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1冊目 『トイレの花子さんの生態』 その4

 がぶっと牙がつきさされたはずなのに、まったく痛みはありません。ただ、立ちくらみのようないやな感覚に襲われます。これが記憶を吸われるというものなのでしょうか。恐ろしさに強く目をつぶる俊介でしたが、不意に立ちくらみがやみました。おそるおそる目をあけると、なぜか里音が床の上で、口を押さえて苦しんでいたのです。


「うっ、うっぷ……」

「えっ、なんだよ、いったいどうしたんだよ?」


 なにがなんだかわからずに、俊介は目を白黒させます。里音は胸を押さえながら、うめき声をあげました。


「おえっ、ま、まずぅ……」

「え?」


 ぽかんとしている俊介を、里音は足で思いっきり蹴り飛ばしました。


「うわっ、いったぁ! いきなりなにするんだよ」

「うるさいわね、いったいあんたなんなのよ。どうしてこんなに記憶がまずいのよ!」


 いきなりどなられて、俊介はますます困惑するだけでした。そんな俊介を見て、里音はさらにヒートアップしていきます。


「だからあんたの記憶よ! どぶ川の水と生ごみを混ぜて、百年熟成させたような、そんな破壊的な味がしたわよ。ああ、思い出しただけで、吐き気が、うぷっ」


 口を押さえておえつする里音を、俊介はわけもわからずながめています。


「わたしも吸血鬼だから、今までいろんな記憶を吸ってきたけど、こんなむちゃくちゃな味の記憶は初めてだわ。別にグルメでもなんでもないけど、こんなの吸うくらいなら、ママに殺されちゃうほうがマシよ」

「なんだか、喜んでいいのか悲しむべきなのか、ちょっと複雑だな」


 困ったように笑う俊介を、里音はぎゅうっとつねりあげます。


「いたたた、痛いって、ちょっと、やめてってば!」

「ああもう、あんたのせいで全部めちゃくちゃだわ。せっかく修行して、魔界図書館から逃げ出した本をつかまえて、最高のスタートを切ったのに。それなのにあんたのせいで、ママに殺されちゃうわよ」


 里音が金切り声をあげます。その様子を見て、俊介はなんだか、里音がかわいそうに思えてきました。


「そんなにわめかないで、落ち着きなよ。ほら、ぼくにできることがあったら、なにか手伝うからさ」

「じゃあ記憶をなくして」


 里音にいわれて、俊介はブンブンッと首をふります。里音が俊介をきつい目で見あげました。


「なによ、なんでも手伝うとかいって、うそだったのね」

「いや、なんでも手伝うとはいってないよ。ぼくにできることなら手伝うっていったんじゃないか」


 あわてていいかえす俊介を、里音はしばらくの間くやしそうににらんでいました。しかし、いきなりパッと笑顔になったのです。


「そうだっ!」

「えっ、なに? いっておくけど、記憶をなくすのは絶対にいやだからね」


 ニタニタと気味の悪い笑顔をうかべる里音に、俊介は警戒しながらいいました。ですが、里音はただ首をふるだけで、じっと俊介を上目づかいで見つめています。切れ長の目が、うるうるとうるんでいるのを見ると、なんだか胸がドキドキしてきます。俊介は声がうわずらないように気をつけながら、おそるおそる聞きました。


「いったいなにをたくらんでるんだよ?」

「えー、別に、わたしなんにもたくらんでないよ。ただ、あなたにお願いがあるの。そういえばあなた、お名前は?」


 なんだかとろんっとしてしまいそうな、甘い声で里音が聞きかえしました。ごくんっとつばを飲みこんで、俊介はどもりながら答えました。


「ぼ、ぼくは、俊介。松田俊介だよ」

「へぇー、俊介君っていうんだ。かっこいい名前ね」


 いつの間にか、里音が俊介のすぐとなりにからだを寄せていました。肩まで届く長い髪から、ほのかにシャンプーの香りがします。


「それでね、俊介君。わたし、お願いがあるの。俊介君に正体を知られたことがばれちゃったら、わたし、オニバ……ママに、ホントに殺されちゃうわ。でも、俊介君が魔界図書館の利用者になってくれたら、正体を知られても困らないでしょう。それならきっとオニ……ママも、わたしを許してくれると思うんだ。ねーえ、いいでしょ?」


 甘ったるい声と、ふわっと香るいいにおいで、俊介の頭はぼーっとなっていました。俊介はなにも考えずに、ぶんぶんっと首をたてにふりました。


「もちろんだよ、里音ちゃんのためならなんでもするよ。魔界図書館の利用者にでもなんにでもなるよ」

「わぁ、ありがとう。俊介君って、とっても優しいのね」


 里音にほめられて、俊介は天にも昇る気持ちになっていました。どんなささいなことでもいいから、里音の役に立ちたい。俊介の頭は里音のことだけでいっぱいになってしまいました。


「それとね、もうひとつお願いがあるんだけど……」

「なになに、なんでもいってよ」


 調子に乗ってすりよってくる俊介を見て、里音は一瞬顔をひきつらせましたが、すぐに甘えるような笑顔を作って続けました。


「あのね、わたし、俊介君のことがすっごく気になって、ドキドキするのよ。特にどうして俊介君の記憶が、どぶ川……コホンッ。どうして俊介君の記憶が吸えないのか、とっても気になるの。だから、俊介君といっしょに暮らしたいんだけど、いいかしら」

「ええっ、里音ちゃんと、いっしょに暮らせるの?」


 目をランランに輝かせて、俊介が里音につかみかかろうとせまってきました。里音はすばやく身をひるがえして、俊介をうまくかわします。


「もう、あわてないで。話を最後まで聞いてほしいな」

「あ、ごめんよ。もちろん聞くよ」


 ものすごい速さでその場に正座する俊介を見て、里音は笑い出しそうになりましたが、もちろんグッとこらえて話を続けました。


「俊介君のこと、信じてないわけじゃないんだけど、もし他の人にわたしが吸血鬼だってバラされちゃったら、わたし、とっても困っちゃうの。だから俊介君を監視……じゃなかった、俊介君といっしょにこの家に住めば、わたしも安心だなって思ったの。……だめかしら?」

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