第一章 二話
「ふう…。少し、休もうかな…。」
書類の束から目を離し、目頭を押さえながら独り言ちる。
乱雑に散らかった机の上に書類の束を放り、冷めきったコーヒーを口に運ぶ。
ここ最近、まともな睡眠をとっていない。部屋の片隅に配置された姿見にちらと目をやる。
顔は細り、人形のように血の気が引いている。目の下には深い隈が刻まれ、とてもじゃないが、まともな健康状態とは言えないだろう。
仮にも医者の肩書を持つ身だ。
こんな状態で患者と相対しては、いらぬ不安を与えることになるかもしれない。
椅子に沈み込み、ゆっくりと目を閉じる。
…15分だ。少しだけ、仮眠をとることにしよう…。
…駄目だ。眠れない。
瞼を閉じると、余計な思考がぐるぐると脳内で騒ぎ立てる。
やることが山ほど残っている。なにせ、今回預かった患者は特別だ。
いくら人手が足りてないとはいえ、本来であれば、自分のような二流の医者に持ち込まれるような案件ではなかったはず。
「…多少知識があるとはいえ、丸投げするかね、普通…。」
つい愚痴が零れるが、聞いてくれる者もいない。
不満はいくらでも湧いてくるが、そんなもの、いくらあったところで問題が解決するわけじゃない。
思考を黒く塗りつぶす。
ゆっくりと睡魔が意識を食らい始める。よし、これで少しは休め…
「先生っ!」
「うわぁっ!?」
勢いよく扉が開かれる。
すでに微睡みの中にあった意識は急激な覚醒に戸惑い、頭の中がくらくらする。
「せ、先生っ!大変です!」
「聞こえてる!聞こえてるから!少し声を押さえてくれないかな!?」
睡眠不足の頭に大声はかなり応える。
落ち着かない様子の彼女を窘めながら、椅子に座りなおす。
「お、お休みの最中でしたか…申し訳ありません…。」
「いや、いいよ…おかげで眠気も吹き飛んだし…。それで、いったい何があったんだい?」
少しは落ち着きを取り戻した様子の看護師に問いかける。
彼女には患者の経過観察を任せていた。十中八九、患者の容体に関することだろうが…
問題は、それが良い知らせなのか、悪い知らせなのかだ。
見ると、かなり急いで報告に来たようだ。息は上気し、顔は紅潮している。
それに…膝をすりむいている。
…え…?転んだの?院内に極力段差は配置しないようにしたはずだけど。
「はい、報告します!患者さんが…」
ごくり、と唾をのむ。
柄にもなく、緊張してしまう。何せ、前例のない試みだ。
今回の試みが成功すれば、界隈を揺るがすニュースになることだろう。
「患者さんが!目を覚ましました!」
「よしッ!」
両こぶしを強く握りしめる。
疲労などは何処かに吹き飛んでしまうほど、この上なくいい知らせだ!
「すぐに診察に向かう!君も資料の準備ができ次第、急いできてくれ!」
「承知しました!」
看護師が身を翻し、退室したのを確認すると、急いで身支度を始める。
椅子の背もたれに掛けられていた白衣を羽織り、飲みかけのコーヒーを一息に流し込む。
姿見で軽く身なりを整え、机に放った資料をかき集める。
「よし…行くぞ…!」
頬を打ち、気合を入れる。
ここ一番の大仕事だ。山場は超えたとはいえ、ミスは許されない…!
決意を新たに扉を閉め、部屋を後にする。
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「ごほっ、ごほっ!はあッ…ふう…ふうぅぅぅ…」
大きく息をつき、乱れた呼吸を整える。
全てが想定外だった。問いかけの後の少女の反応、その後の行動。
そして、鳩尾への強烈な一撃。
上手く空気が回らずぼんやりと揺れる思考では、今の状況は手に余る。
ひとまず、平静を取り戻すことに意識を集中させる。
元凶である少女は未だに自身の胸に顔をうずめ、鼻を啜っている。
落ち着くまで、有意義な会話をすることはできないだろう。
時間が状況を改善してくれることを待つか、それとも、事態を収拾できる人間を待つか…
…そうだ、先生…!白衣の女性が呼びに向かった先生とやら…!
もはやほかに頼るべきものもない。先生…!早く来てくれ!
半ば投げやりのような形で心の中で叫ぶと、見計らったかのようなタイミングでコンコンコン、とドアが叩かれる。
「入ってもよろしいでしょうか?」
ドアの向こうで入室の是非を問う声が聞こえる。
女性のものではない。ゆったりとした、穏やかな男性の声だ。
「…!はいっ!どうぞ!」
先生…!
これ以上ない完璧なタイミングで差し伸べられた救いの手に謎の感動すら覚える。
ありがとう、先生…!感謝の思いを言葉に込めながら、入室を促す。
「失礼します。…って、えぇ…?」
ドアを開け、眼前の光景を目の当たりにした白衣の男性が困惑の声を漏らす。
ベッドから転げ落ちたような体制で、息を上気させながら嬉しそうな顔でこちらを迎える少年。
そして、その少年の胸に顔をうずめながらすすり泣いている少女。
これが困惑せずにいられようか。
「なにこれ聞いてない…。」
ぽつり、と男性の口から漏れ出た言葉を最後に、奇妙な沈黙が、しばらくの間続いた。