第一章 一話
暗闇の中に光が見える。
酷く淡く、今にも消えてしまいそうな光が。
意識は宙に揺蕩い、あたりは心地よい静寂に包まれている。
このまま身を委ねていれば、かろうじて認識できる脆弱な自我は闇に融け、呑まれてしまうだろう。
(ここは…。)
ぼんやりと光を見つめていると、ほんの僅かではあるがそれが揺らぎ、自身から遠のいていることに気付く。
曖昧な意識の中で何かが警鐘を鳴らしているが、焦燥に踊る思考とは裏腹に体は重く、動かない。
(……いいか。)
自分が置かれている状況も、あの光が何なのかも、…自分自身のことすらも。
何もわからない。このまま心地よい揺らぎに身を任せ、消えてしまうのも悪くは…
「……きて。」
(……ッ!?)
光から零れおちた声が静寂を破る。
雑踏の中では掻き消えてしまうような微かな声だが、確かにこの鼓膜を震わせる。
(今のは…?)
「起きて…お願い…。」
間違いない。
あの光の向こうで、何ものかがこちらに向け呼びかけている。
(いったい誰が…?)
…いや、考えるのは後だ。
声の主が誰であれ、確かに自分を呼ぶものがいる。
…必要とするものがいる。
ならば、こんなところで果てるわけにはいかない…!
鉛のように重い体に力を籠め、声の元である光に手を伸ばす。
(くそ…ッ!あと少し!)
ほんの僅か、あと数瞬早く手を伸ばしていれば届いていたであろう光。
無情にも指先をかすめ、揺らぎながら離れて行ってしまう。
(…いやだ…!)
ここで自分が消えてしまえば、少なくとも…こちらに呼びかけ続ける人物は落胆するだろう。
もはやこの命は、自分ひとりのものではない。
生きる理由が出来てしまったのだ。
何としてでも、この状況を脱する必要がある。
(…もう誰も…悲しませたりするものか…!)
『…よく言ってくれた。』
(ッ!!)
再び声が聞こえる。
光から零れたものではない。低く芯の通った声はおそらく…自身の背後から発せられている。
『そのまま消えそうになった時はどうしたものかと思ったけど…まあ、思い直してくれてよかったわ。』
また別の、女性のものであろう声が背後から聞こえる。
振り返り正体を確認しようにも、体は動かない。
『そうだね。…さあ、こんなところで呆けている暇はないだろう。あまり待たせてしまっては失礼というものだよ。』
今度は男性のものだ。柔らかく、優し気な声でこちらに語り掛ける。
(ちょっと待ってくれ…!あんたたちは一体…!)
『…直ぐにわかる。』
『うん、すぐにね。…ひとまず、別れの時だ。』
背中に何かが当たるのを感じる。
おそらく、三人分の手が、背中に添えられている。
『それじゃ、頑張ってね。あなたの人生が良いものになるよう、祈ってるわ。』
体が押し上げられる。
一人では掴むことのできなかった光が、ゆっくりと近づいてくる。
指先に光が触れる。
瞬間、視界が白く染まり、体を光が包む。
意識はゆっくりと薄れていき、感覚が消えていく。
『…いってらっしゃい。僕たちの分まで、楽しんで生きてくれよ。』
その言葉を最後に、意識は完全に途切れた。
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「……ぷはッ!」
再び意識を取り戻し、仰向けの状態から上半身を勢いよく起こす。
どうやら、ベッドに寝かされていたようだ。体にかけられていたシーツが、するりと床へ落ちる。
見開いた眼は急な明るさに焼かれたように、チカチカと明滅している。
「ここは…?」
周囲の様子をうかがう。
暖かい雰囲気の漂う木造の部屋。ベッドが複数配置され、その周辺には腰ほどの高さの棚や花瓶が配置されている。出入り口であろう扉が一つに、壁の一つには巨大な窓が配置されている。
窓から差し込む光は満遍なく部屋を照らしており、ほかに光源のようなものは見当たらない。
そして、自身のベッド。
そのすぐ傍らに、二人の女性が立ち尽くしている。
白衣を纏った女性と、少女とも呼べる幼い風貌の女性。
そのどちらもが、口を半開きにし、こちらを凝視したまま固まっている。
「あ、あの…」
状況を把握するため、声をかける。
瞬間、白衣の女性の肩がびくりと震え、ドアに向かって慌ただしく走り出した。
ドアの取っ手に手をかけ、こちらに振り返ると
「せ、先生を呼んできます!」
そう叫び、バタバタと部屋を出て行ってしまった。
「あ、ちょっと!」
呼び止めようとするが返事はなく、その代わりにか、ドアの先で大きな音が鳴った。
…転んでしまったのか。あの様子と無理もないが。
…どうしたものか。
状況は把握しておきたいが、傍らの少女は未だ微動だにせず、話は聞けそうにない。
…先生を呼んできます、とあの女性は言った。
ならば、下手に部屋を離れるわけにもいかない。もどかしいが、少女が回復するか、先生とやらが到着するまで、待つ以外に選択肢はなさそうだ。
手持無沙汰になってしまったので、改めて少女の様子をうかがう。
窓からの日差しを受け、きらきらと輝きを放つ白銀の毛髪。
腰のあたりまで蓄えられたそれは、時折吹き込む窓からの風を受け、シルクのように柔らかく靡いている。
年の頃は…正確にはわからないが、15、16あたりだろうか。
一見すると成熟しているように見えるが、やはり顔つきに幼さが残っている。
そして、見開いた眼。
瞳は蒼く、どこまでも澄んでいる。
宝石のような美しいその瞳の奥に、神秘的で、尋常ならざる光を見た気がした。
ここまで見て、一つの結論に行きつく。
自分は、この少女にあったことはない。眼前の少女はどこか神秘的な雰囲気を纏っており、さらには、美しい。この世のものではないと感じてしまうほどには。
たとえ往来の中で一瞥しただけでも、この少女を忘れることは難しいだろう。
すると、一つの疑問が生じる。
暗闇のなか、光の向こうで呼びかけていた声。
あの声は、白衣の女性のものではなかった。
目覚めたとき、この部屋にいたのは白衣の女性と、この少女だけ。
状況から察するに、声の主は眼前の少女のものと考えていいだろう。
しかし、見たところ、自身の体に外傷はなく、調子も悪くない。
窓から得られる外の状況ものどかなものだ、切迫しているようには思えない。
…なぜ自分は呼ばれた?見ず知らずのこの少女に。
俺はあの暗闇に行き着くまでに、何をしたんだ?
過去を掘り返そうと思考を巡らせるが、何も思い出すことができない。
この部屋で目を覚ますまでの記憶は、まるで元から存在していないかのように、欠片すら取り戻すことができなかった。
自身が置かれている状況に困惑し、焼けた思考を放棄する。
呆然と少女を見つめていると、ぽつりと、意図せずに問いかけが零れ落ちる。
「……俺を呼んでくれたのは、君なのか?」
少女の表情に変化はない。
ただ、眼の淵が少しずつ潤み始める。
長い睫毛を湿らせ、ゆらゆらと揺れていたそれは
ついに耐え兼ね、大粒の涙として零れ落ちた。
「よかった…!…よがっだあぁぁっ!」
突然、少女が動き出し、両腕を広げて飛びついてくる。
完全に不意を突かれ、体勢が崩れたところに、衝撃を受けることになる。
「うおあぁ!」
間抜けな叫び声をあげながら、ベッドから転げ落ちる。少女も追随して。
少女を落下の衝撃から守るため、とっさに抱き寄せる。
「ぐほッ…!」
背中に衝撃を感じると同時に、少女の鋭利な肘がみぞおちに突き刺さる。
空気がすべて吐き出される。失った空気を取り戻そうと肺は奮起するが、努力は無駄に終わる。
「かッ…!かひゅ…!」
「うええぇぇぇん…!ぐすっ…ぐすっ」
誰もいない部屋に、一人の少年が空気を求めてあえぐ声と、その胸の中で泣きじゃくる少女の声が。
酷くむなしく、響き渡った。
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