第十七話 逢瀬(1)
執務も夕食も終わった夕方ごろ、わたしは西の塔に向かった。
西の塔はたしかに、ひとけがなかった。
ずいぶん長いこと、使われていないのだろう。
二階分ほどをらせん階段でのぼって、石をくり抜いて作られた窓から顔を出す。
猫姿のコルネールがうしろにいることを確認してから、わたしは笛を短く二回吹いた。
それから、長いこと待った。
しまった。狼族の村は遠いんだったわ。
わたしは壁にもたれかかって、顔を洗うコルネールを見下ろした。
「ねえ、コルネール。昨日、戦争の話をしたわよね。猫族は、戦争のせいで人間が嫌いになったの?」
「さあ。僕は一族の方針は知らないよ。戦争も、ずっと前の話だし。でも……人間がろくなことをしない、ってのは猫族の総意じゃないかな。獣人税も、ひどい話だよ。君が獣人税を取り入れない領主で、よかった」
「人間がみんな、嫌いってわけじゃないのね」
「僕はね。他の猫族は知らないけど」
コルネールの口ぶりからして、猫族は個人個人の考えが大きく違うのだろうか。
「やっぱり獣人税を取り入れることにした、とか言わないでよね。それだと、さすがに恨むよ」
「しないわよ」
わたしはコルネールの心配を、一蹴する。
減税や施策の結果は、すぐには出ないはず。経済が上向いていくのは、もう少し先だろう。
いつまでわたしは、領民に「都から来た悪役令嬢」と思われ続けるのかしら。
思案したとき、がっ、と窓のへりをつかむ手があった。
驚いて、思わず後ずさる。
腕で体を持ち上げ、窓からひらりと降り立ったのは、ジーグルトだった。
「ジーグルト!」
「こんばんは、エヴェリーン。笛で、呼んだだろう? 何か、話でも?」
「え、ええ……」
わたしが見下ろすと、コルネールは察したように背中を向けて階段を下りていった。
「僕は下のほうで見張りつつ、結界を張っておくよ。話し声が、届かないようにね。誰か来たら、知らせにくるから」
「ありがとう、コルネール」
礼を言ってから、ジーグルトに向き直る。
「ごめんなさい。すごく大事な話がある、ってわけじゃないんだけど……」
「それでは、なぜ?」
会いたかったから。
答えるのは恥ずかしくて、わたしはうつむいた。
「……す、少し、話をしたくて。ごめんなさい。迷惑だったかしら」
「そんなことはない。しばらく会ってなかったしな。別に、なんてことのない用で呼んでも構わないんだ。俺も、君ともっと話したいと思っているから」
ジーグルトのまっすぐな視線を受けて、笑顔を浮かべたくなる。
呪いがなければ。笑えたのに。
「兎族のことが気になっているのかな、と思ったんだが」
「正直、それも気になってはいるわ。でも、焦っても仕方ないと思って。接触したら、あなたはすぐ来てくれるでしょうし」
「そのとおり。猫族から連絡がないんだ。おそらく、まだ兎族が猫族のところを訪れていない。交渉が失敗したら、それならそれで報告に来てくれるはずだからな」
「そうよね。早く、狐の協力が得られるといいんだけど」
誰が化けているかわからないという状況は、心臓に悪かった。
「そういえば、エヴェリーン。王都に行くのは、いつなんだ?」
「まだ、決まっていないの。少し落ち着いたら、国王陛下に領地のことを報告しに帰るつもりなんだけど。何かの式典のときに、帰るわ。陛下の誕生日式典が、そう遠くないうちにあるから、それに出席しようかしら」
わたしの懸念は、招待状がまだ届いていないことだった。
わたしは、招かれざる客なのかもしれない。
でも、どちらにせよ一度は都に帰らないと。呪いのこともあるし。報告は必要だ。
「君が王都に帰るとき、俺も同行していいだろうか?」
「あなたが? でも、どうして」
「君は都に敵がいる。コルネールは魔法使いだから頼れるが、接近戦は苦手だ。君を守れる者が、もうひとり必要だと思う」
「わたしは、とてもうれしいんだけど……」
ユリアヌスの顔が、頭に浮かんだ。
「たぶん、うちの騎士団長が嫌がると思うのよね」
ユリアヌスは、わたしの都行きについてくるはずだ。
「説得できないか?」
「……してみるわ」
わたしにとっては、ユリアヌスは狐の可能性がある人物のひとりだ。
正直、ユリアヌスよりジーグルトのほうが信じられる。
「王に報告するなら、俺から獣人族は君の治世に喜んでおり、これからも支えていく所存だと伝えたい」
「それは、難しいと思うわ」
「なぜだ?」
「都のひとは、獣人を見たことがないもの。獣人が王宮に入ったと知ったら、大騒ぎになっちゃうわ。あなたが同行するなら、人間として振る舞ってもらわないと」
こんなことを言いたくはなかった。
しかし、獣人族への偏見を持つ貴族は少なくない。
ジーグルトを公衆の面前に引き出して、傷つけたくなかった。
「そうか……。残念だな。俺は、君がヴァイスヴァルト辺境伯になってくれてよかったと、伝えたかっただけなのに」
「ごめんなさい」
「謝ることはない。わかったよ、人間の振りをする。造作もないことだ」
ジーグルトは空元気のように、笑ってみせる。