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不可思議な森と水色のふたり

 シェリアが“かれら”の森と呼んでいる場所は、厳密には人間の領域である。

 だが、“かれら”の国へと続く扉がある丘が近いことから、この森に人間がくることはあまりない。


 人間の領域にありながら、人間が容易に立ち入れない場所──それが、シープリィヒルにある“かれら”の森である。



 シェリアの記憶が正しければ、ここ数日は、ざあざあとずっと雨が降っていたはずだ。

 雲が空を覆い、どんよりとした空気で、道に属するらしい少女も『元気が出ない』と嘆いていた。


 しかし、今、シェリアの眼前には、まばゆい陽光が射し込み、色鮮やかに緑が輝く森がある。

 屋敷からこの森まで歩いてきて、一歩踏み込んだ瞬間、がらりと景色が変わったのだ。


 先ほどまで、確かに薄暗かったはずなのに。


 あまりの非現実さに、親指と人差し指で頬をつねってみると、じわりと痛みを感じた。


 間違いなく現実ではあるらしい。

 

「……なんてお昼寝にさいてきな場所……!」

 

 瑠璃色の髪を持つ小さな少女は、瞳をきらきらと輝かせ、羽根をひらひらとさせて、吸い寄せられるように目の前の樹木へと飛んでいく。


 そういえば、とシェリアは、書物に記されていたことを思い出す。


 人間を道に迷わせる妖精は、天気のよい日は、昼寝をしている疑惑があるのだとか。

 実際に目にした者はいないものの、当の妖精本人が話しているのを聞いた者はいるらしい。


 恍惚とした表情で木の幹にくっつく小さな少女を眺めながら、その疑惑は、あながち間違ってはいないかもしれない、とシェリアは思った。


「……あなたはここで、お昼寝していく?」

  

「…………うう、お昼寝はあらがいがたい、けど……」


 シェリアの問いかけに、ぱっと振り向いた少女は、樹木とシェリアを交互に見ては「どうしよう」と悩ましげに呟く。


 きっとここは、少女にとっては、とても魅力的な場所なのだろう。妖精(かれら)の森なのだから、当然かもしれない。


「……逢いたいひとがいて、ここに来たの。だから、私のことは気にしないでいいわ」


 シェリアはそう言って、膝を折ると、ハンカチを手近な石の上に広げた。バスケットの蓋を開け、クッキーを五枚ほど取り出し、その上にそっと重ねる。


「これは、ここまで付き合ってくれた御礼」


 バスケットのメレンゲクッキーは、“かれら”への賄賂として用意したものだ。居場所の分からないあの子へ辿り着く為の、道案内の対価として。


 きっと、今こそ渡すタイミングだろう、とシェリアは考えた。


「ありがとう。心配して、付き合ってくれて」


「…………まって、まだ行かないで」


 立ち上がろうとするシェリアを、少女の声が引き止める。


 少女は自身の瑠璃色の髪を何本か抜くと、ふわふわと浮かせ、宙でまるい輪のようなものをつくり、シェリアにそっと差し出した。


 陽の光を浴びて、瑠璃色に美しく輝くそれは、ほんの少し見ているだけで、魅入られそうな気分になる。


「……手首につけて、試しに触ってみて欲しいの」


 シェリアは言われた通り、手首につけて触れてみる。


「……離れていても、それに触れると、分かるようになってるの。あんまり離れてると、だめだけど。なにかこまったり、あぶなくなったら、それで呼んでね。……それでね、ぶじに帰ったら、ピクニック付き合ってね」


 小さな少女は、羽根をひらひらとさせて、にっこりと笑った





「人間がきてるみたい」


 木々の葉が揺れる音に混じって、水色の髪をした小さな少女が告げる。妖精(かれら)の森に、珍客が訪れた、と。


「あやしいやつなら、おいだす?網とかもってた?」


 少女の発言に、同じように水色の髪を持つ少年は即座に木の枝からぴょんと地面に飛び降りると、駆け寄りながら訊ねた。


「ううん。美味しそうなお菓子もってた!」


 バスケットの中身に入っていた美味しそうな焼き菓子が、他の妖精に差し出されたのを目で見たばかりの少女は、瞳をきらきらと輝かせて報告する。


 白と赤の焼き菓子がクッションのように積み重なっていたけれど、どのような味がするのだろうか。

 見たことのない菓子に想いを馳せ、少女の羽根がひらひらと揺れる。


 瑠璃色の髪をした少女は、受け取った焼き菓子を即座にしまうと、どこかから用意した小石の上に座り、木幹にもたれかかって、気持ち良さそうに寝始めてしまった。


 その為、残念ながら詳細は聞けずじまい。


 分かるのは、あの瑠璃色の髪の妖精は、道に属する妖精だろうということと、悪い人間ではなさそうだということ。


 だって、人間の彼女からは他の妖精のおまじないの気配がしたのだ。それも、たくさん。


 ひとつやふたつなら、妖精の気まぐれということもあるかもしれないが、数えきれないほどのおまじないの気配は好かれていると考えていいだろう。


 あの瑠璃色の妖精も信用しているようだったし、なにより、あの見たことのない焼き菓子が気になって仕方がなかった。


 少女が赤と白の菓子へ想いを馳せている傍で、少年は、ぽつりと呟く。


「ゆだんさせて、その隙に捕まえるつもりかも……」


 こちらの少年は、少女とは対照的に警戒心いっぱいである。


 そんな対照的なふたりの遥か上の方から、ぽつりと声が落ちる。


「うーん、あの人間、前にみたきがする……」

 

 それは、木々の葉がかすれる音に混じって消えていった。



 ◆


 道中で出逢った瑠璃色の髪をした小さな少女と別れたシェリアは、ひとり森の中を歩いていた。


 先ほどまでは陽の光が心地よく、瑠璃色の髪を持つ少女いわく『お昼寝に最適』だったけれど、今度は、あっという間に深い青色に支配されてしまった。


 あちらこちらに、三日月、半月、満月、星の形をした果実が色鮮やかに実っている。


 なんとも珍しいが、これは“かれら”の世界のものなので、うっかり口にしようものなら帰れなくなってしまう恐ろしいものだ。


 人間の住処では存在しないであろう果実に、ここが“かれら”の森なのだと実感させられる。


 人間の領域でありながら、人間が立ち入ることはない、“かれら”の森。

 無事に帰れるだろうかと、シェリアは思わず不安になる。


 前に訪れた時は、記憶を対価に帰ってくることが出来たけれど、二度目の訪問ともなると、不快に思った“かれら”によって重い罰を受けることにかもしれない。

 

 先ほど、少女と別れてひとりになったせいか。

 それとも、この目の前に広がる不思議な光景のせいか。


 ふいに不安に襲われたシェリアが、無意識にポケットへと手を入れると、何かに触れる感触があった。


 手のひらですっぽりと包みこめるほどの小ささで、力を込めても潰れない固さのそれは、転がせば涼やかな音が鳴り響く。


 屋敷妖精(かれら)が御守りにと、シェリアに持たせてくれた鈴だった。


 手の中で転がしながら、シェリアは屋敷で送り出してくれた“かれら”を思い出す。

 そうだ。シェリアは、無事に帰ってたくさんのお菓子をつくらなくてはならないらしいのだ。


 “かれら”との約束を思い出したシェリアは、思わず笑みがこぼれる。

 心の中で芽生えていた霧は、いつの間にか晴れていた。


「わたしにもお菓子、くださいっ!」


 突然、どこからか声が聞こえ、シェリアは辺りをきょろきょろと見渡すけれど、肝心の声の主は見当たらない。

 確かに、声が聞こえたはずなのに。


「ここです!」


 声の主は、どうやらシェリアの頭上にいたらしい。

 まるで空から舞い降りるかのように、水色の髪をした小さな少女は、シェリアの前に現れた。



 突然の出来事に、目を丸くしたシェリアの目線まで降りてきた小さな少女は、両手をぎゅっと身体の前で組むとうるうると懇願するように見つめた。


「赤と白の、あのみたことないお菓子がたべたいんです!」


 赤と白のお菓子とは、メレンゲクッキーのことだろう。

 もしかしたら、先ほど瑠璃色の少女に渡したのを見ていたのかもしれない。


 そう思ったシェリアは、右手で持っていたバスケットを両手で抱え直して訊ねてみる。


「……よかったら、食べる?」

「たべます!たべたいです!」


 少女は、夜空に浮かぶ星のようにきらきらと瞳を輝かせ、勢いよくぶんぶんと頷いた。


 交渉成立である。


 シェリアがバスケットの蓋を開けて、メレンゲクッキーを取り出し、小さな少女に手渡そうとした時───ひゅうっと風が吹いた。


 少女の手に渡るはずだったメレンゲクッキーは、シェリアの手からこぼれ落ちる。

 慌てて掴もうとするも上手くいかず、ゆっくりと地面に向かって落下していく。


「……わたしのお菓子!!」


 血相を変えた小さな少女は、地面に衝突するよりも先にその間に滑りこみ、両手を広げて二枚のメレンゲクッキーを受けとめる。


「……まにあった!」

 

 無事に自分のおやつを救出成功した少女は、安堵から嬉しそうに笑っていたが──次の瞬間、頬を膨らませて、シェリアの背後の方に向かって叫んだ。


「あともうすこしで、わたしの大事な大事なお菓子が、ぐしゃぐしゃになるところだったじゃない!!」


 ぷんすかと怒る水色の少女の視線の先には、同じ水色の髪をした同じ背丈の少年。


「みずしらずの人間からもらったお菓子をたべるの反対。ねむり薬でも入ってたら、どうする!」


 少年もまた、ぷんすかと応戦する。


 確かに、このふたりにとってシェリアは見ず知らずの人間なのだから、警戒するのも当然だろう。

 とはいえ、シェリアは眠り薬なんてもの入れてはいないし、危害を加えるつもりなど微塵もない。


 このバスケットの中に入っているのは、ただの賄賂である。


 シェリアが『怪しい者ではない』と言ったところで、益々不審に思わせるだけだろう。

 ここはやはり、バスケットの中身を食べてみせるのが一番良いかもしれない。


 自分が無害だと証明する方法をシェリアが思案していると、


「なんでも、うたがうのは良くない!」


「なんでもしんようする方が良くない。妖精のかみを手首に巻いているやつなんて、どうみてもあやしい!」


 少年が右の手首をぴしっと指差したので、シェリアは、反射的に手首にある瑠璃色の輪を見つめた。


 確かに、妖精(かれら)の髪を手首につけた人間など、どう見ても不審者である。

 どこぞの妖精を売り買いしている商人だと思われても仕方あるまい。


 シープリィヒルのかつての当主が記した書物に、そのような人間がいたとの記述があったことを、シェリアは思い出した。


 これは、無害の証明は難しそうである。


 もしかしたら、あの子とは逢えずにこのまま追い返されるかもしれない。無事に帰ることが出来たなら上出来といってもいいくらいだ。


 今のシェリアは、どこからどう見ても怪しいのだから。


 項垂れていたシェリアを助けたのは、先ほどメレンゲクッキーを渡した少女だった。


「よくみて!むりやりちぎった妖精のかみを巻いているなら、皮膚がへんしょくして、からだの一部が動かなくなったりしているはず!あのひとは、ごたいまんぞくだし、ふつうに動けているわ!」


 少女の言葉に、シェリアはぎょっとした。


 妖精(かれら)の羽根を無理矢理もぎった人間が、その後不運に見舞われるというのは、シェリアも知っていたが、少女の話は更に物騒なものだ。


 驚いて固まっているシェリアを、舐め回すように見た少年は、「たしかに、くちてない」と呟いた。


「……それに、ほかの妖精たちのおまじないの気配もする」


 少年の言葉は、少女はうんうんと頷く。


「だから、このひとはだいじょうぶ!」

「……そうみたいだ。ごめんなさい」


 少年は、ぺこりと頭を下げた。

 疑いは晴れ、一件落着である。


 追い返されずに済んだことに安心すべきかもしれない───が、先ほど耳にした物騒な話から、シェリアは、この手首の輪を外してしまいたくなった。


 しかし、勝手に外して問題ないのだろうか。

 “かれら”の理は、人間であるシェリアには、少し難しそうだった。

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