御守りの効果と菫の砂糖漬け
見覚えのある懐かしい瞳に、シェリアははっと息を呑んだ。
「早く帰った方が良いと思う。この森は、人間には不向きだし、この時期は見回りもあるし」
シェリアの身を案じるかのように、少年が忠告すると、どこか遠くで鳥が鳴く声が聞こえた。
確かに、人間には不向きな場所だろう。
ここに棲むのは、“ひとならざるもの”である妖精で、あちらこちらに実っている果実は、一口かじると人間に戻れなくなる恐ろしいものだ。
おまけに、この時期は見回りとやらがあるらしい。
──『……あのね、じょうおうさまがくるの』
脳裏に瑠璃色の少女の言葉が蘇り、シェリアはそっと瞼を閉じる。
暗闇の中で、木々が揺れる音がする。
危険だなんて分かっていて、それでも来たのだ。
やっと逢えたのに、このまま、なにも伝えずに帰るなんて出来ない。
「出口まで送るよ。ついてきて」
裏返して羽織っている雨避けのコートの裾を掴んで、少年は先導するように歩き始めようとした。
けれど、シェリアは動かない。
今は、まだ帰れない。
ここで帰ってしまっては、来た意味がない。
自分の意思を確かめたシェリアが瞼を開くと、シェリアの様子に首を傾げた少年と、ちょうど目が合った。
シェリアを心配する少年の様子は、あの時と同じだ。早く屋敷の中に入ろうと、促されたあの時と。
そして、きっと、シェリアが忘れている過去の記憶の中とも。
「……アンディ」
「……僕は、君の弟じゃないよ」
シェリアが無意識に呟いた言葉を少年は否定すると、拗ねるように目をそらしてしまった。
癖で呼んでしまったけれど、確かにその通りである。
だが、名前で呼ぼうにも、シェリアは、困ったことに肝心の少年の名前を知らない。
「……あなたの名前を、教えてくれる?」
だから、シェリアは思い切って訊ねてみた──けれど。
「名前なんて、ないよ」
振り向いた少年から返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「…………名前が、ない?」
驚愕の事実に目を瞠ったシェリアが、確かめるように呟くと、少年はこくりと頷いた。
「うん。僕らには、ひとりひとりに名前はない」
「…………その、困ったりしないのかしら?」
シェリアの問いかけが、どうやらぴんとこないらしい。少年は小首を傾げている。
「うーん、特には?……君は羽根がなくて不便だったりしない?」
今度は反対に問いかけられ、シェリアは困惑した。
今まで、羽根について考えてみたことなどなかったのだ。
シェリアは顔に手を当て、少しの間思案したあと、答えた。
「…………羽根で飛ぶことが出来たなら、素敵だと思うけれど、不便だと思ったことはないと思うわ」
羽根があったなら素敵だなと、シェリアは思う。
あちらこちらを飛び回ることが出来るし、高いところから見渡した景色は、きっと素晴らしいだろう。
だが、ないからと不便に思うことはない。
人間の身体には、もともと羽根は付属されてはいないのだ。
「そう。初めからないものは、存在しないのと同じだよね。だから、困ったり不便だと思ったことはないよ。それに、僕らは声にまじないがこもるから、呼び掛けた声が自分に向けてのものか分かるんだ」
そう言って、少年が微笑むと、風がざあっと吹いた。
なるほど。確かに、初めから自分の手にないのなら、不便に思うこともないかもしれない。
納得すると同時に、シェリアは、ひっかかりを覚えた。
「…………おまじないがこもる?」
「そう。同族同士だと影響はないけれど、人間の場合は僕らの声に惑わされたりするから、危険なんだ」
首を傾げたシェリアに少年はそう言うと、ちらりとシェリアの胸元の十字架に視線をやった。
目の前の少年いわく、妖精が発する声に“おまじない”が宿り、人間を惑わせることが出来るらしい。
それは、“おまじない”に抵抗する力を持ち合わせていない非力な人間にとっては、恐ろしいことである。
もしも、御守りを持っていなかったなら、シェリアはここまで辿り着けなかったかもしれない。
シープリィヒルでは、“陽が出ていない時に、聞こえる声に耳を傾けてはならない”と噂があるけれど、もしかすると、耳を傾けてはならないのは、道に属する存在だけではなく、妖精全般に対してだったりするのだろうか。
───『あればあるほど安心』。
屋敷の“かれら”がそう言って、たくさんの御守りを持たせてくれた意味を、シェリアは理解した気がした。
「───だから、人間は早く帰った方が良い」
話は戻る。少年は、シェリアをどうしても帰したいようだ。
しかし、シェリアは勿論帰るつもりはない。
裏返しに羽織っている雨避けのコートの裾を掴み、帰り道へと誘導しようと背中を向けた少年に、シェリアは思い切って告げてみることにした。
「───あなたに、逢いにきたの」
シェリアの言葉に、少年はぱっと振り向いた。
ふたりの視線が交錯する。
「…………妖精に逢いたがっていたもんね」
「……わたしが“かれら”に逢いたがっていたって、知っているのね」
ここに辿り着くまで、道中に出逢った妖精には、『逢いたいひとがいる』と話はしたけれど、妖精本人に面と向かって逢いたかったとは話してはいない。
ぽつりとぼやいて視線を反らしてしまった少年の言葉に、きっとこれは探していた本人に違いない、とシェリアは確信を深め、口が緩んだ。
「…………僕だけじゃなくて、屋敷のやつらも知っているけどね」
対照的に少年は不満げだ。
なんとなく、なんとなくだけれど、再会してすぐからどこかそっけない気がしてならない。
そういえば、お菓子が好きだったなと思ったシェリアは、バスケットの中身を勧めてみることにした。
「……お菓子を持ってきたの。良かったら、食べない?」
「薔薇の花の形したクッキーだよね。………………食べる」
その言葉に、シェリアは目を丸くした。
確かに、このバスケットの中にあるのは、薔薇の花を模したメレンゲクッキーだ。
本当にずっとついてきてくれていたらしい。
「……どうして、すぐ目の前に現れてくれなかったの」
シェリアの口をついてでた疑問に、少年は答えた。
「僕は今、アンディの姿をしていないし、大きさだってこんなだし、分からないと思ったんだ」
シェリアがバスケットの中から取り出したクッキーを渡すと、少年は小さな身体で大切そうに抱えて、一口かじった。
「……うん。懐かしい味がする」
そのまま、少年は黙々とかじっていたのだが、その様子を眺めていたシェリアは、困惑を隠せない。
そっけなさが変わらないのだ。
一緒に過ごしていた頃に、シェリアがつくったお菓子をとても喜んで食べてくれていたあの姿をどこかで期待していたのかもしれない。
シェリアは逢いたくてきたけれど、もしかしたら、少年は逢いたくなかったのだろうか。
シェリアの沈んだ気持ちを慰めるように涼やかな音が鳴って、無意識にポケットの中を探る。
なにかを掴んで取り出すと、そこにあったのは小さな瓶だった。
中には、エレンとつくった菫の砂糖菓子が入っている。
「…………忘れてた」
本物のアンディが帰ってきた日に出来たものだ。
自分の分は食べる気にならなくて、そのまま手をつけずにいた。
「…………良かったら、これもどうかしら」
クッキーを食べ終えたらしい様子の少年に、シェリアはそっと差し出してみた。
すると、一瞬目を丸くした少年は、
「…………いいの?」
そう問いかけた。
「ええ」
シェリアが頷くと、 少年は顔から笑みがこぼれた。
「急に帰ることになったから、諦めてたんだ」
受け取った瓶を、少年は、宝物のように両手で大切に抱える。
「ありがとう。…………さっきのクッキーも、美味しかった」
そう言った少年の背中の羽根が、ひらひらと揺れた。




