創世神話
初めにあったのは、泥の塊だった。
真っ暗闇の、天も地もない空間である。
しかし泥が這いずれば、どこかにぶつかる感覚があった。泥は、肉体と、自身の外殻、そして外の世界を得た。
這いずり、ぶつかり、その衝撃は餌となって、泥の腹に熱を育てた。
そしてあるとき、とうとう育ちきった熱が、泥に語りかけてきたのである。
——あなたはだれ?——
——わたしは……——
問いかけられて、泥は意識として目覚めた。目覚めと願いは同時に起こった。わたしがだれなのか、答えたい。知りたい。わたしに語りかけてきた者の、姿が見たい。
肉体の内側に閃光が走り、炎が上がり、意識と熱はねじ切られるように分かたれた。
肉体の一部を剥がされる衝撃は強く激しく、意識はあまりの痛みに声を上げ、涙を流した。ここに空気と音が生まれた。落下した涙は雨となり、空を創ると、巨大な水たまりとなった。
意識の、高く澄んだ声は、困惑して、剥がされたもうひとつに問いかけた。
——おまえはだれ?——
深く低い声が、嬉しげに、それに答えた。
——わたくしはかつてあなたでしたが、今はもう違います。姉上——
創世の二柱の誕生である。
弟神は姉神の手を引き、涙によってできた水面に降り立った。痛みに震える姉神を弟神が休ませたいと願うと、弟神の踏み歩いた水面は大地に変わった。弟神は、掘り起こされた柔らかい土の上に、姉神を横たわらせた。大地と姉神の衣が触れあって、草花が萌えいでた。姉神の横たわった体の稜線は山脈を創り、頬から大地に伝い落ちた涙は川を創った。初めに生まれた水面は、こうして海となった。
弟神は、山々に渡る姉神の豊かな髪をすいて、姉上の金の髪はまこと美しい、とつぶやいた。
そうして姉神に覆いかぶさると、天上にある強い光から姉神の姿を隠し、いましばらく休まれよ、と気遣った。
鉱物、美、陶酔、称賛が生まれ、弟神の長い髪で遮られた空間から、夜と眠りが生まれた。
姉神はただ微笑んだ。そこに愛と感謝が生まれた。
◇◇◇
睦まじく過ごす姉弟神の間に、あるとき不和が生じた。
きっかけは、水面と鉱物が混ざり合って、鏡が生まれたことによるという。
鏡はかつてない鮮明さで、弟神の姿を映しだした。削げた頬、厳しい頬骨、高すぎる鼻、面長の、左右非対称の顔立ち。夜が生んだ月よりも青白い肌。一筋の光も差さない黒い瞳。
姉神の波うつ金の髪を、細くて小さい鼻先を、薔薇色のまろやかな頬と唇を、朝から夕にかけての空の変化を写しとる瞳を、真珠色から小麦色まで濃淡を変える肌の色を愛し、また自身もそれらに準ずると信じていた弟神は、深く嘆いて、額を大地に打ちつけた。大地が揺れ、山が割れ、地震と噴火が生まれた。
弟神の視界に入り込んだ自身の髪は、肌を傷つけ血を流させる刃のような直線である。
姉神のために夜と眠りを創ったとき、小さな疑念が種となっていた。そうしてここに、嫉妬が芽吹いた。
——なぜわたくしの姿を初めから教えてはくださらなかったのか! かように醜く滑稽なものであると!——
——おまえをそのように思ったことなど、いちどたりとありませぬ——
姉神は弟神を抱きしめ、姿形が異なるゆえの愛を説いたが、弟神は受け入れなかった。
刃のような髪をかきむしり、引きちぎり、姉神に懇願したという。自身の姿形を姉神のように変化させてほしい、それが無理ならば、姉神に喰らわれたい、始まりの瞬間のように、その肉体に住まわせてほしい、と。
——姉上、どうか……! わたくしを哀れに思うのならば……!——
弟神の叫びは喉を破り、血を吐かせた。それが地上に落ちると毒となった。草花は枯れ、病が生まれた。
——おまえを愛しているの。そのようなことをさせないで——
姉神は大粒の涙をこぼした。姉神の涙が大地に落ちると、枯れた草花も割れた大地も元に戻り、毒や病への耐性を備えた。
医療と再生の誕生であり、絶望と憎悪が生まれた瞬間でもある。
弟神は黒曜石の剣を左手に取った。姉神は黄金の剣を右手に取った。
二柱は刃を向け、争い合った。
戦いは五日の間続き、弟神は四日目に姉神の左腕を落としたが、五日目の晩には心臓を貫かれて動かなくなった。
翌朝、姉神は、今は悪しき存在となってしまった弟神の肉体を大地に埋めた。死と埋葬と悲劇、そして永劫が生まれた。
姉神の左腕から流れた血液、弟神の心臓から流れた血液は、混ざりあって大地に血の川を創った。弟神を偲んだ姉神の涙が血の川に落ちると、そこから二柱に似た姿の者達が現れいでた。戦いが始まってから、七日目のことだった。
これが、人の始まりである。
私達人が不完全な存在であり、死から逃れられないのは、尊敬と忠誠を捧げるべき対象に嫉妬と憎悪を向けたためである。しかし、肉体を欠損してなお敵対者に手向けられた、慈悲の心のためでもある。
創世の男神は、長い眠りから目覚めた後、地底に死者の国を築いた。血の川から生まれた人類の始祖が肉体の死に至ると、彼らを迎え入れ、これを治めた。創世の女神への償いと同義である。
死の国の神は、厳しく鋭い王であるという。夜よりも暗い髪に、地底の泥よりも濁った瞳をしているという。血の気のない青ざめた肌をして、腐りかけの肉体を重いマントで包み隠しているという。
女神に祈りを捧げずに生を終えた者は、死の国でかの神に似た醜い姿に変えられ、魂の消滅まで無益な労働を課され、その後も地上に生まれ直すことはない。
人は死を、この男神の醜さと苛烈な裁きのように恐れた。女神への感謝と、男神への畏怖によって、生を善きものとするよう努めたのである。
そのころ、地上にただひと柱となった女神は——