⑦
「兄ちゃん・・・?」
「・・・え? あ、うん・・・」
「大丈夫?」
「いや、俺は大丈夫だろ。大丈夫じゃないの、母さんじゃん」
「そうよ! どうしてあんな・・・、酷いじゃない!」
分かった、気がした。具体的に何がどう分かったのか、まだはっきりと自分で自分に説明が出来ないほどぼんやりとした理解ではあったが、でも確実に、間違いなく分かったことが分かってしまった。
そうして突きつけられた形の見えない理解に茫然としていると、羽交い締めにしたままの弟が首だけ捻って、俺の様子を窺っていて。
告げられた、俺を案じる言葉。
向けられる、俺を見つめる瞳。
言葉は、勝手にするすると俺の口から零れ出た。でも、分かっている。その言葉の中に、俺の感情はない。自動で出てくる言葉にそんなモノが宿るわけなんてないのだ。
でも、たとえどれだけ淡々としていようとも、感情が見えなくても、味わえなくても、そういうモノだと思って見てみれば、そこに確かな感情を見つけることもあるわけで。
弟の声には、相変わらず感情が見えなかった。表情も同じく、何も見えないし、一切何も味がしない。何も、しない。ただそれでも、間違いなくその無表情に、平坦な声に、俺を案じるモノがある。そしてなにより、殴られかけた俺を案じて実の母親を蹴り倒してまで助けてくれた弟の行動が、俺が今見て取っている感情を間違いのないモノとして、保証してくれている。
今まで、分からなかったこと。
今まで、分かろうとしなかったこと。
味がしない、ただその一点だけに気を取られ、きちんと見ていなかったこと。
「兄ちゃん?」
「いや・・・、ごめん・・・」
「なにが?」
「・・・うん、なんか、ごめん」
「兄ちゃん・・・」
「ごめん、ホント、ごめん・・・」
形が分からないでいた分かってしまったこと、その形がようやくはっきり見えてきた気がする。
つまり、俺は何も分かっていなかったのだ。自分だけが分かる、自分は特別だと思い込んで、自分が分かっていると思っているモノが本当にその通りなのか、確認もしないまま調子に乗っていただけ。
調子に乗って、何も分からないで悦に浸っていただけで。
「ちょっとっ! なんなの? 何を二人で言っているの! ユウ、お母さんにごめんなさいでしょ!」
俺にごめんなさいを言う素振りが全く無い母が、床に座り込んだまま怒鳴り散らしている。
その声には甘さが消え、相変わらず酷い苦みと、消えた甘みの代わりに辛みが混じり始めた。混じり始めた辛みがどんな感情の味であるのかは俺には分からないし、たぶん、分かると思っても意味がない。
全ては間違っていたのだから。
俺は、感じる味の答え合わせをしていないかったんだ。
「聞いているの! 二人共、何か言いなさいよ!」
母が俺と弟に向かって叫ぶが、今はその声を聞いていられない。
上がる金切り声ではなく、聞きたい声がある。今こそ、確認しなくてはいけないことがある。
だから俺はただ弟を、俺を振り返って真っ直ぐ見つめてくる弟を見つめ返して、母の声に負けないように、でも、弟だけに届けばいいと思う音量で、尋ねる。
「なんで・・・、さ、なんで・・・、あんなに、母さん、蹴ったの?」
「なんでって、だって兄さん、殴られそうになってたじゃん」
「そう、だけどさ、でも・・・、べつに、あそこまで蹴らなくてもさ、最初の、母さん吹っ飛ばして俺から離してくれたアレだけで、もう大丈夫だったじゃん。それなのに・・・」
「大丈夫じゃないじゃん。徹底的にやらないと、また兄ちゃん、殴られるかもしれないじゃん」
「また殴られるっていうか、一度も殴られてないけど・・・」
「徹底的にやらないとって、なんなのよ! ユウ! お母さん蹴って、どうしてそんなっ・・・!」
どれだけ怒鳴っていても、すぐ近くで交わされる会話は聞こえるらしい。俺達の会話の途中、母の絶叫が混ざる。しかし母からは、俺に振り上げたあの手の理由は、やっぱり語られない。まるで既存の事実としてそこにあるかのように、一切を、何も語らず。
ただ何も語られなくても、あの表情と、答え合わせすら出来ていないと分かったばかりの味で、全てが分かってしまっているけれど。答え合わせをしていなくても尚、確信出来る。それほど分かり易いソレ。
だから俺も、改めて聞く気はない。よく考えれば、母のソレはきっと当然で、当然なのに俺は味ばかり気にして、信じて、気づこうとしなかったのだから、自業自得というヤツだろう。ある意味、とても納得出来た。
しかし弟の方は俺と合っていた視線をゆっくり母の方へ向け、横顔さえ見えなくなったその顔に、いつも通りの表情を浮かべているのだろと簡単に想像がつく声を、やっぱりいつも通りの口調で淡々とその口から滑り出させるのだ。
「どうしてって、どうして?」
「だってっ!」
「兄ちゃん殴ろうとしたんだから、蹴り飛ばすに決まっているじゃん」
「なんでよ!」
「なんでって、だから、なんで?」
「おっ、お母さんは、お母さんなのよ!」
ユウのお母さんじゃない!
「なのにっ、蹴るなんて・・・!」
「蹴るに決まっているじゃん」
「なんでよっ! 幸ちゃんだって、そんなにお母さん蹴るのはおかしいって言っているじゃない!」
永遠に噛み合わない会話の見本のようなソレが続いた。母は、殴ろうとした俺の意見まで持ち出して弟の行為を非難し始める。欠片も、自分の発言をおかしいとは思っていない様子で。そんな会話が噛み合うわけがなく、でも、俺にはその会話の意味が見えてきていた。そして見えた通りの台詞がやがて弟から発せられる。
見え始めていた形が、決定的に見えた瞬間だった。
「兄ちゃんがどう言おうと関係ないだろ。僕が嫌だから、蹴っただけなんだし」
淡々と、しかしきっぱりとなされた断言。たぶん、それが全てだった。
母はその弟の宣言を聞いてまだ怒鳴りだしていたが、もうその声は言葉として意味をなさない。少なくとも、俺には意味をなさないし、弟にもあまり意味をなしていないだろう。
ただ、全ては形になって俺の目の前にあった。今まで答え合わせをしていなかった、その全てが。弟がゆっくりと母から視線を剥がし、再び俺を振り返って見つめ上げる。
何も訴えかけてこない、凪のような静かな目。でも、それは訴えかけてきていないだけだったのだ、と。
誰かに訴えかけたいという感情がなければ、味はしない。つまり、そういうことだったのだ。
母のあの甘さは、継子への媚びのようなものだったのだ、と。
媚びはつまり、愛情ではないのだ、と。
俺に訴えるわけではない愛情は、最初からここにあったのだ、と。
今、ようやく理解出来た。
*******
冷静に考えれば、母だって俺が帰宅の遅さを邪推していることは察していただろう。
邪推、というか、たぶん当たっていたのだろうけど。
そしてそんな俺が、継子である俺が家事などを積極的にすれば、後ろ暗いことがある母としては当てつけだと思ってもおかしくない。
・・・おかしくない、というか思ったのだろう。
あのリモコンを振り上げた時の母の様子を思えば、そしてあの甘さのしつこい味を思えば、たぶん母は出会った時から俺を純粋に愛してくれたわけじゃないし、愛そうとも思っていなかったのだ。
媚びを売る、ということは、そういうこと。自分の都合だけということなのだから。
つまり、俺はもう何年間も、あるはずのない愛情相手に独り相撲をしていただけ。
虚しいかと聞かれれば、虚しいのかもしれない、と答えるしかないが、でも、『かもしれない』でしかなかった。
何故ならあの後、腹を立てて家を飛び出して行った母に対して、戻って来てほしいとか日常を取り戻したいとかいう感情はなくなっており、代わりに、すぐ隣にいて、「僕、母さん嫌い」ときっぱり言い切った弟のことだけが気になって仕方がなかったから。
分かっていなかった弟の感情が、ずっとこの平坦で淡々とした弟の中にあったのだと、その事実だけが俺の中で重要で、他には何も考えられなかった。
*******
「離婚しようと思う」
「結論、早くねっ?」
「いいんじゃない」
「いいのっ?」
結局、その日、母はいつもなら帰宅が遅い時でも必ず戻って来る時間帯まで戻って来ず、父が帰宅してしまった。
いつもはいるはずの母がいなければその理由を話さないわけにはいかず、帰宅した父の顔を見ながら何をどう言ったものかと悩んでいたら、父に俺が作った夕飯の残り物を温め直してあっさり差し出した弟は、その手つき以上にあっさりと今までの経緯を話してしまう。
「浮気してたよ」と、母の帰宅時間が遅い理由すらも断定的に言い放って。
あまりにあっさり言われたので、俺は止めるタイミングもフォローを入れるタイミングもなく、ただ一人、あわあわとしていた。一人・・・、そう、一人だ。話を聞いている父は、俺の作った大して美味くもない夕飯を弟同様、淡々と食べつつ、それ以上に淡々と弟の話を聞いている。一切、取り乱した様子もなく。
たぶん、今、俺と同じように舌で何かを感じる力がある人間がここにいたら、俺だけが酷い味をしているんだろうな、というくらい父と弟に何かを訴えたい感情が迸っているのだが、父と弟の方はあまりにも淡々としていて、相変わらず一切の味がしない。
つまり俺に訴えたい感情はなく、自分達の中にだけ、その感情があるのだろう。何度も思ったことだが、弟はやっぱり、父に似ている。父は弟と同類で、誰かに訴えたいと思っていないだけで、表情や声には出ないだけで、ちゃんと感情は父の中にあるということで、それは分かるのだが、分かって、いるのだが・・・。
話を一通り聞いた後の父の結論があまりにあっさりしすぎていて、しかも早すぎて、本当に感情あるのかよ! と思ってしまった。
浮気が許せないとか、そういう気持ちがあったとしても少しくらい悩まないのだろうかと思うし、なにより実の母親が離婚されるという結論を出されたのに、弟の反応も淡泊すぎた。
しかも早い、似た者同士の二人、早すぎる。俺だって血が繋がった家族なのに、二人の早さについていけない。
置いてけぼりを喰らった感が激しい俺の絶叫に近い驚きの声に、ほぼ能面二人組はとても静かに視線を向けて、その能面のうちの一人、父がやはりとても静かに口を開く。
「子供に危害を加えるような人間と一緒になんか暮らせないだろう」
「いやっ、そうかもだけど! でもそれ、俺だけだし! ほらっ、父さんと母さんも、なんか、お互い好きな部分があって結婚したわけで・・・」
「好きな部分がどうとかというよりは、元々、まだ小さいお前には母親もいるだろうと思って再婚したんだが」
「そうなのっ?」
「そうだよ。でもお前も、もう高校生だし・・・、まぁ、勿論、まだ子供の範囲には入るだろうが、でもこうして自分で飯も作れるようになったし、なにより一人ではなくて優希もいるんだから、母さんがいなくてもどうにかやっていけるだろう?」
「うん、大丈夫だと思う」
「なんでユウが断言っ? ってか、お前の母さんがいなくなっちゃうかもしれないんだぞ!」
「べつに、いいんじゃない?」
「いいのっ? お母さんだぞっ、お母さん!」
置いてけぼりが激しかった。どれだけ走っていっても追いつけないくらい、激しかった。
俺、本当にこの二人と血が繋がっているの? という疑問が湧き上がるくらい激しい置いてけぼり感を味わいながら、それでもなんとか話を続けていると、衝撃の事実を突きつけられて絶叫の連続になってしまう。
まさか俺の為に再婚したという裏事情があるなんて思ってもみず・・・、それなのにその裏事情の結果、生まれた弟の方があっさり父の話を受け入れて返事をするのだから、俺の絶叫は裏返っていた。
しかし俺の裏返った声をどう思っているのか、特になんてことなさそうな様子の弟は、真っ直ぐ俺を見据えて、本当になんてことなさそうに告げるのだ。
それこそ、当たり前の事実を告げるようにあっさりと。
「僕、べつにお母さん要らない。兄ちゃんがいるから」
あっさりとしているのに、もの凄い威力のカウンターを喰らったかのような、衝撃。
そうだな、と言わんばかりに頷く父のそれが追撃のようになって・・・、俺は結局、それ以上、有効打を探し出すことが出来ずに、ただひたすら黙り込むしかなかった。
──まぁ、そういうわけで、我が家には俺の想定外の手段による、平和な日常が戻って来た・・・、ようだ。
さくさく物事を進めていくタイプだったらしい父は、あれからとてもあっさり母に「離婚する」宣言をなさったらしい。
その宣言に母が何をどう思ったのかは不明だが、弟ほどあっさりその宣言を受け入れる気はなかったらしく、なんだかそれなりに揉めている。・・・ようなのだが、父曰く、それも長くは続かないし、離婚の要求を母は飲むしかなくなるだろう、とのことだった。
理由は母が浮気をしていたから、というより、俺に手を上げようとしていた、という事実が重いので、父の離婚要求を拒否しきれないだろう、という話だ。
浮気云々は状況証拠で、確固とした証拠はないので理由としては弱いが、俺を殴ろうとしたことは弟という証言者がいるので覆せない。その弟が力の限り母を蹴りまくっていた件はどうなるんだろうと思わなくもないが、まぁ、それはそれらしい。
更には父は母に対して、離婚以外の、たとえば浮気をされたことに対する慰謝料的な何らかの要求をしているわけではなく、唯一要求しているのが俺達二人の親権らしいのだが、母としては特に親権を欲しがっているわけでもなく、それ以外のお金の要求もないので、離婚で父と争うべき争点がないとのこと。
・・・じゃあなんで離婚を渋っているのか、という点は、人の感情が分かっていないことが発覚したばかりの俺では、よく分からない。
ただまだ解決はしていないが、とりあえず家の中は落ちついている。毎日の家事という仕事は増えたが、積極的にするようにしていた日々が功を奏して、戸惑うことは少なかったし、多少面倒だという気持ちはあるけど、部活から帰ってきたら弟も積極的に手伝ってくれるので、なんとなく平和な気持ちになっている今日この頃。
まるで幼い頃の日々が戻ってきたかのように、味のない、平和な家が戻ってきた。
「兄ちゃん、何か飲む?」
「あー・・・、水で」
「了解」
夕飯の片づけも終わって、のんびりタイム到来し、テレビを見ながらソファーでだらだらしていた俺に、弟が声をかけてくる。それにいつもならジュースや作り置きの麦茶をリクエストするところを、何故かその単語が出ずに、水が出た。
理由は声に出した瞬間は自分でもよく分かっていなかったのだが、弟が自分と俺のコップにミネラルウォーターを注いで持ってきてくれて、それを一気飲みした瞬間、自分が口にしたリクエストの理由をなんとなく、察してしまう。
味がしない、それこそが今、一番美味しく感じる。
「なんか・・・、味がしないのに、超美味い気がする」
「水?」
「そう。なんで味がしないのに、水って美味いって気がするんだろなぁ・・・」
コップの水を飲み干して、思わず満足気に洩らしたそれに、弟が自分のコップに残る水を見ながら、暫し黙る。
やがて残った水を飲み干してから、弟は静かに呟いた。
飲み干してもうなくなってしまった水と同じくらい、味のない声で。
「味がないなら、不味くなりようがないからじゃない?」
「・・・なるほど」
何かを、もの凄く納得した。
味さえなければ、美味いかどうかなんて気にしなくていいし、そもそも不味くなりようもない。でも味があったばかりに、俺はずっと美味いか不味いかに人より多く振り回されていて、その結果が何も分かっていなかった今までの俺なわけで。
腹の底から、溜息が出た。隣に座った弟が怪訝そうにこちらを見るほどに、重い、重い溜息が。
「俺、もう生涯、水でいいや」
「そう? まぁ、兄ちゃんがいいならいいけど」
弟の平坦な、淡々とした返事。
でも全く逸らされない視線に、もうこれだけでいいや、と本気で思った。