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ソフィア姫が産まれたという慶事を広く国民に知らせるため、画家が呼ばれた。王太子夫妻の娘ソフィア姫の誕生を知らしめる肖像画を描くためだ。
王太子アレキサンダーと王太子妃グレース、娘のソフィアの三人を描く画家と弟子達のために、北側に大きな窓をもつ広い部屋が用意された。
アレキサンダーとグレースの立ち姿を画家が描いている間、ローズはソフィアをあやしていた。
「ソフィア様」
「うー、あー」
ローズの呼びかけに、ソフィアは、まるで返事をしているかのように、声を出した。
「はい。ソフィア様、ローズはここにいますよ」
「あーおう」
ローズの指をソフィアが掴んだ。
「あーおう」
ソフィアの口真似をしながら、ローズが軽く指をひいた。ソフィアは、ローズの指を、小さな手で握って離さない。
「うおあーおう」
「うおあーおう」
ローズの口真似が気に入ったのか、ソフィアが機嫌よく手足を動かす。
赤子を笑わせるのは難しい。画家と弟子達はソフィアの笑顔も素早く描いた。
微笑ましいローズとソフィアの会話とも言えない会話に、部屋には和やかな雰囲気が漂っていた。
「あなたは何を書いていますか」
「うわぁぁぁ」
弟子の一人が、突然ロバートに詰め寄られ、椅子から転がり落ちた。周囲に散らばった紙を、ティモシーが拾った。
「今回、あなた方への依頼は、アレキサンダー様、グレース様、ソフィア様、御三方の絵のはずですが。あなたは、違う方向を見ていましたね」
ロバートに詰め寄られた比較的若い弟子は、床にへたり込んでいた。
「お、お、おたすけを」
詰め寄るロバートの雰囲気に気圧された弟子は、命乞いを始めた。その様子に、ロバートは顔を顰めた。ロバートに脅す意図がない。だが、ロバートの不機嫌な顔を前に、弟子の顔がますます青ざめていく。怯え、声も出ないようだった。
床から離れない弟子に鋭い目を向けたまま、ロバートは、ティモシーが拾い集めた紙を受け取った。
「どうしたの。ロバート」
手元の紙を見ているロバートに、ローズが歩み寄った。
「何があったの。ロバート。怖い顔をして。画家さんがびっくりしているわ」
ロバートの手元の紙を、ローズが覗き込んだ。
「あら、これは、私かしら、私だわ。すごいわ。これだけなのに、私ってわかるわ」
紙には、簡単な線で、微笑むローズが描かれていた。
「凄いわ。貴方とっても凄いわ。あぁ、でも画家さんだから、当たり前なのかしら。でも、線だけなのに、私だわ」
ロバートは、感心するローズを、そっと片腕で抱き寄せた。床と一体になっている弟子を一瞥したロバートは、弟子の師匠である画家に視線を固定した。
ロバートの殺気に気づいたのか、画家がようやく手を止めた。
「今回、この子の絵は依頼には、なかった」
「いや、私が依頼した」
弟子の行動を、画家に追求しようとしたロバートの言葉を、アレキサンダーが遮った。
「アレキサンダー様、お伺いしておりません。そもそもローズの顔は、公表しないとお約束いただいたはずです。そのために、外ではベールで顔を覆っているではありませんか」
剣呑な気配をまとうロバートにも、アレキサンダーは動じなかった。
「公表するつもりはない」
「では、何のために」
追求するロバートに、アレキサンダーは人の悪い笑みを浮かべた。
「視察の間、お前が寂しくないように、ローズの絵があったらいいと思わないか」
ロバートは答えなかった。片手で口元を隠し、頬を染めていることが答えだろう。予想通りとはいえ、あまりに初心なロバートにアレキサンダーは苦笑した。
「あの、私も欲しいです」
ロバートの片腕に包まれたままのローズが、小さな声で言った。
「ロバートの絵か」
笑いを含んだアレキサンダーの言葉に、ロバートに張り付いたままのローズが恥ずかしそうに頷き、部屋の雰囲気は穏やかなものになった。
「小さくて、ずっと持っていられるのが良いです」
ローズの小さな声は続いた。
「だそうだ。ローズのほうが素直だな」
アレキサンダーの言葉にも、ロバートは無言だ。ローズはロバートが持っていた紙を奪って顔を隠し、動かずにいる。画家達の手が動いているが、ロバートもローズも気づいていないらしい。
「ロバート、あなた本当に」
グレースは、それ以上、何も言わずにアレキサンダーを見た。
「ロバートはロバートだ」
アレキサンダーの言葉に、頷くものは多い。
王太子宮にローズが現れ、ほとんど表情を変えることがなかったロバートが笑うようになった。不思議がる周囲に、アレキサンダーは繰り返し言った。
「あれが本当のロバートだ」
アレキサンダーにとっては、アリアに良く似た懐かしいロバートの笑顔だった。ローズと婚約してからは、常に張り詰めていたロバートの鋭さが和らいだ。
凍りついたかのようだったロバートの心を溶かしたのはローズだ。その時から、ロバートの心の時間は動き出した。そのせいだろうか。ロバートは、初心だ。年齢が離れているローズと釣り合うと、グレース達女性の意見は一致している。
近習筆頭として、隙なく振る舞うロバートが、ローズに関してとなると、とたんに不器用になる。その様子を、王太子宮の面々は微笑ましく見守っていた。
「アレキサンダー様」
アレキサンダーの間近に、ローズがやってきた。
「グレース様が持っておられる、このくらい小さな絵で、首からかけられるのが欲しいです。絵が消えないように、蓋があるのがいいです」
遠慮がちなローズにしては珍しく、小さな声だが、はっきりとした要求だった。
「ロケットか。それはいいな。ロバート、お前もそれでいいか」
アレキサンダーの言葉に、ロバートが頷いた。
「そうなると、職人も呼ばねばならないな」
アレキサンダーは思案顔になった。
「そのような、大げさな」
「素晴らしいわね。私達も同じものがあれば、素晴らしいと思いませんこと。ソフィアも交えて三人の絵が良いですわ」
遠慮しようとしたロバートの言葉を、グレースが遮った。
「そうだな。私も、グレース、あなたとソフィアが常に側にいることができるようで嬉しい。ローズ、君はなかなかいいことを思いついてくれた」
「ありがとうございます」
ローズが嬉しそうにロバートに抱きついた。つま先立ちになっても、ローズの顔は、ロバートの胸にようやく届くだけだ。そのまま嬉しそうに、ローズは顔を擦り付けている。ロバートは、そんな猫のようなローズの頭を優しく撫で、微笑み、ゆったりと腕で包むように抱きしめた。見つめ合う2人の視線が交差する。
先程、床に這いつくばっていたはずの弟子が、目を皿のようにしてその光景を描いているが、ロバートは気に留めていない。
ロバートの、恥ずかしがる基準が、アレキサンダーにはわからない。
「できるか」
アレキサンダーは、同じように手を動かしている画家に声をかけた。
「仰せのままに」