⑥
あの日の行動を皮切りに、俺は家事を率先して手伝っていくようになる。
洗濯物を取り込み、たたんで各部屋に置く、という家事の他に、簡単な掃除や母が食材の買い出しに行こうとしていれば、必ず一声、俺が行こうか、と声をかけるようになった。
俺がそうして家事を手伝う度に、声をかける度に、母の味は甘さを増し、正直に言えば堪えがたいほどの甘さになっていくのだが、しかし夜の外出が減ることはなかった。
代わりに、甘さの他に違う味もよく感じるようになり、その味の意味がよく分からず、首を傾げる機会が増えた。甘さとは違うその味は、甘さのように一言で表現出来る味ではなく、俺自身にすら上手く説明出来ない味で、まずどういう感情なのかがよく分からない。
ねっとりと、舌の上に絡みつくような何かは、苦みにも似ているし、辛みにも似ているが、どちらとも決定的に違う気がした。味が分からないほどの濃さを感じるそれは、何かの調味料を薄めずにバラ撒いているようで、でもその味を感じる時は必ず母の笑顔があり、前後に甘みも感じる為、なんだか表情と一致しない味が一瞬、甘さの間に交じっている、そんな気がする。
一体この味は何なのだろうと思うのだが、しかし何故か全く知らない味だとも思えない。なんというか、今まで一度も感じたことのない味ではあるのに、必ずどこかで出会ったことがある、そんな気がする味でもあるのだ。
俺に向けられたことはない、他の誰かに向けられた味として知っている気がする、それ。
一体どこで誰に向けられていた味なのだろうと考えつつ、家事を率先して行い、母がいない夜は夕飯を作り、暇を見てはその夕飯のレパートリーを増やすべく、簡単に出来るレシピをネットで検索したり、弟の世話を焼いたり・・・、そんな日々が続いていって。
母の甘い味は増えたし濃くなったのに、母の外出は減らない、その現状に首を傾げる回数が増えたその日、学校から自宅に帰ると、母が一人でリビングのソファーに座って、何をするでもなく手元のスマホに視線を落とし、じっと固まっていた。
「ただいまー」
「・・・お帰りなさい」
いつも通りかけた声。その声に一拍間を開けて返ってきた声。
変だな、と思ったその気持ちが、いつもなら自室へそのまま向かわせる足をその場に留めて、俺の視線もまた、母に釘付けになった。
それは、ほんの僅かの違和感。ともすれば、気づかずいつも通りの行動をとってもおかしくないほどの、些細な引っ掛かり。・・・なのに、俺は足を止めた。視線も、外さなかった。外せなかった。
理由は返ってきた声で、その声が発せられるまでに開いた一拍と、その声そのもの、更には口調の全てに引っ掛かりがあったのだ。そして何より、舌先に僅かな苦みが走っていて。
機嫌があまり良くないんだな、と察したのはその味からで、味を知ってから改めて母の様子を窺ってみれば、視線すらこちらに寄越さずスマホを見つめ続けている姿は、確かに味の通り、機嫌の悪さを感じさせた。
その姿に、最近取り続けていた母のご機嫌を今日はどうすべきか、という迷いが生じる。母が機嫌が悪いままでは、夜の外出頻度が上がってしまうかもしれない。それではせっかく頑張ってご機嫌を取っていた今日までの努力が全て水の泡になってしまうし、なにより、今から弟だって帰って来るのに、機嫌の悪い母の姿を見せたくはない。
これはもう、渾身のご機嫌取りをするしかない、という結論に達するのは自然すぎるほど自然なことで、何か出来ることはないかと見渡した俺の目が見つけたのは、いつかと同じ、外に干されたままの洗濯物だった。
最初に手伝った時以来、洗濯物を取り込んでたたむ、という家事はもう何度も経験済み。たたみ方もなんとなく上手くなってきた気がするし、たたんだ後、どこに何をしまうのかも分かってきて・・・、大分慣れてきたという実感があるそれが、今日も役立つような気がした。だから、だった。
「えっと・・・、洗濯物、取り込んでおこうか?」
かけた声は、一応の疑問系。俺の中ではもう俺がやることは決定していて、でも一応、母がすぐ傍にいるから、お伺いを立ててみた、というだけのこと。
だから疑問系の声をかけておきながら、俺の足はもう窓に向かって動き出していたし、視線も洗濯物に釘付けになっていて・・・、視線を逸らした後の母の様子には全く気づかなかった。
俺の申し出を喜んで受け入れるか、悪いと思って追いかけてくるかの二択だと思い込んでいたから、それ以外の選択肢があるとは思ってもおらずに。
「・・・つ、も、いつも・・・」
「え?」
窓の鍵に手をかけた、ちょうどその時だった。
聞こえてきたのは、震えるような声。途切れがちのそれは何を言っているのかよく分からず、ただ二人しかいない室内なので誰の声であるのかだけは分かり易すぎるほど分かり易く。
鍵に手をかけたまま振り返ったのは、半ば反射的な行為だったのかもしれない。聞こえてきた声が想定外の低さだったことと、何を言っているのか分からなかったこと、そしてそれ以上に舌に走った鋭い痛みにも似た苦みに驚き、振り返らずにはいられなかったのだ。
上半身を捻るようにして視線を向けた先、そこには当然の如く、母がいた。ソファーから立ち上がり、俯きがちにゆっくりと俺に向かって歩き出している、母の姿が。
違和感は、舌の上にこそ強烈に覚えていた。しかしそれとは別に、視覚にもはっきりとした違和感がある。それは顔を俯けたまま表情を見せない母の様子と、その手にしっかり握り締められているテレビのリモコンにあった。何故、視線を合わせてくれないのか、何故、テレビから離れて俺の方へ歩いてくるのに、テレビのリモコンを握り締めたままでいるのか。
しっかりと右手で握っているその様は、あまりにも指に力が入りすぎている所為か、指先に血管が浮いているようだった。何故、そこまでリモコンに力を入れなくてはいけないのか、それすらも不思議で。
「母さん?」
かけた声には、当然のように返事がない。母はただ真っ直ぐ俺の方へ近づいてくるだけだ。相変わらず、顔を俯けたまま。
その様子に、俺は自然と鍵から手を放し、上半身だけを捻って向いていた母の方角に身体全体を向け直して近づいて来る母を待つ。大して広くもない室内、たとえゆっくりした歩みでも、それほどかからずに母は俺のすぐ目の前まで来て。
目の前で立ち止まる母、その母のリモコンを握っていない左手が伸びてくるのを、疑問とともに眺めていた。伸ばされた手にどう反応すればいいのか、そんなこと一切考えず、本当にただぼんやりと眺めていた、ただそれだけ。
伸びた母の左手は、そんな俺の考えのない反応を断ち切るように迷いなく、俺の胸へ真っ直ぐ伸びて・・・、
舌先に感じる苦みは、堪え難いほどの濃さを増す、
強い衝撃を感じたのは、胸ではなく背中。突き飛ばされた俺は、窓硝子に背中を叩きつける。
驚きと堪えられない苦みの所為で混乱して、そのまま窓硝子に全体重を預けるようにして床に滑り落ち、尻を叩きつけた床の硬さにまた、痛みを覚えて。
痛みと苦み、混乱と焦り、まともに考えが纏まらない中、ただ視線だけが正直に動き、上へ向かって。
見上げた先にあるのは、俺を突き飛ばした母の姿。
痛みと苦みの元。
見下ろす母は、その顔は、見たこともない形に歪んでいる。その表情を何と呼ぶのか、たぶん、俺は知っていた。
「かっ、」
「いつもいつも・・・、当てつけみたいにしゃがって!」
「・・・え? な、に・・・、」
「言いたいことがあるなら言えばいいじゃない! 馬鹿にしやがって!」
何を言っているのか?
どうして怒ってるのか?
俺の何が悪かったのか?
何も、分からない。それどころか、何も考えられない。ただ痛みと苦みの中、俺は母を見上げるだけ。
俺を見下ろして激怒し、俺を憎しみしかない目で睨みつける鬼のような形相の母を、その母が持っていたリモコンを振り上げるのを、振り上げたそのリモコンを渾身の力が籠もっているだろう手で振り下ろそうとするのを、瞬きすら忘れて見つめるだけ。
何も分かっていない、何も考えられない頭の中には、たった一つ、リモコンはきっと硬いんだろうなと、それだけが考えとして浮かんでいる。考え、そう呼ぶのも烏滸がましいほどのそれだけが。
そのリモコンが振り下ろされる先が、俺の額か脳天かのどちらかであるのは誰に説明されるまでもなく、分かっている。でも、俺はその分かっている事実を受け入れられずに、黒くてらてらと光るそれが迫ってくるその光景を、何をするでもなく、見つめていた。空いている両手で額や頭を庇うわけでもなく、母に向かって何かを叫ぶわけでもなく、そこにある運命をただ受け入れる殉教者の態であった俺の額か脳天は、間違いなく、取り返しのつかないほどのダメージを受けるはずだった。
しかしあと少しでその未来が実現するというところで、突如、その来るべき未来は遠ざかる。視界に入っていなかった要素が、知らない間にすぐ傍に存在していたからだ。
「何しているんだよ」
このありとあらゆる混乱の瞬間に、それはあまりにも淡々と聞こえ、その平坦さ故にやたらとよく耳に聞こえた。
誰の声なのかなんてと考えるまでもないほど聞き馴染んでいる平坦さではあったのだが、何も考えられないでいる俺には、それが誰の声なのか分からない。
分からないまま、目の前の光景を眺めている。
吹き飛んだ母を、ただ、眺めている。
これほど綺麗に人が吹き飛ぶことが現実にあるのかと、そんな阿保みたいな感想が脳裏に浮かび、母の手から衝撃で吹き飛んだリモコンが床に叩きつけられ部品が飛ぶ様を、見るともなしに視界の端に納めていた。
目の前の光景から逃げたがっているのだろう思考が、その飛び散った部品の様に、もうテレビが見られないかも等と今はどうでもいいはずのことを思っていたが、たとえ思考が逃避しようとも、この場を俺の身体が逃げ出さない限り、視界からソレが消えることはない。
吹き飛んだ母と、その母を鞄で殴りつけて吹き飛ばした・・・、まだ俺より小柄な、弟。
そう、弟だった。
いつの間にか帰って来ていた弟が兄の危機を救ってくれたわけだが、救ってくれたと認識出来ないほど、弟の様子は淡々と凄まじく。
床に倒れ伏せている母に向かって近づいた弟は、今度は鞄ではなく、その細い足を振り上げる。そしてどうしたらその細さに宿るのかと疑問に思うほどの力で振り下ろしたかと思うと、倒れている母の腹にめり込ませて。
聞こえる、母の悲鳴染みた呻き声と、人が蹴られている痛みを伴う音。骨が打ち鳴らされる音は、尋常ではないほどの力が込められていることも、母が凄まじい痛みを感じていることも伝えてくる。
伝えて・・・、きているのに、そう、映像は、音は、確かに堪え難い痛みを伝えてきているのに・・・。
味は、いつの間にか消えていた。
「やっ、やめ! い、たいっ、おねがっ、あぁっ!」
「煩いよ、兄ちゃんに何しようとしてたんだよ、死ねよ、マジ、死ねって」
「いたぁ! あぁー!」
悲鳴と嘆願、それを更に踏みつけ、蹴りつける弟。
死ね、を繰り返すそれすら淡々としていて、一切の感情を含んでおらず、しかしだからこそ今はそれが怖ろしい。どれほど痛みを訴えても、嘆願しても、一切を聞く意思がないことが分かるからこそ、ただひたすらに怖ろしく。
しかしそれなのに、母からは何の味もしなかった。弟が何の味もしないのはいつものことで、この異常事態でも味がしないのはいつものことなのかもしれないが、あれだけ痛みを、恐怖を感じているだろう母からも味がしないのだ。ついさっきまで確かに濃すぎるほど濃い味がしていたはずなのに。
どうして、味が消えたのか? 今こそ強烈な味がして然るべきではないのか?
動かなかったはずの脳が、この現実から逃げ出そうとしていた脳が、ようやく動き出して最初に俺に訴えてきたのはそんな疑問で、突きつけられたそれに、なるほど、と思う。
思うが、しかしそんなことを今、悠長に疑問に思っている場合じゃないことは、母の声が微かな呻き声に変わり始めている今、明白で。
我に返ったのは、視界に入る母の動きが明らかに弱まりつつある事実に脳がようやく、理解を示したからだった。そしてその理解とともに、ようやく俺は立ち上がり、動き出す。
「ゆ、ユウ!」
「なに? 兄ちゃん。あ、っていうか、大丈夫なの?」
「俺は全然平気だ! 平気だから・・・、一旦ストップ!」
一度動き出せば、あとは早かった。大して距離もなかったことも幸いして、一気にかけ出していまだに母を蹴りつけている弟を羽交い締めにする。人生で初めてする、羽交い締めだ。
しかし俺が人生初の羽交い締めまで繰り出しているというのに、弟の様子は相変わらず淡々としていて、俺に動きを封じられているにもかかわらず、首だけ俺の方へ向けてごく普通の口調で声を発し、俺を心配してくる。
その足が、俺が止めきれない自由な足が、視線も向けていない母を蹴り続けているというのに。
足で足を止めることは出来ない。本当は出来るのかもしれないが、羽交い締めにした人間を足で止める方法を思いつけるほど、俺は荒事に慣れていない。というか、性格的にとてつもなく、向かない。
だから行動ではなく、声で決死の制止活動に勤しめば、俺自身威力を疑う絶叫もそれなりに効果を発するらしく、一応、弟はその足の連続運動を停止してくれる。
止まった足の動きに心底安堵して身体から力が抜けかけたが、しかしその途端、身動ぎをした弟に、慌てて全身に力を入れ直す。数秒前のあの動きが再び始まっても困るので、全力で力を入れて弟の動きを止めながら・・・、その時、全ての意識が弟に向かっていたにもかかわらず感じたのは、舌の上の苦みだった。
とても覚えがある、忘れようとしても忘れられない味は、ほんの少し前に強烈なほど感じていたはずのもので、全く同じ、否、むしろもっと強烈な味として舌の上に広がっていって。
視線を向けたのは、ほぼ反射的な行動。舌が、その味を感じている脳が、反射的に俺の身体に命じた結果。たぶん、命じた理由は安全の確保の為。そう思うほど、視線を向けた先のそれは、あまりにも強く。
母が、そこに転がったまま、剥き出しの憎悪を顔に貼りつけて俺を見ていた。
喉の奥まで広がるような、苦み。しかし目が合った途端、僅かに違う味が混じる。それは母が、その剥き出しの憎悪を顔に刻んだ母が、その顔に薄く笑みを貼りつけ始めたのとほぼ同じタイミングで混じり始めたのだ。
引き攣る唇が、笑いの形を作り損ねた目元が、目の奥に宿る感情が、全て、貼りつけた笑みを否定していた。だから誰に説明されるまでもなく、それが作り笑いだと俺にだって分かっている。感情は、その笑みにはないのだと分かっている・・・、のに、舌の上には確かに僅かな甘みが広がっていて。
「幸ちゃん、ありがとうね。ユウ、貴方、母さんに何するの・・・」
貼りつけた笑みのまま告げられたそれは、お礼の言葉。勿論、母を蹴り続ける弟を止めたことに対するそれは、しかし母が最初に俺に向かって振り上げた手の説明にはならない。
しかし今は、その説明より舌の上の甘みが気になって仕方がなかった。ゆっくりと身体を起こしつつ、蹴られた身体を確かめるように触れながら俺に向かってちらちらと視線を寄越す、その視線に宿るモノが、羽交い締めにしている弟を離さないでくれ、という願いだと気がついてしまうから、余計に。
舌に広がった甘みは、いつもと同じ、どこか粘性を感じさせるもの。そして今、気がついたのは、母が俺に向ける視線にも同じ粘性を見ること。
それは思い出す限り他の甘みとは方向性の違う、甘さ。
媚び、と表して構わない感情だとようやく気がついた自分が、あまりにも間抜けに感じられて何だか笑い出しそうになってしまった。