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帰ってきたアンディ

 シェリアは夢を見ていた。

 それは、どうやら昨夜の続きのようだった。


 頭上から声が降ってきたので、顔を上げたのだが──


「…………あれ?」


 そこには、誰もいなかった。


 確かに、声が聞こえたはずなのに。

 空耳だったのだろうか。


 シェリアが首を傾げていると、風がさあっと吹いて、夢はそこで終わった。




 ◆




 何かが失われたような、胸にぽっかりと穴が空いたような。

 そんな感覚があるけれど、何故かは分からない。


 夢と現実の境目を揺蕩(たゆた)うようにぼんやりしているシェリアを、現実に引き戻すようなノックの音が響く。


 シェリアが音のする方を向くと、扉の向こうからエレンがひょっこりと姿を現した。


「おはようございます、お嬢様」

「……エレン、おはよう」


 シェリアに挨拶を返され、エレンは嬉しそうに微笑むと、窓辺に早足で近寄る。

 エレンによって、カーテンががらっと開かれると、部屋は陽の光で満ちて明るくなった。


 シェリアはゆっくりと身体を起こし、エレンから水を注いだカップを受け取る。

 両手で包みこむように持ち、カップを傾けて口に含むと、思いの外、喉が渇いていたようで、カップは一瞬で空になった。


「……お坊ちゃんは、早くに出掛けたようです」


 エレンの言葉に、シェリアが時計に視線をやると、針は朝の八時を指していた。


「……まあ、随分と早い時間に出掛けたのね」


 こんなに早い時間から、一体どこに出掛けたのだろうか。

 シェリアは、バルコニーの遥か遠い向こうを眺めた。

 


 昨夜、夕食後に別れて以降、シェリアとアンディは会っていない。


 それは、普通の姉弟(きょうだい)としては、決しておかしなことではないだろうし、今までのシェリアとアンディの距離感を考えても特に問題はないはずだ。


 しかし、一昨日、帰ってきてからのアンディの様子はいつもと違ったのだ。

 少し寂しがり屋で、やたらとシェリア居たがった。


 だから、なんとなく、本当になんとなくだけれど、変な感じがするのだ。 



 昨夜、シェリアは入浴後にアンディの部屋を訪ねたのだが、既に就寝していたようで、眠っている姿が見えた。


 前日遅くに帰ってきたのだし、アンディはきっと疲れていたのだろう。

 昼間も木の上で眠っていたようだし。


 そう思ったシェリアが、出来るだけ音を立てずに扉を閉めようとした時、視界の隅を、羽根のようなものが遮った。

 

 あれは見間違いだったのだろうか。

 それとも。


 シェリアは、空っぽのお皿とカップを見つめた。







 シェリアが、昨日、砂糖菓子にした菫を確認していると、案の定と言うべきか、数えた分より花びらは少なかった。


 きっと、“かれら”の仕業だろう。


 そう推測したシェリアが、笑みを浮かべて、味見がてら一枚口の中に放り込むと、甘さが広がった。


 王都で食べたものには遠く及ばないけれど、それでも甘味としては十分な出来だ。

 

 小分け用の瓶に、両親・アンディ・エレン・ジェームズ・シェリア自身の分と詰めていくと、 瓶に配分しなかった菫が数枚ほど残った。


 さて、“かれら”は瓶に詰めたものと、そのままの状態と、どちらが喜ぶだろうか。


 シェリアが思案して目をそらした一瞬の隙に、砂糖菓子は消失してしまったらしい。

 とりあえず、瓶に詰めずにおこうと結論を出し、視線を戻した時には、そこにあったはずのものはなくなっていた。


 まぶした砂糖の残骸を残して。

 

 呆気にとられたあと、思わず笑ってしまったシェリアは、今夜の焼き菓子づくりにとりかかった。





 ◆




 今にも泣き出しそうな空は、一昨日の雨の夜を彷彿とさせ、どうしようもなく不安にさせる。


 菫の砂糖漬けとドロップクッキーを手に、シェリアは厨房から出てきたけれど、残念ながらアンディはまだ帰ってきてはいなかった。


 シェリアは、何をするでもなく、窓の外を眺めていた。

 探しに行こうにも、アンディが普段どう過ごしているのか知らない。何も知らないのだ。


 沈んでいきそうな気を紛らわそうと、時折、お気に入りの本をぺらべらと捲っては、すぐに閉じた。


 青紫色の表紙のこの本は、シーリティ伯爵家の当主が、シープリィヒルで“かれら”にどこで出逢ったのか記されたもの。


 歴代の当主が皆、記録として残している為に何冊もあるのだが、シェリアのお気に入りは、一番古い、シープリィヒルに来てすぐに記された本だ。


 突然この地に来ることになったことへの戸惑いや、“かれら”との距離が少しずつ縮まっていく様子が記されていて、この本を通して、当時のこの地の物語を知ることが出来る。


 大好きな本だけれど、あまり集中出来ず、数行読んでは部屋の外へと視線が戻る。


 何度も繰り返していると、次第にぱらぱらと雨が降りだし始めて、いてもたってもいられなくなったシェリアは、ぱっと立ち上がると、玄関へと向かうことにした。




 一階へと続く階段を、一歩ずつ降りていく。

 

 雨音は少しずつ強まっていき、シェリアの心はざわりと胸騒ぎを覚えるけれど、これは、きっと気のせいなのだと言い聞かせる。


 アンディの顔を見れば安心するはずだ。


 無意識に、手摺に乗せていない方の手のひらをぎゅっと握りしめる。


 長く続いた階段が終わり、一階の床に足が着くと、シェリアがそっと息を吐いた。




 雨の打ち付けるような音がする。

 どうやら更に強くなっているようだ。


 ぴかっと光ったあとに雷鳴が轟き、シェリアが思わずびくりと身を縮めていると──ドアががちゃりと開いた。


「ただいま」


 やけにはっきりと聞こえたその声に、シェリアが振り返った先には、シェリアと同じ亜麻色の髪をした少年がいた。アンディだった。


 それは、間違いなくアンディで、真っ直ぐにシェリアを見ていた……けれど。


 何かが違う。

 直感的に、シェリアはそう思った。


 帰ってきたアンディは、屋敷の中をぐるりと見渡したあと、シェリアの出方を窺うように見つめた。


 どこか俯瞰したような、冷めた瞳。

 家族であって、どこか距離のある他人を見るような視線。


 その瞳は、シェリアが一年振りに領地に帰ってきた時に会話した時に、確かに見覚えがあった。



 ぱたぱたと、足音が近付いてくる。


 貴族のご婦人らしくない歩き方で、どこからか慌ててやってきたクラリスは、突然、アンディにぎゅっと抱きついた。


 クラリスの後方には、執事のジェームズの姿が見える。きっと、彼が呼んできたのだろう。


 一昨日の夜にアンディが帰って来た時と、まるで様子の違うクラリスに、その光景に、事態が飲み込めないまま、シェリアは確信した。


 ──アンディが帰ってきた(・・・・・・・・・・)、と。


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