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まなざし  作者: 橘皐月
5. そのまなざし
31/38

5-1

東向きの部屋に、朝の暖かな日差しが差し込んできた。いつも、朝日のまぶしさに目を覚ますのが日課だった。そのせいで、夏と冬では朝起きる時間が全然違う。冬になると、母親から毎日叩き起こされたものだ。


ああ、起きなきゃ。


自分の部屋の中で床に敷いたお布団からのっそりと起き上がる。昨日の夜、寝る時にふとベッドを見遣った。自分よりもとっくの昔に床についたであろう彼女は、背中をこちら側に向けていた。寝る時に横向きで寝るのは彼女の癖だ。


違和感を覚えるのに、それほど時間はかからなかった。


彼女が、いない。


初めはトイレにでも行ったのかと思った。それか、朝早くに目が覚めて先に一階に降りているのかとも。けれど、ベッドの上の乱れた掛け布団を眺めるうちに、妙な胸騒ぎがした。何かがおかしい。一階に彼女はいるのかもしれない。その可能性が高いにもかかわらず、なぜだか決してそうではない気がしたのだ。


「母さん、おはよう」

母は台所に立ち、4 人分のトーストを焼き、ソーセージとキャベツを炒めているところだった。

「おはよう。真名人、一人で降りてきたの?」

「え? うん。だって、瞳美がいなかったから」

「いない?」

「そうなんだ。だから、先に下に来てるのかと思って」

「……いえ、来てないけれど。トイレにでも行ってるんじゃない?」

母さんがそう言うと同時に、トイレの扉が開く音がしてそこから父親が現れた。

「あら、お父さん?」

「なんだ。急にどうした」

母が目を丸くしていたので、父は何事かと思ったのだろう。

パジャマ姿で頭を掻きながら出てきた父は、何も悪いことをしたわけじゃないのに、俺と母さんにがっかりされている。まったくお気の毒だ。

「父さん、瞳美見なかった?」

「瞳美ちゃん? 見てないけど、どうした」

「そうか……いや、今朝から姿が見えなくて」

両親の前では平静を装いながら、内心とても焦っていた。

ざっと見た感じ、この家の中に彼女はいない。気配すらない。彼女がどこにいたって、いつもその息遣いを敏感に察知してきた。そうしなければ、言葉を発することのできない彼女が何かの事件に巻き込まれて、気がつかなかったら———と怖かったからだ。

しかし大抵の場合、俺の心配する気持ちを察してか、彼女は何も言わずに一人でどこかへ行くことなんかなかった。二人にとって、彼女が一人で行動することは二人の不安につながった。彼女自身が、勝手にどこかへ行くことを恐れた。

だからこんなことは、初めてなのだ。

彼女なら、たとえ散歩に出かける時でさえ俺に何らかの連絡をしてくる。いつもはそうだった。家から徒歩1分のコンビニに行く時でさえそうしている。

それが、今日はスマホを見ても彼女から何か連絡が来ているわけでもないし、部屋にもいない。

俺は、念のためもう一度彼女が家の中にいないかと、家中を探し回った。お屋敷みたいに広い家ならまだしも、うちは普通の戸建て住宅。かくれんぼでもしない限り、もしも彼女が家の中にいるのならば、すぐに見つけられるはずだ。


しかし、やはりどこにもいない。

トイレにも浴室にも庭先にも、彼女の姿は見えなかった。

それならば何か手がかりがありはしないかと、部屋に戻り様子を確認する。

彼女が寝ていたベッドの上で乱れた布団を持ち上げた際に現れたものを見て、俺は絶句した。

「これ、なんで……」

そこにあったもの。それは、彼女のスマートフォンだった。

一筋の冷や汗が、背中を伝い俺はぶるっと身震いした。

"彼女がスマホを持たずにどこかへ行ってしまった"なんて、穏やかなことじゃない。

今の彼女にとって、俺やあらゆる人間とのコミュニケーション手段であり、何かあった時の連絡手段であるスマホ。命の次くらいに大事なものであるはずだ。

それを持たずにいなくなったということは、誰かに攫われたか、彼女自身が動転して衝動的に出て行ったとしか思えなかった。

しかもよくよく部屋を見回してみると、彼女の洋服が昨晩彼女が畳んだままきれいにそこに置かれていた。


俺は階段をかけ降り、迷わず玄関へ向かった。


「やっぱり、ない……」


玄関にあるはずの彼女の靴が、ない。

しかも、いつもしっかりと戸締りをしているはずの玄関の扉についた鍵が外れていた。

ということは、彼女は誰かに攫われたというよりも、自ら出て行った可能性が非常に高い。


「母さん!」


焦った俺は、ダイニングでのんびりと朝食を食べている父親をよそに、母親に詰め寄った。


「なに、どうしたの真名人」


事の次第を理解していない母親を見てイラッとしつつ、俺は彼女の不在を伝えた。

「瞳美が、どこにもいないんだ。多分、一人で家を出て行ったんだと思う」

「瞳美ちゃんが外に?」

怪訝そうな母親の表情を見るだけでは彼女が今、瞳美の行動をただ不可解に思っているとしか分からなかった。

「ああ。スマホも持たずにどこかへ行った。大変だよ、探しにいかないと……!」

「真名人、落ち着いて。瞳美ちゃんだってもう大人でしょう? 散歩にでも行っただけかもしれないじゃない。待ってればきっと帰ってくるわよ」

冷静な母親の態度が憎い。母さんは何も分かっていないんだ。彼女が何も持たずに一人でいなくなってしまうということが、どれほど重大なことなのか理解していない……。


それに、昨日の夜母から聞いた言葉の棘が今だに胸に突き刺さって取れない。


——瞳美ちゃんとは、大変なんじゃないの。


その言葉を浴びせられた時、胸の奥から湧き上がる熱が何なのか、その時はっきり分かった。

それは怒りだ。

なぜ、どうして。

母親なのに、分かってくれないのだと。

そりゃ今すぐ結婚するとかいう話をしているわけじゃない。時間がかかるのは分かっていたからこそ、早めに彼女を両親に会わせたのだ。

その結果がこれかよ。

瞳美の名誉を守るために、俺はあの後母親に挽回した。

彼女を“特別扱いしないでくれ”と。

彼女は確かに普通とは違うかもしれない。でも、普通の心を持った女の子だと分かって欲しかった。辛いことがあっても努力して困難から乗り越えようとする強い人間だということを伝えたかった。


「そういえばあの時……、廊下の方から何か物音がしてたような気がする」


自分の分の朝食を用意していた母が手を止めて、ぼそっと呟いた。


「物音? それっていつ!?」


「ほら、だから昨日の晩、あんたとちょっと話してたとき。もしかして瞳美ちゃん、聞いてたのかしら……」


背中の冷や汗がより一層はっきりと身体を伝った。

ああ、なんということだ。

もし母が言うことが本当ならば、彼女が家を出て行ったのも納得がゆく。

そう、瞳美はきっと、絶望したんだ———。


母は右手で口元を押さえ、「失敗したかもしれない」と怯えているみたいだった。

しかし今回ばかりはそんな母をフォローする気にもなれず、一目散に玄関まで向かった。


「真名人っ!」


母が俺の名を叫ぶ。しかし止まることはできない。母の叫びは、自分の迂闊な発言に対する怒りでもあったかもしれない。

母の声を気にしている場合ではない。今は一刻も早く彼女を見つけなければ、後悔することになると直感が告げていた。

俺は急いで靴を履き、玄関の扉に手をかける。

さあ、早くドアを開けて外へ出よう——と思った、その時だった。


「うわっ!」


ドンっという衝撃と共に、視界の全てがぐわんと揺れ、崩れた。


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