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まなざし  作者: 橘皐月
3. 反転
19/38

3-3

人が、轢かれたぞっ!


目が醒める前に、頭の中で、鋭い台詞が何度も再生されていた。

それが夢の中の出来事なんだろうと、なんとなく思っていた。にしては、叫び声を上げる人の声が、ぐわんぐわんと頭の奥で反響しているのがとてもリアルに感じる。いやに物騒な夢じゃないか。稀に友達が怪我をしたり死んだりする夢を見ることがあるけれど、あれは大抵が吉夢らしいということを聞いたことがある。だったらこれも、相当な吉夢なんだろう———と、幻想を抱いていた。



「……っ」


目を覚ました途端、強い光に一瞬目が眩みそうになった。

まぶたが重い。

ここは一体どこなんだろう、と考える暇などなかった。

なぜならば、白衣を身にまとった看護婦の姿が、目に飛び込んできたからだ。


「雨宮さん!」


その看護婦さんは、咄嗟に私の名を呼んだ———とばかり思った。

私は次第に開けてゆく視界の中で、彼女の唇がそんなふうに動くのを、この目で確かに見たからだ。

しかしあろうことか、私には彼女の声が全くもって聞こえなかった。

それがどうしてなのか、私には判別がつかない。でも、看護婦さんが必死に私に呼びかけているのが分かって、その呼びかけに答えようと、必死に瞬きを繰り返した。

そんな私の努力が功を奏したのか、彼女は私の無事を確認すると、一旦部屋から出いった。しばらくしてお医者さんや他の看護婦さんたちが大勢押し寄せてきて、いよいよ自分が怪我をして病院にいるという現実が詳らかになった。


すると、あの夢はやはり、夢ではなかったのだ。


そうだ、私は自転車に乗っていた。

確か、大事な日に着る服を買うために、とある商業施設に向かっていたのだ。

大切な日は———私の誕生日。

しかし、誕生日自体が大事なのではなく、誕生日を彼と一緒に過ごすことが、大切だったのだ。

彼は———早坂真名人はいま、どこにいるのだろう。

そんなこと、誰に聞かなくても大抵の予想がついた。今が何曜日の何時なのかはイマイチ分からないが、きっと彼は今頃家にいるか大学にいるかに違いなかった。


お医者さんが、私の目や頬を優しく触り異常がないかを確かめる。目や頬を触られても少しだけ痛いと思うだけで、それほど重大な怪我はないように思えた。


「……から、……て」


私が目を覚ました時、最初に側にいてくれた看護婦さんが、何かを口にした。相変わらず、私の耳に彼女の声は入ってこない。唯一唇の動きで理解することができたのは、他の語が聞こえなければ何の意味もなさないような言葉ばかりだった。

その看護婦さんは、胸に「吉澤」という名札をつけてた。吉澤さんは、私に何かを告げたあと、再び部屋を出てゆき、他の看護婦さんやお医者さんは部屋に残った。


看護婦さんたちはお医者さんからの指示を受けて、何か書類に書き付けていた。私はそんな彼女らの様子を見て、忙しそうだなと人並みの感想を抱いただけだった。自分の身に起こったことはきっと重大なことに違いないのに、身体のどこかにはっきりとした痛みを感じているわけでもないので、自分がどれほど危機的状態にあったかが、判然としなかった。


その間、私はずっと寝たままの状態でぼうっとしていた。目が覚めたばかりで急に起き上がる気にもなれず、かといってまた深い眠りにつくこともできず、目を開けてじっとしていることが今の自分に課せられた使命とさえ思った。


変化が起こったのは、それから1時間後のことだった。


先ほど病室から出て行った吉澤という看護婦が部屋に戻ってきたのだ。

それも、彼女一人ではなかった。

吉澤さんの後ろから姿を現した彼を、私は目を見開いて凝視した。

真名人くんは、肩を大きく上下させながら呼吸をしており、とても急いで駆けつけてくれたのだということが分かった。久しぶりではないはずなのに、彼の姿を見ると安心して、その日初めて声を上げたくなった。


真名人くん!


そう、言いたかった。彼の名を一番に呼びたかったのだ。

しかし、開いた自分の口から、何の言葉も紡がれていないということが、私自身を驚愕させた。

確かにいつもと同じように彼の名を呼んだはずなのに、きちんと息を吸って、言葉に出したはずなのに。


聞こえなかった。

私には、自分の声が聞こえないのだ。


愕然として、すがるような目で彼の方を見た。

彼は彼で、私の何かを見て、驚いているのが聞かずとも明らかだった。


「瞳美……」


彼が私の名前を呼んだのはよく分かった。聞こえたわけではなく、彼がこんな状況の私に会えばまず最初に口にする言葉が私の名前だということを、知っていたから。


(真名人くん)


心の中で、そう呼んだ。

しかし本当は、声を出しているつもりだったし、彼に自分の声を届けたかった。


彼が、驚きを隠せないままゆっくりと私に近づいてきた。

私のベッドの横に立ち、辛そうな表情で恐る恐る手を伸ばし、その手が私の耳にそっと触れる———ことはなく。

包帯でぐるぐる巻きにされた私の耳に触れられない彼の絶望が、ただそこにあった。私と彼の距離、30センチ。その間に、巨大な塊みたいになって、ずっしりと横たわっていた。



6月7日のことだった。


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