メレンゲクッキーと“かれら”との邂逅
ざあざあと雨が降る音がする。
シェリアは、防水布でつくられたコートのボタンを留め終わると、メレンゲクッキーが入ったバスケットを右手で持つ。
空いてる左手はコートのポケットの中に突っ込み、そこにあるもの───四ツ葉のクローバーを確認した。
───『もしも逢いたい誰かがいるなら、急いだ方がいいと思う』
アンディの言葉がふと脳裏を過り、シェリアはそっと瞼を閉じた。思い浮かぶのは、アンディのふりをしていたあの子のことだった。
シェリアは、あの子の本当の姿を知らない。
“かれら”は人間に姿を変えるのがとても得意で、シェリアが知っているあの子は、アンディの姿をしていたから。
アンディいわく、もうすぐ丘の扉が開くらしい。
もしも、扉の向こうにある“かれら”の国に行ってしまえば、二度と逢うことはないだろう。だから急がなくてはならない。
それに、扉が開いたらこわいひとに連れていかれてしまうかもしれない。
───こわい、ひと?
頭に浮かんだ言葉に、シェリアは首を傾げた。
何故、そう思ったのか分からなかった。
窓の外に視線をやれば、空はどんよりと曇っていた。
クッキーをつくるのに半日もかかってしまったので、もうすぐ、おやつの時間にさしかかるところだ。
今から出掛けるとなると、帰りは少し遅くなってしまうかもしれない。───無事に帰ってこられれば、の話だが。
人間が“かれら”の姿を目にする時、それは“かれら”が姿を現す意思のある時なのだが、それ以外にも方法はある。
妖精の塗り薬を瞼に塗ると、半永久的に認識出来るようになるという。塗り薬の原料の一部は四ツ葉のクローバーで、これは人間にも入手可能だ。
シェリアは、ずっとそのことを忘れていた。
幼い頃に、四ツ葉のクローバーを片手に“かれら”探しをしていたはずなのに。そして、帰りが遅くなって、クラリスにスピナッチまみれの料理を振る舞われたのに。
肝心の記憶が抜け落ちていることに気付かずにいた。
そのことが、ひどくもどかしかった。
そろそろ行かなければ。くるりと身体の向きを変えたシェリアの視界に小さな生き物が映る。
驚愕で目を丸くしているシェリアの傍で、人間の手のひらほどの大きさの少女は、興味深そうにバスケットを覗き込んでいた。
「とっても美味しそうな匂いがする!」
瞳をきらきらと輝かせた少女の、明るい声が響く。
どうやら、焼き菓子の匂いにつられてやってきたらしい。バスケットの周りを行ったり来たりしている。
少女の感情を表しているかのように、羽根は背中でひらひらとなびき、リボンで結ばれた腰元まである赤茶色の髪もゆらゆら揺れる。
「もしかして、みんなが持っていたあれかな?あの白かったり赤かったりするやつ!」
中身に気付いた少女が、ぱあっと嬉しそうに笑った。“あれ”とは、きっとメレンゲクッキーのことだろう。
白は、卵白と砂糖だけで他に何も入ってないシンプルなもの。赤は、木苺のジャムが入ったもの。
人間の親指と人差し指の間に挟める程度の大きさで、薔薇の形を模している。
ちょうど今、バスケットの中に入っているものと同じものを、屋敷内の“かれら”に振る舞ったはずだ。
シェリアには、“かれら”が見えていなかったので、あくまで推測だけれど。
「…………出遅れちゃって、今回も食べられなかったんだよね……」
少女がしゅんとして肩を落とすと、羽根もまた、へたりと閉じた。
その言葉に、シェリアは驚かずにはいられない。
朝の九時半からついさきほどまで、シェリアはずっとメレンゲクッキーを焼き続けていたのだ。
半分以上はシェリアの前で消失したはずなのに、それでも全員には行き渡ってないらしい。
一体、この屋敷内にはどれほどの“かれら”がいるというのだろう。
「…………これって、もしかして、お掃除係の夜の分かなあ。いっつも、じゃんけんに勝てないんだよね。……この前の木の実は自信があったのに」
少女の悲しげな様子に、シェリアの胸はきゅっと痛む。
きっとこの少女は、妖精だろう。
だが、今まで自ら姿を現すことはなく、目撃したことなんてなかったのに、何故見えているのか。
首を傾げて無意識にポケットに入れたシェリアの手が、四ツ葉のクローバーが触れた。
そこには、目の前の現象の答えがあった。
アンディを探しに行く為に所持している四ツ葉クローバーのおかげだったようだ。本に挟まっていた古いものだったけれど、きちんと効果はあるらしい。
───さて、どうしたものか。
バスケットの中のクッキーを渡したいけれど、目の前の少女はシェリアに見られていることに気付いていない。
出来ることなら気付かれずに渡したいけれど。
「ひゃう?!」
いつの間にか、シェリアは少女を凝視してしまっていたらしい。シェリアの苦悩も空しく、気付かれてしまった。
シェリアの視線に気付いた少女は、ぴゅっと近くの化粧台の裏に隠れると、こちらを窺うように、ちらりと顔の半分だけを出した。
どうやら、完全に警戒されてしまったらしい。
念願の“かれら”との遭遇なのだが、大変残念なことに、初めての顔合わせは失敗してしまったようで、シェリアは、心の中でこっそりと落ち込んだ。
そんなシェリアの様子を窺いながらも、小さな赤茶色の髪の少女は、ちらちらとバスケットを見ている。
少女は警戒しつつも、逃げる気はないようだ。
「…………良かったら、食べる?」
思い切って訊ねてみると、少女はぶんぶんと首を縦に振ったので、シェリアはほっと息をついた。
少女の視線を感じながら、バスケットの蓋を開けば、籠いっぱいのメレンゲクッキーが顔を出す。
目の前に広がる光景に、瞳をきらきらと輝きかせた少女は、化粧台の裏からひょこっと姿を現すと、羽根はひらひらと揺らしながら、バスケットの前までやってきた。
そのまま、覗き込むような姿勢で釘付けになっている少女の為に、シェリアは、開いたハンカチに赤と白のメレンゲクッキーを一枚ずつのせる。
それをゆっくりと少女の前に置くと、目の前の贈り物に、一層瞳をきらきらと輝かせながら、少女は恐る恐る手を伸ばした。
もしかしたら、少女の小さな身体に、メレンゲクッキー二枚を持つのは大変かもしれない。
少女を見守っていたシェリアはふと思ったものの、どうやら杞憂だったらしい。
ぎゅっと抱きついてクッキーの感触を確かめていた少女が身体を起こし手を掲げると、小さな旋風のようなものが巻き起こり、二枚のクッキーがざっくりと等分された。
驚きのあまり息を呑んだシェリアの前で、等分されたクッキーの大半が消失し、白と赤の小さなかけらが一枚ずつ少女の手に残った。
ちょうど一口くらい小さなかけらを嬉しそうに頬張り、羽根をひらひらと揺らしている少女の姿に、シェリアの笑みがこぼれる。
そのまま、穏やかな時間が流れていたのだが──ふと、少女の後ろに、少女と同じ小さな生き物たちが複数見える。
驚いたシェリアが視線を動かして確認してみれば、それは、ずらっと列をなしていた。
少女と同じ大きさの生き物たちの行列。
“かれら”は楽しいことがあれば自然と集まってくる性質を持ち合わせているものらしい。
シェリアも、書物で読んだことはあって知っている。
“かれら”の目的は何だろうか。
首を傾げたシェリアに、列の中の誰かから声が上がった。
「りんじの、おやつ会があると聞きました」
「もらい逃したひとたちの為の、きゅーさい企画だとか」
「ふだん、逃しがちのひとをあつめてみました!」
一番最後に話した赤茶色の髪をした少年が、両手を腰に当てて、誇らしげに笑ってみせた。
ここにずらっと並んでる小さな生き物たちは、厨房では受け取れなかった者ばかりなのだという。
果たして、この屋敷にはどれほどの“かれら”がいるのだろう。シェリアの謎は深まるばかりだった。




