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まなざし  作者: 橘皐月
5. そのまなざし
32/38

5-2

足元から崩れ落ちるんじゃないかというふらつきの中、必死に掴んだドアノブを離すことができなかった。


「なんだよっ、これ!」


経験がないわけではなかった。ただ言葉にしないだけで、地面と視界の揺れの大きさが事の重大さを物語っていた。

台所から、「きゃーっ」という悲鳴が聞こえてきた。父さんが、「テーブルの下に!」と張り上げる声も。

永遠に続くんじゃなかと感じられるほどの強烈な揺れに、真っ先に思い浮かんだのは彼女の姿だ。この揺れの中で、彼女もまた俺たちのように必死に堪えているだろうか。

他人の身の安全を考えながら、俺はまともに立っていることができず、尻もちをついたまま玄関のドアにしがみついていた。

地面が揺れている間、ダイニングの方からガシャンッと陶器の割れる音が聞こえた。テーブルの上のお皿が床に落ちたか、はたまた食器棚の戸が開いたか……。


「……っ…」


不安、恐怖、パニックに支配されたまま耐えること約1分。

ようやく揺れが収まった。

床で打ちつけた腰を抑えながらゆっくりと立ち上がり、壁をつたって半開きだったダイビングルームへと続く扉を超えた。

真っ先に目に入ってきたのは、床の上で割れて散らばったお皿やグラス。

台所の食器棚はなんとか持ち堪えていて無事だった。


「二人とも、大丈夫……?」

「ああ、こっちはなんとも。お前は?」

「俺も大丈夫」


母と父はテーブルの下に潜り込み、揺れの時間を凌いだようだ。


「ああ、怖かった……!」


母はテーブルの下に落ちてきたお皿を見据えながら、ぶるっと身震いした。

両親が無事だということでまずはほっと一息。部屋の中を一周ぐるりと見回してみても、本棚の本が散乱したり机の上にあった小物類が床に落ちたりしただけで、大きな家具が倒れた様子はなかった。

助かった。

と思ったのも束の間、身体は真っ先に再び玄関の方へと向かっていた。

「真名人、どこ行くの!?」

「外! 瞳美を探してくる」

「ちょっとまだ危ないわよ! 外がどうなってるか分からないのに」

「そんなの、考えてる暇なんかないんだ」

「そんなこと言って、あんたまで危険な目に遭ったら元も子もないじゃない」

テーブルの下から這い出てきた母は、必死だった。必死の形相で俺が外に行くのを止めようとする。

しかし、それは俺も同じだった。今は自分の安全より、彼女が心配だ。母さんが心配するのは良く分かる。でもだめだ。ここで立ち止まっていれば、一生後悔することになるという気がしてならないのだ。


俺たちの口論を見ていた父が徐にテレビのリモコンを掴み、電源ボタンを押した。

『……緊急速報が入りました。今日午前8時43分、○○県で地震が発生しました。最大震度6弱、マグニチュード7.0。現在のところ、この地震による津波の心配はありません。各所の被害状況については、情報が入り次第早急にお伝えします。繰り返します。……』


いつもは淡々と喋るニュースキャスターが、深刻な表情で地震速報を告げる声が、俺と母との間に飛び込んできた。

熱くなっていた俺はその声で一旦冷静になり、深く息を吐いて吸った。見れば、母の方も同じだったらしく、「ふう」と息を吐いた。

「母さん、お願いします。瞳美を探しに行かせてください」

「……」

家の周りの地震の被害がどれくらいなのか分からないが、その後次々と流れてくるニュースの映像を見ると、田舎にある小学校を囲う塀が崩れていたり、古くなった建物が倒壊したりしている様子が映し出され、思わず目を覆いたくなった。

母はニュースが目に入る度に、俺が外に行くのを反対する気持ちを強めたのだろう。ぐっと唇を結び、かける言葉を、正解の言葉を見失っているようだった。

しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。

時間が経てば経つほど、彼女の身を案じて焦る。

「……瞳美を失いたくないんだ」

自分の口からそんな言葉が漏れたとき、親を目の前にして言ってしまった恥ずかしさより、まさか自分が両親の前でそんなことを言うだなんて信じられないという気持ちだった。

以前なら———親元で暮らしていたときの自分なら、絶対にこういうことは両親の前で口に出さない。照れ臭さもあったし、女のことばかり考えているように見える気がして、格好悪いと思っていたからだ。

世の中には自分の思ったことを素直に口にして、欲望に忠実に生きる人間がいる。例えば親友の中島がそうだ。皆彼のような人間を、半ば呆れながら見ていたが、反面羨ましいと思っていたはずだ。

そうだ、俺は羨ましかった。

中島みたいに、自由人らしく勢いに任せて生きることが。

中島だけじゃない。

彼女だってそうだ。

瞳美は、文章を書くのが好きで大学では編集サークルに入り、日々の出来事を日記みたいにしてエッセイとして綴っていた。大人しいのに、得意分野の話になると話すのが大好きで、耳が聞こえなくなっても、自分の思っていることを伝えようと必死に前を向いていた。

俺も、彼らのように、必死に生きられるだろうか。

二人を見て、日々そう思った。

形は違うけれど、自分の信じる道を、精一杯走り抜けている二人。まだその道中にいる二人。

瞳美に恋をし、社会人になってようやく俺も同じになれたのだ。

自分には二人のようにこだわりの生き方やずっと変わらない趣味はないけれど、瞳美に寄り添って生きていくことだけは、諦めないと決めた。彼女の生きる側で、自分の価値を見出してみたい。彼女のためなら何にでもなれるし、何でもできる。たとえ家族に反対されたって構わない。

そう、決めただ。


「行かせてやってくれ、母さん」


助け舟を出してくれたのは父だった。

父は、手や足が震えていることを必死に隠そうとしている俺を見て、それから愛する我が子を守らんとばかりに懇願するような、泣きそうな顔をしている母に向かって言った。


「真名人がこれだけ大事に想ってる人なら、間違いないと思う」


その言葉が、砕けそうな母の胸を引き繋いで、俺を外へと押し出してくれたのは確かだ。


「……分かったわ。行ってきなさい」


目尻に涙を浮かべながら答える母。


「ありがとう……父さん、母さん」


「瞳美ちゃんを、絶対見つけてきなさい」


母の激励は、家を置いて出ていこうとする俺の心の奥底まで深く染み込んだ。


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