茜色の空と渦巻く小さな不安
「……そういえば、この森には、なにしにきたの?」
手元の赤いメレンゲクッキーをぺろりと平らげた少年は、なにかを思い出したかのような表情をしたあと、首を傾げてシェリアに問いかけた。
この森が“かれら”の森だと知っているシープリィヒルの領民は、ほぼこない。稀に来るのは、領地外から“かれら”を利用しようと企むような人間ばかり。
だからこそ、少年はシェリアを怪しい人間だと思ったのだろうし、それは当然のことだとシェリアは思った。
シェリアの不審者疑惑が払拭されて一段落着くと、では、どうしてやってきたのかと疑問が沸いたらしい。
因みに、メレンゲクッキーは先ほど渡したばかりなのだが、少年は、赤い方のクッキーは口をつけた途端に瞬く間に食べ終えてしまった。
食感が気に入ったのだろうか。今度は白い方のクッキーをどこかから取り出して、またかじり始めている。
「……逢いたいひとがいて、探しにきたの」
「それって、どこに属する妖精?」
今度は少女の方が反応し、問いかける。
質問した当の本人はおやつを夢中でかじっていて、聞いているかどうかは定かではない。
なんともマイペースである。
少女の不思議な言い回しに、そういえば屋敷にいた赤茶色の髪をした少女も同じ表現をしていたと、シェリアは思い出す。
「……えっと、樹木らしいの」
確証はない。
樹木妖精だとシェリアが直接確認したわけでもななければ、屋敷にいた赤茶色の髪を持つ小さな少女の証言がアンディのふりをしたあの子を指しているのか分からない。
もしかしたら、同じ時期に樹木妖精が屋敷にいたのかもしれない。そもそも、本当にこの森にいるのかも分からないし、シェリアの行動は見当違いかもしれない。
それでもシェリアは、この“かれら”の森にやってきた。微かな手がかりを握りしめて。
だってきっと、シェリアから行かなければ、もう一度逢えない気がするから。
その言葉に、小さな少女は「うーん」と唸りながら考えこんだあと、
「…………もしかして、それって、ずっとうしろをついてきてる妖精とかんけいある?」
シェリアの背後をすっと指で示した。
その瞬間、少女の声に反応するかのように、ざあっと木々の揺れる音がした。
シェリアは、ひゅっと息を呑む。
心臓がどくんと音を立てた。
「あのね、多分ずっとついてきてるの。もしかして、お菓子ほしいのかなっておもってたんだけど……きっと、樹木の子だとおもう」
「…………今も、うしろに?」
確認するようなシェリアの問いかけに、少女はこくりと頷く。心臓がうるさく鳴り響く。
シェリアのあとをついてきている妖精がいるらしい。
それは、少女の言う通り、お菓子の匂いに引き寄せられたのかもしれないし、人間の訪問が珍しくて来たのかもしれない。
───でも、もしかしたら。
「ありがとう、教えてくれて」
シェリアがそう言って、バスケットの中の賄賂を何枚か取り出すと、少女の瞳は大きく見開かれ、羽根はひらひらと揺れた。
「わあ、クッションみたいです……!」
少女は感嘆の声を漏らし、ハンカチの上に積み重なったクッキーの周りをくるくると回る。
少女の様子を眺めながら、そういえば屋敷の“かれら”のひとりが、帰ってきたらお菓子の家を希望していたことをシェリアは思い出す。
積み重なったクッキーの周りをくるくると回っていた少女は立ち止まると、しばらく顔の前で両手を組んで瞳をきらきらと輝かせていたのだが───
何故か山が小さくなっている気がして、少女は首を傾げた。先ほどよりも、明らかに嵩が減っている。
むむむ、と少女が考えている間に、山は更に小さくなっていく。
「…………えっ、なんで?!」
慌てた少女が反対側へ回り込むと、少年がクッキーの山にかじりついていた。ちょうど少年の身体がクッキーの山に隠れ、死角になっていた為に気付かなかったようだ。
「わたしのお菓子───!!」
少女の嘆く声が辺りに響く。
涙目になり立ち尽くす少女に、シェリアがもう一度クッキーの山を渡すと、今度は大急ぎでどこかにしまいこんでいた。
◆
シェリアは、茜色に染まった空を見上げた。
いつの間にか空の色はまた変化していて、たくさんのあかい果実がゆらゆら揺れ、どこか遠くで鳥の鳴く声がする。
人間の領域にある林檎や無花果、桜桃によく似たそれらは、目を凝らせば葉が羽根の形をしていて、人間が絶対に口にしてはならないものだと分かる。
バスケットを胸元でぎゅっと抱え直し、シェリアはそっと瞼を閉じた。
シェリアのあとをついてきている妖精がいるらしい。それは、あの子かもしれないし、あの子ではないかもしれない。
振り向いて問いかけてみれば、きっと答えはすぐに出るだろう。分かっている、けれど。
風で木々が揺れてざわめく音が、シェリアの不安を掻き立てていく。
焦燥感に駆られて、衝動的にここまで来てしまったけれど、それは果たして正しかったのか。シェリアには分からない。
水色の髪を持つ少女が背後を指で示した時、シェリアは咄嗟に振り返ることが出来なかった。
そもそも、もう一度逢えたとしてどうするのか。
なにか伝えたいことがあるわけではないのに。
木々の葉が擦れる音が、まるでシェリアの不安を煽るように、辺り一帯に響いていた──その時。
ちりん、ちりん。
シェリアの耳に、軽やかに鳴り響く音が聞こえた。
それは、屋敷にいる赤茶色の髪を持つ“かれら”がくれた鈴の音色だった。
シェリアの心を覆う影を振り払うように、ちりん、ちりんと何度も繰り返すように涼やかに鳴り響くその音に、シェリアは屋敷妖精とした約束を思い出す。
そうだ。無事に屋敷に帰り、お菓子をつくらなくてはならないのだ。
鈴の音色に引き戻されたシェリアは、バスケットを抱え直す。
そして、瞼を開けると、ふいに、風がざあっと吹いた。
目の前であかくて丸い果実は、地面に揺れ落ちて、シェリアの足元まで転がってきた。
林檎によく似たそれに、シェリアが屈んで手を伸ばした時───
「それに触っちゃだめだよ」
頭上から動きを制止する声が降りてきて、シェリアは、思わずぱっと顔を上げた。
聞き覚えのある話し方だったから。
「……アンディ」
呼び慣れた名前が、シェリアの口からこぼれ落ちる。
樹木からぴょんと飛び降りてきたのは、翠色の髪を持つ小さな少年だった。どうやらシェリアを制止したのはこの少年であるらしい。
「この森の実には、絶対触れてはだめだよ。人間が手にしたら最後、魅せられて口にせざるにはいられなくなるから」
少年が手をかざすと、シェリアの足元にあったあかい果実は、どこか遠くに向かって転がっていった。
アンディのふりをしたあの子は、人間の大きさで髪色もシェリアと同じ亜麻色だった。今、シェリアの目の前にいる少年は、人間の手のひらほどの大きさに、翠色の髪。
背丈も髪色もまるで違う、けれど。
シェリアの心臓がどくんと鳴る。
声だって確かに違うけれど、この声の抑揚もつけ具合も、シェリアは知っている。
視線に気付いた少年が、振り向く。
シェリアの姿を映した瞳は、シェリアのよく知っているものだった。




