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苛性マニュスクリプト

作者: 空見タイガ

 待ち合わせの場所は学校の三階と四階のあいだの非常階段の七段目の右側であったが、教室棟の二階からとぼとぼと歩いて向かって上っているうちに、どうあがいても七段目にたどりつくことはできないと悟った。校門を通ってぞろぞろと帰宅する生徒の背、あるいは中庭の枯れた噴水の前で仰向けになっている男子生徒を眺める。死体のように四肢を投げだして転がっている。

 彼は三階と四階のあいだの非常階段の七段目の右側でしっかりと待っていた。私は五段目にいる。次、一歩上がればたどりつく踊り場をはさんで、鉄筋コンクリートで固められた腰壁の上の右側、四方のうち二方が宙になっている寄りべのない場所に、彼はいる。

 正面から少しずれて、手すり壁に背を預ける。少し首をたおすと、ただでさえ背の高い彼の頭が、けっして手の届かない場所にあった。

「その手がありましたか」

「僕が約束をたがえると思ったか」

 初めて会ったのにそんなこと思うはずありません。

 失望されそうな答えだと私は思った。


 もしも同じ言葉を人生で一回しか使えないとして。彼がそう切り出したときにはすでに死の淵から降りていて、私といっしょに上りの三段目ぐらいに腰をかけていた。大柄な男性にありがちなように、無遠慮なほどに彼のからだが私の領域にはみだして触れて押すばかりにくっついていたが、ふしぎと心地よかった。

「君は誰におはようって言いたかった?」

「まだわかりません。すべての人に会ってませんから」

「そうかそうか、そうだな。君はたぶん十五歳か十六歳で、まだ夏にもなっていない」

 彼の名前はコチドリという。コチドリさんは私の先輩だ。先輩にはSNSに投稿された偏見をウェブ魚拓で保存して放置する趣味があった。「数年後に撒いた種が開花することがある。人間の本性は脊髄なんだ」彼はシャツと肌のあいだに入っていたらしい緑の葉をつまんで、ぽいと上に投げた。風に流されるまでもなく、彼の後頭部に立つように刺さった。

「出会いはとっておきでないとね」

 

 部活のビラが貼られた掲示板の最下層に埋もれていた文書は、伸ばした皺の数だけでこぼこと浮いていた。私は文芸部の入部届を書くかわりに指定されていたフォーマットに学年とクラスと名前を記し、中庭テラスに置かれた円いテーブルの裏に貼りつけた。返事が来たのは五日前だった。さまざまな予定表やお知らせが貼られた教室後ろの黒板の最下層に埋もれていた文書は、皺ひとすじ染みひとつなく存在していた。


 次の日の取り決めも文書を経由して行われた。互いの上履きを盗んで、偶然を装いながら海で待ち合わせる。表面的な謝罪を交わしたのち、私は私の、彼は彼の上履きを履いて、砂浜を端から端まで歩く。冬と比べて夜は明らかに遠くなっており、彼と会ってから一分も経っていないような気がした。

 先輩と私は線分の中点で腰をおろした。わざと伸ばした足先が波に触れないぐらいの近さだった。

「まっすぐ歩くことは難しい。足の左右で行きたい方向が違うんだ。理性が正面を向かせるだけで。腰から下を切り取ればだれだって迷っている」

「人間は全身の生き物ですから」

「コルリちゃん」と彼は言った。「手続きが複雑で非合理的になればなるほど、会いたい人に会えるね」

 私の前髪を撫でつけるようにふれると、彼は「くろつるばみだ」と言った。

「どうせなら濡れ羽色がよかったです」

「でも、僕とおそろいだ」

 彼はマスタード色を少し赤くしたような頭を深く縦にふってうなずいた。

「何色ですか」

「きつるばみ」


「国語準備室」の室名札を上目に扉を叩けば、コチドリさんが現れる。彼の住処はすっきりと整理されており、清潔な匂いがした。「掃除が僕の義務なんだ」彼は私をパイプ椅子に座らせてから、長机に備え付けの椅子に腰を掛けた。その背は大きく、天から引っ張られるように気持ちよく伸びていた。

「文書はここでしか書けないんだ」

 開かれた窓に面した長机には、多くの紙が堆積していた。大半は白紙で、積み重ねられた辞書の上に裏返しで載せられている紙だけは筆圧とうっすらと透ける文字からすでに完成した文書だとわかった。

 彼の腕はよどみなく現実に触れていった。保護者に向けたお知らせのようにかたくるしく、そつのない文章。でも、字を間違えた。修正液でぬりつぶすかわりに、ノートの切れ端をちぎってはりつける。いたずらに彼の肩越しに手を伸ばすと、中指の関節で小突かれた。

「さわったらただれるぞ。苛性マニュスクリプトだからね」

「だったらどうして先輩は平気なんでしょうか」

 彼は首を反らした。柔らかそうな前髪がさらさらと流れ、長い睫毛が窓からの自然光を受けてきらりと光った。

「平気じゃない。ただれている」


 逢瀬を続けているうちに、私は夏服に袖を通すようになった。屋外プールとグラウンドのあいだにある狭い路を、先輩を前に一列で歩く。彼はまだ冬服を着ていて、ネクタイだけベルトに挟んで余った分をスラックスのポケットにねじこんでいた。

「この辺りがいちばん中途半端なんだ」

 一緒に座ろう。彼は胸ポケットから取り出したハンカチを地面に広げ、私の背中をやさしく叩いた。膝を折りたたんで胸にくっつけてもまだ狭い場所で、彼の大きな体はより窮屈に折りたたまれていた。プールの土台を背に金網フェンスの景色を眺める。向う側には草木がみずみずしく茂っており、活動中である運動部の姿は見えなかった。

「水がはしゃいで、木がそよいで、砂ぼこりが立つ。僕は森に生まれたかった。そこでは何の記述も必要なく、いるだけで調和できる」

 だけど、ここではすべて人の立てるものしかありませんね。彼は頷いた。

「最初は気のせいだったのに、どんどん大きくなっていくもの、なんだと思う」

 答える前に、彼は私の耳に口を近づけて手で隠した。だれも見ていないというのに。

「正解は恋でした」


 本日の回りくどい再会は、トラブルにより中止となった。靴に差しこまれた文書を手に二年生が利用している昇降口に向かう。私に気づいた彼は、まず辺りを見渡した。顎で外を指して「今日は晴れるし、雨も降る」と説明した。

 梅雨になっても、彼は冬服のままだった。

「ちょうどよいところに、三日前からてりふり傘を置いていたんです」と私は言った。

「天がぶっ壊れてひっくりかえるぐらいの雨が降るし、何もかも干上がてしまうぐらいの晴天になるし、そんな中途半端ものでは太刀打ちできないし、傘をずっと置いているのはよくない」と彼が言った。

 彼は私の傘をもって、二人はその安全圏の下にいた。「相合傘」という表現はあまりにも強烈すぎ、今までのすべてを水泡に帰すために使われなかったが、相合傘だった。

 見上げた顔は柄のない傘の柄を探していた。傘のハンドルを握る指を離すべきかどうかを迷っていて、影は不安定に前後に揺れた。風邪をひくとよくないですよ。ちょっと恥ずかしいですよね。陳腐な文句だけが浮かんでは消えた。耐えきれなくなったかのように、彼は私にハンドルを持たせて雨の中に出ていった。

 そうだ、傘をさすなんて常識的だ。

 私は傘を閉じて、ふたたび彼と並んで歩いた。予言のとおり、雨は晴れつつあった。濡れた彼の頬がきらきらとして見える、天泣のなかにいる。黙って歩いているうちにありもしない雲を抜けた。ふたりで立ち止まってふりかえると、まだ雨が降っていた。何も言わずに、ヘッドの見えないシャワーがひとりでに後退して去ってゆく背を眺めていた。


 出会いが突然なら、別れも突然だった。何も言わずしてふつうを交換してこなかった、私たちへの罰に違いなかった。

 文書で指定された特別棟の廊下には彼以外の人間がいた。偶然を装ってすれちがうことはできなかった。手続きが複雑で非合理的になればなるほど、選ばれたものしか選ばれない。男は彼の、先輩の、コチドリさんのクラスメイトであると自己紹介をした。形容するだけではじまりから終わりまで統制されていた詩を醜くする顔をしていた。

「悪いね、こっちはようやく捕まえたんだよ。彼に書いてもらいたいものがあってね」

 立会人になってほしい。これもひとつの「文書」だ。男はたんたんと説明して、彼にバインダーとペンを渡した。バインダーに挟まれた試験の解答用紙にはすべての欄に赤丸がつけられており、名前欄だけは空白を示していた。

「さ、早く名前を書いてくれ。ボクも彼女もずっと待っているから」

 待つ必要はなかった。彼はペンを握って、勢いよく挑もうとした。ペン先が紙にぶつかった。そこから進む力が衰えた。だれもが何度も書く固有名詞だった。滑るはずの黒が何もないところで引っかかって転んだ。前にうまく進むことができず、左右に揺れて、完全に弱気になり。

 他の解答と同様に、その字は震えていた。

 人気のない廊下に男の笑い声がどこまでも跳ねてゆく。名前の書かれた解答用紙は男によって縦に割かれ、ふわりと床に落ちた。

「いつもの場所にこもるといいさ。だれにも読まれない文章を、読まれる字で書くがいい」

 男が去ってふたりきりになることはなかった。彼は廊下の窓を勢いよく開け、そこから飛び降りたからだった。

 そのときに見えた、彼の手首はただれていた。


 文書がなければ彼と会うことができない。そして、文書はもう作られない。彼は「国語準備室」には来なくなり、パイプ椅子を開くと埃が舞った。それでも、清潔な匂いはまだ残っていた。

 これは消毒液の匂いだ。

 私はありとあらゆる場所を巡って、文書を探した。何も交わさずにいなくなるわけがない。それは私たちの愛した物語ではない。しかし、ここにも手がかりはなさそうだった。彼が座っていた場所に腰を掛ける。机の上に広がっている紙には何も書かれていない。あのとき手に取れなかった紙たちを指先で持ち上げて、ぺらぺらとめくって、そのうちの一枚が波を打っていることに気づいた。

 彼は、いつも、誤った文字を消さずに、上から紙をはりつけていた。

 どうして。先輩は私のことを買いかぶりすぎている。こんなもの、ふつう、見つけられるはずがない。

 目を覆い隠した指から雨だれのように落ちた。

 正解は期待だ。


 私は彼に期待していた。

 彼も私に期待していた。

 その期待が苦しかった。

 それは彼も同じだった。


 どうして出会った場所を最初に探さなかったのだろう。私は階段を上る。いや、それでは見つけられなかった。文書がなければ、きっと覆い隠されてしまう。

 彼は三階と四階のあいだの非常階段の七段目の右側でしっかりと待っていた。私は五段目にいる。寄りべのない場所に、彼はいる。

「もう、読みました」

 いる。いる。ただ、いるということ。ただ、書くということ。ただ、読むということ。ただ、会うということ。それだけでよかったはずなのに、私たちは飾らなければならなかった、総決算。

「これを読んでいるころにはもう死んでいるという文面を、あなたが死ぬ前に読んでしまいました」


「私のカッコいい先輩は、もう死んだ」


「死んだから、もういいんです。カッコ悪い先輩は、死ななくていいんです」

 コチドリさんはヘロヘロと七段目から降りて、私にすがりついた。彼はあまりにも大きくて重かったため、転倒を避けるために二人してその場でしゃがみこむしかなかった。

「会いたかったよ!」



 書かれたものは消えない。言葉だって消えない。重ねることによって上書きをするようでいて、最下層には文書がある。

 彼が席をたったときを見計らって、私は完成した文書の下にある積み重ねられた辞書の下にある、きっと、まだ書きかけの文書を取りだした。


――遺書は手書きで書いたほうがいい。なぜなら、あなたを見殺しにした人が指先からただれるようになるから。死ぬことで誰かを傷つけるような生を綴ろう。美しい字でなくても、一生懸命にていねいに記すんだ。さあ、この言葉でただれてくれ。僕は今、恋をしている。


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