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幼いシェリアと記憶の底①

 アンディ()のフリをして、あの子が帰ってきたあの雨の日から、シェリアは、なにかを忘れている気がしてならなかった。

 それがなにかは分からないまま、シェリアはあの日から彷徨っている。

 否、本当はずっと前から彷徨っていたのだ。


 ずっとずっと忘れていただけで。


 ◇


「──ようせいさん、いないかなあ」


 望遠鏡に見立てて、くるくると巻いたタータン柄の布地の中を覗き込んでみたものの、残念ながらお目当てはおらず、シェリアは肩を落とした。


 シープリィヒルに棲む“ひとならざるもの”。

 遭遇する為の作法は複数伝えられているが、シェリアはまだ出逢ったことはない。


 このシープリィヒルで“かれら”と呼ばれる妖精(存在)は、とても臆病な生き物であるらしい。


 一説には、四ツ葉のクローバーをすり潰した塗り薬を瞼に塗るといいとのことだが、かつて誰かが試しに作ってみたところ、不完全な代物になったという。

 視えるのは一瞬で、効果は一時的であったとのこと。どうやら、なにかがたりなかったようだ。


 四ツ葉のクローバーそのものも、そうそう見つかるものではないというのに、現実は非情である。


「……あれ……? なくなってる……」


 ふいに、視界に入った空の皿に、シェリアは目を丸くした。

 先ほど置いたばかりのお皿には、積み重なるように沢山のクッキーがあったはずだった。なのに、今は空っぽである。


 動揺したシェリアは、テーブルの上に突っ伏し、項垂れる。

 今朝は早起きして、慣れないながらも頑張ってつくったのだ。

 それが、目を離した一瞬のうちに忽然と消えてしまったのだから、落ち込むのも当然かもしれない。


 シェリアが顔を伏せたまま、視線だけを空になった皿に向けてみれば、クッキーから崩れて出来た残骸らしきものがあった。


 指で撫でてみると、ざらざらとした感触がする。

 先ほどまで、ここにあったのは間違いない。


 この部屋には、シェリアしかいない。他の人間の気配はなどなかったはずだ。

 そんな中で、皿の上に盛られたクッキーが忽然と消えてしまった。


 ということは、もしかして。

 もしかしたら、この部屋にいるのかもしれない。


 もしかすると、無意識にシェリアが貪るように食べてなくなってしまった可能性もなくはない。

 けれど、口の中に食べた感覚が残っていないのだから限りなく低いはずだ。 


 ぼんやりと思考を巡らせていたシェリアは、ふと思い至った可能性に、くすりと笑うと、目の前にそっと手を伸ばしてみる。


 例え、目に見えないとしても、そこにいるのだろうか。



「口の中にまだ苦味が残ってる気がする……」


 母のクラリスからこっそり拝借した布地をこっそり返却したシェリアは、お昼にスピナッチを練り込んだパンに、スピナッチを練り込んだ麺のパスタ、スピナッチのクリームスープに小言を頂いた。


 返却したとはいえ、人様のものを無断で拝借したので、お叱りを受けるのは当然である。


 もしも、シェリアが凄腕の怪盗であったなら、クラリスに気付かれずに借りて、こっそりお返しするなんてことも可能であったかもしれない。

 だが残念ながら、シェリアは、どこにでもいる貴族令嬢である。

 物語に出てくる怪盗のような、とびっきりの技術など持ち合わせていないのだ。


 因みに、昼食が何故スピナッチまみれなのかといえば、スピナッチという緑色の野菜は、シェリアにとっては大変苦手なのである。天敵と言っていいくらいだ。


 本来、火を通さずサラダにして食した方が美味しいそうだが、初めて口にした日、一口食べたその瞬間から苦手になってしまった。


 そんなシェリアの為に、クラリスはあれこれと工夫してくれているのだが、今回のスピナッチまみれは、シェリアの健康を考えつつ、おしおきを兼ねていると考えていいだろう。


 伯爵夫人であるクラリスは、本来シェリアの食事を用意する立場ではない。

 貴族の屋敷では、料理人を雇うのが一般的だ。


 だが、この屋敷では、料理人は今はいない。


 度々雇おうかと試みてはいるものの、「おばけがでた」「呪われる」と うわごと(・・・・)のように呟いては、いなくなってしまうのだ。

 シェリアはまだおばけに出逢ったことはないが、もしや、シェリアが知らないだけで、この屋敷にはいるのかもしれない。




 スピナッチまみれの昼食を終えると、午後は領地の探索へ向かうことにした。


 目的地は、森だ。書庫で読んだ本に、森には妖精が棲んでいると記されていたのだ。

 幼いシェリアには読むのは少々難しい本であったが、だいたい分かれば問題ないだろう。



 さて出発しようと、持っていくバスケットの中身を確認する。

 籠の中身は、午前中に消失したクッキーと同じものだ。

 早起きして頑張っていっぱいつくっておいた──のだが、何故かクッキーの嵩が減っているような気がしてならない。


 見間違えたのだろうか。シェリアは、思わず首を傾げてしまった。



 目的地の森への所要時間は、屋敷から大人の足で半刻ほど。

 それを幼いシェリアの足で歩くとなると、どれほどかかるのか。

 残念ながら、行ってみたことがないシェリアには、さっぱり分からない。


 だが、幸いなことに、このシープリィヒルは、なだらかな丘が続き、遮蔽物のない見晴らしの良い地だ。

 妖精たちに出逢えるという森は、遠くからでもよく見える。

 ただひたすら歩いていけば、とりあえず道に迷うことはない。


 期待に胸を膨らませたシェリアは、両手でバスケットを大切に抱える。

 そして、晴れ渡る空の下、柔らかな日差しに見守られながら、ただひたすらに歩いていく。

 

 そうして、目的地の森に辿り着いた頃には、そこそこの疲労感がシェリアを襲った。



 道中、小石で足を躓いて転んだシェリアは、その拍子に傾いたバスケットからクッキーの一部を地面にこぼしてしまった。

 慌てて拾おうとしたものの、シェリアの指先を掠めて土の中に沈みこんでいく。


 驚いたシェリアが、沈みこんだところを触って確認してみたけれど、そこは何の変哲もない土だった。

 だが、試しにクッキーを置いてみれば、また同じように沈みこんでいく。


 なんとも不可思議な現象に、シェリアは首を傾げずにはいられなかった。



 小鳥の囀りを耳にしながら、木陰の中を一歩一歩あるいていく。


 気のせいだろうか。森の中へ足を踏み出した瞬間から、雰囲気が変わったように感じられて、バスケットを抱える手に無意識に力を込めた。


 妖精という生き物は、人間がつくったお菓子が好きであるらしい。

 そう書庫の本に記されていたので、シェリアは、ちょっとばかり歪なクッキーを持ってきたけれど、それが果たして正解だったのか急に分からなくなってしまった。


 言い様のない不安と恐怖で、シェリアは胸がいっぱいになる。

 ふと見上げてみれば、空を覆い隠すように木々が生い茂っていて、どこか薄暗さを感じる。

 光が差さないこの場所は、シェリアをまるで迷子になってしまったような感覚に陥らせた。


 来た道を戻れば、それだけで帰れるはずなのに、どういうわけか、足が地面に張り付いたように動かない。


 不安と恐怖で押し潰されそうになっているシェリアに、ふいに上から声が降ってきた。


「──どうしたの?」

 

 声のする方を見上げてみれば、目の前の樹木の枝の上に翠色の髪をした少年がいた。年は、シェリアより下くらいに見える。

 先ほどまで誰もいなかったはずだが、見落としていたのだろうか。

 不思議に思ったシェリアが首を傾げていると、そっと手を差し出された。


「人間がここにいたら危ないよ。入り口まで案内する」

「……あなたは、危なくないの?」

「僕は、ここにすんでいるから」

「そうなんだ……」


 目の前の少年も人間に見えるけれど、人間も(ここ)に住めるのだろうか。

 疑問に思いつつも差し出された手に自分の手をおけば、ひんやりとした感触がした。

 そのまま来た道を戻り、森の入り口へと向かっていく。

 

 足が地面に張り付く感覚も、不安も恐怖も、いつの間にかどこかに消えさっていた。



 ぴちちちち、と鳥が囀ずる声が聞こえる。

 木々の狭間から射し込む光が、ふたりを照らしている。

 この森には珍しい客人が気になるのか、木の影から栗鼠がひょっこりと姿を見せる。


「それ、なにが入ってるの?」


 シェリアの手を引いて一歩先をあるく少年は、ちらりとバスケットに視線を向けた。

 どうやら中身が気になるらしい。


「えっとね。クッキー、焼いてきたの」

「クッキー?」


 シェリアの言葉に反応した少年の足が止まり、自然とシェリアの足も止まった。


「それって、さくさく(・・・・)してたり、もそもそ(・・・・)してたりする、あれ?」 


 ぱっと振り返った少年の瞳が、きらきらと輝いている。興味津々のようだ。

 さくさく(・・・・)もそもそ(・・・・)というのは、恐らく食感のことだろう。


「た、多分……?」


 前のめりな少年の様子に気圧され、シェリアは思わず後ずさった。

 射し込む陽光のせいか、それともクッキーに対する好奇心からか。

 眩しいくらいにきらきらした瞳に見つめられる。


 妖精たちへの手土産にと持ってきたクッキーだったが、このままでは持ち帰ることになるだろう。

 それが誰かに喜んでもらえるのならば、クッキーも本望かもしれない。


「よかったら、食べてくれる……?」


 シェリアが口にした問いに、少年はぶんぶんと首を縦に振る。


 ちょっぴり(いびつ)なクッキーは、少年の口に合うだろうか。


 シェリアはどきどきしながら、背後からでもわかるくらいの少年の期待を感じつつ、バスケットの蓋を開けた。


 すると、シェリアの想定通りの、いやそれ以上に不恰好なクッキーが顔を出した。

 ひとつとして同じ形のクッキーがない。

 どこか欠けたりひび割れたりして、もともと(いびつ)だったものが、更に崩れてしまっているのだ。


 そういえば、森に来る途中に転んだのだと思い出したシェリアは、さっと血の気がひいた。


「あ、あの……」


 こんな状態のものを人に差し出していいわけがない。

 そう思ったシェリアは、渡すのをやめようと咄嗟に声をかけた。

 だが、残念ながら少年にはシェリアの声が聞こえなかったようだ。


 少年は、バスケットからクッキーを取り出して口にしてしまうと、

「…………うん、クッキーだ」

 ぱあっと花がほころぶように笑った。

 

 とても喜んでくれているのに、止めていいものだろうか。


 悩んでいるシェリアの横で、手にしたクッキーを食べ終えた少年がおかわりをしようとバスケットの中を覗きこんだのだが──何故かクッキーは跡形もなく消えてしまっていたのだった。

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