祝福の女神 2
子どもたちはどうやら、プラネラの庭にある、迷路式の植え込みに入っていったらしい。伯母のディミトラがプラネラのために造らせた小規模の迷路だったが、もう2年ほど手入れをされていない。植木は伸び放題でみすぼらしく、昼間でもどことなく恐ろしげだった。
子どもは怖いものが好きだ。迷路がこのように荒れてからは弟もこちらに入りたがって、プラネラを困らせた。
帽子から垂れ下がるレースが植木に引っかからないように気をつけながら迷路を進むと、ぼそぼそとした話し声と、高く澄んだ泣き声が聞こえてきた。
こんなに綺麗に泣く声は初めて聞いたわ、とプラネラは驚いた。プラネラにとって子どもの泣き声とは、弟の、鼓膜を破りそうな甲高いたぐいのものだった。あれはあれで元気な証拠なので、疎ましく思ったことはないけれど。
子どもたちがいる通路から2枚の植物壁を隔てた通路で、プラネラは耳をすませた。
「泣いてばっかりかよ、おんなおとこ」
「漏らしてる。きたないなぁ」
誰かをいじめにこちらの人目につかないほうへ入ってきたのね、とすぐに理解した。
そしてプラネラの胸に瞬間的に怒りを抱かせたのは、おんなおとこ、というからかいだった。珍しくも地底の男神の忌み色を受けて生まれてきたプラネラは、望むと望まざるとに関わらず、男の子みたいな女の子だった。
だからそれは、女神の教えに倣うためでなく、自分の怒りのためだった。
「お客様、こちらは領主の私的な庭でございます。お母様、お父様が探しておられましたよ。お戻りください」
プラネラは自身の声が、その歳の子どもにしては低くてかわいらしくもないことを知っていたので、メイドを装って声をかけた。もちろん植木の壁で姿を隠したまま。
突然現れた第三者の声に、ぴた、と子どもたちのはしゃぐ声が止まった。それからどうする?という声が聞こえると、しばしの沈黙があってから、我先にと迷路の出口へ向かって駆け出していく足音が続いた。
プラネラが思うよりも、メイドを装った声が厳しく響いたのかもしれない。あなたが可愛げのないと嫌がった声が役に立ちましたお母様、とプラネラは心の中でこぼした。口に出す日は絶対に来ないと思われたので。
足音が完全に聞こえなくなってから子どもたちがいた通路を覗き込むと、うずくまっているピンクブロンドの小さな頭が見えた。なるほど、祝福の女神の幸運な髪色を頂いている。これをおんなおとこなどとからかうとは、あの子たちの行く末は死者の国での労働ね、とプラネラは呆れ返った。
「……どうされたの?」
怯えさせないように、なるべくやわらかく聞こえるように意識して、声をかけた。
丸い頭がびくりと揺れて、おそるおそる顔を上げた。
「まぁ……」
そんなふうに感嘆の声を上げたのはよくないことだったが、意識する前にこぼれてしまった。
子どもの頬や唇は丸く、鼻は小さく、瞳は菫色だった。薔薇色の頬の上を転がる涙さえ、朝露に見せる清しい美しさがあった。絵画や挿絵に描かれる女神の姿をそのまま小さくしたような、誰もに理想的と評されるだろう容貌をしている。
白いタイツに膝丈のトラウザーズから、かろうじて男の子だとわかる。そうでなければ女の子だと思ったかもしれない。そう考えた自身を、プラネラはすぐさま恥じた。
「ぼく……、も、もらして、ない……」
小柄な男の子だった。プラネラよりも、2つ3つは歳が下かもしれない。涙ながらの訴えをうけて、どうやったら彼の自尊心を傷つけずに、スムーズにここから離れられるだろう、とプラネラは考えあぐねた。粗相をしてもおかしくない3歳の弟でさえ、実際にそうなれば恥ずかしさから泣きだすのだ。
さらに彼が、プラネラよりも高位の家の子どもだった場合、ことはもっと複雑になる、と彼の洋服にさっと目を走らせたとき、白いタイツがオレンジっぽく汚れていることに気がついた。
それはプラネラにとって見慣れた色だった。領地で取れる茶葉の色だ。茶色とオレンジの中間のような色で、飲料にすれば透き通った色を、染料にすれば深みのある渋い色を出す。
「もしかして……、お茶をこぼされましたか?」
ますます体を縮こめていた男の子が、ぱっと顔を上げた。まさか、わかってもらえた、というような驚いた顔だった。
プラネラもほっと息をついて、歩み寄った。
男の子に立ってもらって、汚れた箇所を確かめる。トラウザーズの前立てを広範囲に濡らして、白いタイツの足首まで、お茶の跡が筋となって続いていた。しかも側には、ガーデンパーティで使用されているはずのカップが落ちているではないか。プラネラは、先程の状況と合わせて考えて、故意である、と判断した。
かけられたのですね、と確かめると、男の子は唇を噛んで、かすかにうなずいた。
「おとうさまと、おかあさまに、こちらで、つくって、もらった。にあうって……、きれいな、おようふく、だった、のに……」
涙声に、ときどき喉をひくつかせる音が混じる。
男の子の上下揃いの深緑の仕立ては、背の高い植物の茎や葉を思わせて、彼自身を花のように見せる装いだった。こちらでつくった、の言葉の通り、プラネラには馴染み深い、領地の草木染め特有の緑色だ。銀糸の縦模様と合わせて、伝統的なデザインのそれだった。
きれいなお洋服、という言葉を、プラネラはうれしく思った。
「領地の品を惜しく思われたのなら光栄ですわ。職人も喜びます」
「ごめん、なさい……」
プラネラとしては慰めのつもりだったのだが、男の子は顔をくしゃくしゃに歪めて、さらに涙をあふれさせた。その謝罪と涙の純粋さは、プラネラの胸を強くうった。
外見と同じで中身も醜いのだろう、と影に日向に指差されて、プラネラは何度も反感を抱いてきたが、外見が美しければ中身も美しいというのは真かもしれない、とそのとき初めて感じた。
「わたくしはプラネラといいます。お名前を教えてくださる?」
「……、カリス」
カリス様。
お名前まで輝くようなものでできている。
できすぎなくらいできすぎた男の子に、プラネラはつい笑ってしまった。
「カリス様さえよければですけれど……。替えのお洋服がありますの。もちろん全く同じというわけにはいきません。けれど、よく見なければわからないくらい……、パーティが終わって、逗留先にお帰りになられるくらいまでは、ごまかすことができると思います」
カリスは困惑した顔で押し黙った。
それもそうだろう。プラネラは、ガーデンパーティには、冒頭に建物の中から挨拶をしたきりで、参加をしていないようなものなのだ。
カリスにとってはどこの誰ともわからない人間で、メイドのように声をかけたけれど、装いはけしてメイドのものではない。大きな帽子とレースのお陰で顔もはっきりとはわからないはずだ。率直に言って……、彼にお茶をかけた子どもたちと同じくらいには、信用できない存在だろう。
「おいやならば、わたくしが領主館のものに伝えて、どなたか呼んでもらいます。どちらにしろ、ここは離れませんと……」
「……あなたを、信じます。ぼくを、たすけて、くれました」
ありがとう、お礼を言うのが遅くなってごめんなさい。
カリスのまっすぐな声と、レース越しにプラネラの瞳を捉えようとした視線に、ふいに、わけもわからず泣きだしたくなった。
わたくし感動屋だったのかもしれないわ、とプラネラは考えた。カリスの、雄大な自然のような、あるいは磨き抜かれた工芸品のような美しさに、いちいち感動してしまうのだ、と。