


 焦りを滲ませた表情で、急かすように言う少年の手のひらを、シェリアはじっと見つめた。


 帰らなければいけない、らしい。

 危険だから。理由は分かる。


 今この瞬間さえも、シェリアの本能が危険だと訴えている気がする。


 帰らなければいけない。

 わかっている。それでも、


「……かえらなきゃ、だめ?」


 泣きそうな縋るような声が出て、シェリアは自分でびっくりした。

 シェリアの様子に、少年も狼狽えているようだ。


 今にも泣き出しそうなシェリアと少年の間に、僅かな沈黙が訪れた。

 ざわざわと、木々の葉が掠れる音と、どこか遠くで鳥の泣く声が聞こえる。


 危険だって分かっている。でも帰りたくない。

 なんて子どもじみているんだろう。

 シェリアは、自分自身に呆れてしまった。


 おまけに、なんて物わかりが悪いのだろうか。

 突然屋敷を飛び出して、きっとクラリスを心配させているだろうし、今もこうして見知らぬ少年を困らせている。


「──ごめんなさい。……帰るね」


 ざわりと、風がさざめく。


 そう言うや否や、足に蔦が絡みついた。

 それは、シェリアを地面にずるりと飛び込ませた。


 地面に伏せた状態のシェリアが動けないでいると、今度は、大きななにかが迫ってきた。

 とても大きくて、シェリアを飲み込めそうなほどの赤い花だった。


 シェリアは、足を蔦に掴まれたまま、呆然として動けない。

 思わず、ぎゅっと瞼を瞑った。


 だが、予想していた危機はこない。

 シェリアが恐る恐る目を開くと、大きな花が去っていく姿が見えた。

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