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まなざし  作者: 橘皐月
3. 反転
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3-5

7月10日。


「退院おめでとう」


花束と共に差し出されたメッセージカードの文字を、指でなぞる。同時に、これから普通の日常に戻って生活をするという実感がぞっと湧き上がってきた。普通じゃない、今の自分の身体でどこまで“普通”の毎日を送れるのか、正直不安だった。

20歳の誕生日を意識不明のまま過ごした私は、いつの間にか大人になってしまった自分が恨めしかった。

大人って、弱音を吐けない。

一番弱音を吐きたいときに、それができない。

たかが20歳、社会に出て働いている大人たちからすれば、まだまだ子供。でも、20歳の年に成人式を迎える私たちは、20歳を子供から大人になる節目だと感じる。


この1ヶ月間の入院生活で、捻挫や擦り傷をした箇所は綺麗に治り、見た目の健康状態はバッチリだ。

あとは耳の聞こえない生活に慣れ、歩く練習や大きな音を聞く練習をした。書いて話す習慣や、他人の目や口元を見て相手が何を言っているのかを探る習慣もつけるようにした。しかしまだ、それらは完璧にはできない。不完全なまま、外の世界に出てゆくことの心許なさをなんと表現したら良いのだろう。生まれてから親鳥に餌を与えられ続け、初めて一人で巣立つ時を迎えた雛鳥も、こんな気持ちなんだろうか。足がすくんで、それでも勇気を出して羽を広げる。


私も今、翼を広げる時なのだ。


「行こう、瞳美」


花束をくれた真名人くんが、私に手を差し出した。雛鳥とは違って、私には真名人くんという頼れる存在がいる。最初の一歩を踏み出す時、彼がついていてくれる。だから、躊躇いを吹き飛ばしてその手を掴むことができた。


(ありがとう)


言葉に出せない声だけど、絶対に真名人くんには届く。この1ヶ月間、私だけじゃなくて彼も必死になって、私が伝えようとしている言葉を掴む訓練をしてくれたのだ。


一歩、一歩。


お世話になった看護婦さんたちに別れを告げ、病院の入り口から外へと踏み出す。

冷房が効いていた病院内とは違い、外は蒸し暑さで身体じゅうが一気に火照るのを感じた。

私の半歩前には真名人くんの背中。

空を見上げると、雲ひとつない晴天。太陽が眩しくて、思わず目を瞑った。

それから、本当ならばまばらに鳴き始めた蝉の声が、より一層暑さを運んでくるはずだ。蝉の鳴く声はとても煩わしくて、どちらかといえば苦手な方だったのに、いざ聞こえないとなると寂しく思うのは、それだけ彼らが夏を象徴する生き物だということなんだろう。


「……も、……から」


彼が歩きながら口にした言葉を、私は聞き取れなかった。そういう時は大抵、私が首を振って「分からない」と意思表示する。そうすれば彼がノートかスマホに話したことを書いて見せてくれるのだ。今のところ、それで私たちの会話は成り立っている。

「分かる」「分からない」を動作で伝えるためには、過剰なくらいの動きを見せるのが丁度良い。それを私は学んだ。


「中島も、楽しみにしてくれるから」


彼がスマホで見せてくれた文章を見て、嬉しくなった。聞き取れなかったのは、「中島」という名前をここ1ヶ月の間、聞いていなかったからだ。中島春樹。私や真名人くんと同じメディア専攻の友人。怠惰な彼が自分の帰りを待っていてくれたことを考えると、やっぱり嬉しい。彼はいつも程よい適当さで生きているから、なんというか、彼を見ていると小さな悩み事がどうでも良くなるのだ。それでいて友達想い。彼のそういう一面を、きっと真名人くんは買っているのだと思う。



15分ほど歩いて、社会学部の校舎がある構内に着いた。約1ヶ月ぶりの大学は、さして変わりばえがあるわけでもないのに、よそよそしく感じられた。午後1時。ちょうど三限目が始まる時間帯だ。構内は遅れて講義室に向かう学生、空きコマの学生たちがまばらに歩いているほどだった。

その、普段と何ら変わらない大学の様子が、私の胸をチクリと刺した。

変わったのは、変わってしまったのは私だけ。

私の耳が聞こえなくなっただけ。

あの時もそうだった。親友だった佐渡歌が死んでしまった時も。

悲しみに暮れているのは彼女と親しい間柄だった人たちだけで、当たり前のことだけれど、世間は彼女の死にまったく無関心だった。

それと同じように、私の耳が聞こえなくなったことなど、私と何の関係のない人たちにとっては、どうでもいいことなのだ。どうでもいいというか、気づかないだけで、無関心の人たちが悪いわけではない。

(はあ……)

隣を歩く真名人くんに気づかれないように、心の中だけで溜息をつく。

これから立ち向かわなければならない“ふつうの”世界に向けて、一人置いてきぼりになったような気がした。



中島君は、食堂で待ってくれているという。

お昼のピーク時を超えた食堂では、まだちらほらと学生たちが食事をとっていたが、中島君を見つけるのは容易かった。なぜなら彼の方が、私たちを見つけるなり大きく手を振ってくれていたからだ。表情はとても明るく和やかで、相変わらずの彼の姿に私はほっとした。


「やっほー、早坂、瞳美ちゃん」


「おー待たせたな」


彼が挨拶をしてくれたのは何となく分かって、声を掛ける代わりに会釈をした。


「中島は瞳美の耳のこと知ってるから大丈夫」


真名人くんがスマホの画面を見せてくれて、私は再び安堵した。自分の耳のことを知ってくれている人と知らない人とでは接する際の安心感が全然違うから。


久しぶり3人揃った私たちは、食堂でご飯を食べながら他愛のない会話をした。中島君は言葉を発せなくなった私を見ても少しも動じず、逆に「特別って感じでいいじゃん!」と励ましてもくれた。

特別。

ともすれば差別ともとれなくないその言葉だが、彼が言うことで明るくなれるのは不思議だ。


真名人くんは、中島君に私たちの会話の方法を話した。

簡単な単語なら私も聞き取れるということ。

聞き取れなくても、きちんと発音しながら話すと口の動きを覚えやすいということ。

それでも伝わらない時は筆談すること。


「俺も瞳美も今まで通りこうして付き合えてるから、お前も普通にしててくれ」


「言われなくてもそうするよ。瞳美ちゃんのためならね」


「クサイこと言うなぁ……でもありがとう」


彼らの会話を、私は完全には理解できない。

けれど、以前よりも他人の表情から感情を読み取れるようになった。

話している人の目、聞いている人の目。

口元、眉、まばたきの頻度。

笑っているか怒っているか、悲しんでいるか。

それらを見て、楽しい話なのか悲しい話なのか、はたまた真剣な話か世間話かを何となく理解する。

普通の会話が不便な分、他人の話を理解したいという気持ちが、自分をここまで成長させたんだと思う。


「とにかく俺たちは瞳美の味方だから、心配すんな」

「そうそう、瞳美ちゃんなら大丈夫!」


にっと笑いかけてくれる彼らを見て、私はふと気づいた。


彼らは変わらない。私の耳が聞こえなくなっても、変わらないまま接してくれる。もちろん戸惑いや不安もあるだろうけれど、表に出さないでいてくれる。

大丈夫、私は一人じゃないのだ。

中学の時亡くなってしまった佐渡歌だって、この胸の中でちゃんと生きている。

世の中の大勢の人たちにとって無関心の存在でも、誰かの心で生き続けているのだ。

だから私だって、きっとこの人たちの前では、変わらないままでいられる。


不安の中に刺した光を、いつまでも忘れずにいようと思った。


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