祝福の女神 1
ぱたり。
プラネラはぶ厚い装丁の本を閉じた。神話の趣向が変わって女神の冒険譚が始まる前に、いちど息をつく必要を感じたからだ。画集と呼ぶべきか迷うほど挿絵の入った本だったが、画派も技法も(悪く言えば)節操なく集めた挿絵は、統一感などなくてもじゅうぶんに満足のいくものだった。1ページだけ、王都の美術館に飾られている有名な宗教画の写真が入っていたのもよかった。
プラネラをひっそりとさせておくには、これ以上ない上質な鑑賞品である。
本を万が一にも汚さないように遠くへ押しやってから、テーブルにつっぷして、細く長くため息をついた。監督の侍女でもいれば姿勢を咎められただろうし、髪が乱れると小言を頂戴しただろうが、ガーデンパーティの方に人手をとられて、プラネラの側には今誰もいない。
プラネラは創世神話が好きだ。特に創世の二柱が、まだ姉弟神だった頃の物語が。
姉弟神が手を取り合って地上を広げていく、その幻想的な世界が好きだし、鏡を手にした姉弟神が決別していく、その無情さも好きだ。
本の物語部は、珍しいことに、弟神の描写が多かった。プラネラはそれらを夢中で追いかけた。たとえ物語の性質上、姉神に縋った弟神の醜さ、戦いの凄惨さ、償いの役割といった負の面ばかりが強調されていたとしても。
再び引き寄せた本の表紙を、そっと撫でる。
たいていの人は、祝福の女神に刃を向け、死の概念と同時に人間を生まれさせた弟神を忌避する。だから挿絵などは弟神の姿を描き換えられたりする。姉神のために夜と眠りを創造した場面でさえも、姉神が人のような姿で横たわって描かれるのに対し、弟神は夜空そのものや、天上から落ちかかる夜色の天蓋として象徴的に描かれることが多かった。
けれど、プラネラは、それがまるで運命づけられたものであるかのように、弟神の行いに強いシンパシーを感じていた。
ただしく美しいひとたちには、みにくいものの気持ちなどわからないのだわ。だから姉神も、弟神の願いをかんたんに切り捨てられたのだわ。
誰にもそんな心の内を話したことはない。話せばやはり、外見と同じで中身も醜いのだと、みんながプラネラをそしるだろうから。
とはいえ、みんなが好ましく思うように、プラネラもまた、清く正しく美しい姉神に心惹かれるものがあるのは確かだ。プラネラはまだ7歳なので、それくらいの素直さは自分自身に許している。
さぁ、地上に残された姉神が、どう鮮やかに描かれるだろう、と本の続きに戻ろうとしたときだった。
庭に面した窓の外に子どもたちの高い声と足音が近づいてくる気配がして、プラネラは椅子から滑り落ちるようにしてうずくまった。窓にはレースのカーテンが引かれていたが、晴天に惹かれてほんの少し窓を開けていたので、風の具合によってはカーテンの隙間からプラネラの姿が見える危険性があった。当然、プラネラ専用の帽子も被っていなかった。大仰なつくりで邪魔なのだ。
机と椅子の陰から、そっと外の気配を窺ったが、子どもたちの声は徐々に遠ざかっていく。ひとまずの安堵を得て、それから、たぶん招待客の子どもたちだろうけれど……と不思議に思った。こちらは領主館の奥まった居住区であって、遊ぶにしても子ども用の遊具もなければ、眺めるに足る装飾的な庭園もない。
迷い込んだのかもしれないが、それとなく来客用の区画へ帰ってもらえないだろうか。それに誰か木の棒でも振り回したのか、窓ガラスを何かが引っかくような音がしていた。大きな傷でも残っていたらプラネラが疑われる。
仕方がないので、帽子をしっかり被ってから、テラスへと降りて、子どもたちの声を追った。