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幼いシェリアと記憶の底②

 無事に森から帰ってきたシェリアは、書庫で本を開いていたのだが、どうにも集中出来ず、ぱたりと閉じた。


 今日は、目の前でクッキーが消失したり沈みこんだりする不可思議な現象を目の当たりにした。

 だからだろうか。心が浮き足立って落ち着かない。


 あの現象はきっと、“ひとならざるもの”の仕業だろう。もしかしたら、妖精の仕業かもしれない。

 やめた厨房係が見たという幽霊の仕業の可能性もあるけれど。


 抱えていた本を棚に戻し、シェリアは書庫を出ると、一階へと向かう。もうすぐ、夕食の時間だ。


 昼に続いて、恐らくスピナッチまみれだろう。

 日が暮れてからの帰宅になったしまい、心配させてしまったのはシェリアなので、お仕置きは仕方がないがどうにも億劫である。

 せめて、デザートは緑色でないといいなと、シェリアは思った。



 緑色のコテージパイを前に、シェリアは小さく息を吐いた。


 牛肉とマッシュポテトで出来たミートパイ。

 本来ならばとても美味しく頂くのだが、なにやら余分なものが混ざっている。


「うう……」


 苦手だからといって残すわけにはいかないので、口に運ぶが、なんとも複雑である。

 因みに、緑色が練り込まれたパンや緑色のクリームスープもあって、逃げ場はない。


 なんとか食べきると、食後のプディングが現れた。

 幸いなことに、緑色は混ざっていないようだ。


 ほっとしながらシェリアが食べ進めていると、目の前に、クラリスが現れた。


「もう、相変わらずなんだから。そんなんじゃ、お嫁に行けないかもしれないわ」


 クラリスにとっては、他愛もない軽口のつもりだったのかもしれない。

 しかし、幼いシェリアにとっては、衝撃的な一言だった。


 漠然と、ずっとシープリィヒルにいられるのだと、なんの根拠もなく思っていたのだ。


 どこか遠くの方で雷が落ちる音がした。


「──およめ、に?」


 確認するように訊ねたシェリアに、クラリスは、こくりと頷いた。


「ええ。今すぐではないけれど。いつか、シェリアが素敵な淑女(レディ)になったときに」


 ◇


 漠然と、それでいて当たり前のように思っていた。

 ずっと、この地にいられるのだと。

 誰に言われたわけでも、約束したわけでもないのに。


 雷が鳴り響く音がした。どうやら、食事の時よりも近いようだ。


 ざあざあと、雨が降り始め、窓を雨粒が打ち付ける音がする。


 妖精たちは、雨の時はどうしているのだろう。

 窓のずっと向こうにある森へと、シェリアは思いを馳せた。


「もう、ここに来てはいけないよ」


 帰り際に、少年に告げられた言葉が脳裏に甦る。


 どうして、ずっとこの地にいられないんだろう。

 どうして、森へ行ってはいけないんだろう。

 疑問が、ぐるぐると渦を巻く。


 シェリアは、指先で窓へそっと触れると、窓の向こうを眺めた。真っ暗闇の向こうへと。

 

 ◇


「るんるんるーん」

「あめふれ、あめふれ、いっぱいふれー」

「きょうは、すてきな、あめびよりー」


 小さな生き物たちが、背中の羽根をはためかせ、空をふわりと舞った。

 蓮の葉を傘のように持ち、ゆるやかに落下していくかと思えば、今度は横向きに滑るように飛んでいく。


 人間の手のひらほどの大きさの人の形をした小さな生き物たちは、雨のように透き通った、紫陽花のようなグラデーションの不思議な色の髪を風に靡かせ、楽しそうにはしゃいでいる。


 どうやら、この小さな生き物たちは雨がとても好きなようだ。

 

「まいにちがあめだったら、いいのに」

「それ、うれしい」

「じょうおうさまにお願いしたら、なるかな」

「まいにちがあめ。なんて、すてきなの!」

「さっそく、おねがいしてみなくっちゃ」


 どうやら名案を思い付いたらしい小さな生き物たちは、丘の方へと飛んでいくのだった。



 雨具を持たずに屋敷を飛び出したシェリアを、雨が濡れ鼠へと変えていく。


 どこか、どこか遠くへ。

 衝動に駆られて、シェリアはただひたすらに歩いていた。

 昼に通ったばかりの、妖精たちが棲むという森への道のりを。


 柔らかな日射しに包まれていた道は、今は降りやまない雨のせいで薄暗く視界も悪いのだが、幸いなことに妖精たちの棲むという森は、まっすぐな道だし、シェリアはそのことを覚えている。

 

 その為に迷わず歩けているのだが──トラブルというのは、突然降ってくるものであるらしい。

 シェリアの頭部に、なにかが勢いよく連続でぶつかったあと、地面に転がっていった。


「かぜで、葉っぱが、やぶけてしまった」

「いずみの子にもらった、かさが」

「ひゃくねんものの、宝ものなのに」

「おきにいり、だったのに」

「葉がこわれては、むりょくだ……」

 

 どこからか、しょんぼりと落ち込んだ声が聞こえてきた。

 それは、雨の音に掻き消されそうな小さな声ではあるけれど、シェリアの耳にはしっかりと届いた。

 

 しかし、肝心の声の主の姿が見つからない。

 辺りをきょろきょろと見渡してみても、シェリア以外の人間は見当たらないのだ。


 空耳だったのだろうか。きょとんと首を傾げたシェリアの足元から、なにやら声が聞こえてきた。


「おーい」

「ここ、ここです」

「かさが、こわれたの」


 シェリアは屈んで、地面を凝視してみるものの、声の発生源であるはずのその場所には、なにもいない。


「あのねあのね、おかにいきたいの」

「じょうおうさまに、あうの」


 瞬きを何度も繰り返し、目元を擦っていると、次第にぼんやりと輪郭が浮かび上がっていく。

 その光景に、シェリアは驚きを隠せない。

 

 雨でぬかるんだ地面の上に、小さな生き物たちが五人、やぶれた葉を抱えて立っていたのだった。



 誰もいなかったはずの場所に突如姿を現した五人は、何故か全身泥まみれだった。

 だが、当人たちにとって、そんなことは些末であるらしい。


 自身が泥だらけであることは気に留める様子もなく、身振り手振りで丘を指差しては、やぶれた葉を見せ、懸命に窮状を訴えている。


「あのねあのね、おねえさんの、そのすてきなどれすにのせてほしいの」


 現在、シェリアが着ているのは貴族の令嬢としては定番のドレスである。社交用ではない為、少々地味ではあるかもしれないが。

 地面に向かって膨らんだ裾の部分が柔らかそうで、お気に召したらしく、このドレスに掴まって移動したいそうだ。


 雨具を持たずに出てきてしまったシェリアは、濡れ鼠そのもの。ドレスの生地も雨を多分に含んでいる。

 おまけに、この雨だ。降りしきる雨の中、ただ掴まった状態では、滑り落ちてしまうかもしれない。

 シェリア自身は、とても乗り心地が良いとは思えなかった。


 だが、仮に乗り心地が悪かったとしても、残念ながら通りかかったのはシェリアしかいないのである。


 懸命に話す人間の手のひらほどの大きさの生き物たち。

 ふいに、もしかしたら、この小さな生き物たちは妖精かもしれないとシェリアは思った。

 書物にあった表記と一致する気がする。


 はやる胸をおさえつつも、シェリアは、小さな生き物たちの申し出に、こくりと頷いた。

 この雨の中、小さな身体で移動するのは大変だろう。


 申し出を受け入れたシェリアに、ほっとした様子の小さな生き物たちは、一歩踏み出そうとしたものの──ぬかるみに躓いて、ずるりと地面に飛び込んだ。


「ぴゃうっ」


 まずはひとりめが転び、続けざまに残りの四人が転んだ。

 そうして、五人分の小さな悲鳴が続けて聞こえたあとには、しばしの小さな沈黙が流れた。


「あめが、たのしすぎて、気がぬけてしまった……」


 沈黙を破り、そう言って立ち上がった小さな生き物のうちのひとりは、全身泥だらけである。

 先ほどまで泥に隠れてはいなかった部分も、完全に色が見えなくなってしまっていた。


 だが、当の本人たちはご満悦のようだ。


「これ、たのしい」

「もう一回、とびこんでみるー?」


 心配するシェリアをよそに、小さな生き物たちは、気が済むまでぬかるみに飛び込んで遊ぶのだった。

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