4話 タマと記憶
目が覚めた、とはいえ目はまだ開いていない。微睡みの中にいる。木々のさざめきやピー、チチチという鳥の声が聞こえる。まだ目を開けたくないのでもう少し眠ろうかな…。近くに人の気配がある。しょうがない、起きてみるか。まだ寝ていたいけど。タマはもぞもぞと身体を動かした。
「うーん…。」
「おや、お目覚めになりましたかな。」
「ひゃ?!」
そこにはのっぺりとした顔の大きなカエルがこちらを覗いていた。いや、正確には蛙人だろう。よく見ると白衣を纏っている。こういう服を着ている者は…イヤなヤツに決まっている。タマは毛を逆立て、彼を睨んだ。
「ちょっと、威嚇しないでくださいよ。やだなあ。今お嬢を呼んできますからね。大人しくしておいてくださいね。」
困ったなあと言わんばかりに右手を頭の上に置きながら蛙人は部屋を出て行った。お嬢、お嬢、お客さんがお目覚めですよ。という声が遠くで聞こえる。お嬢とは誰だろう、そしてここはどこだろう。タマは周囲を見回した。前の世界でご主人が寝床にしていたものと似た寝床に自分がいた。ヒトはこれで寝るのだ。初めて体験したことだが、布がまとわりつく感覚は狭い場所にいるときの様でなかなか落ち着く。このまま寝てしまってもいいくらいだ。タマはあくびをした。
「お寝坊さん、目が覚めたかしら。」
がちゃり。というドアの開きと共に料理が運ばれてきた。パンだ。少し残念な気持ちで見上げると長毛の白い猫人が立っていた。
「あら、パンは嫌い?」
「昨日馬人からもらったんだけど、美味しくなかった。」
「馬人のパンは干し草が練りこんであるの。これは猫人のパンよ、きっと気に入るわ。」
タマは恐る恐る手を伸ばし、そして食べた。
「美味しい!カリカリより美味しいかも!!」
「そう、よかった。…カリカリって?」
タマはかつて人と共に暮らしていたこと、その時に出された食事がカリカリだったこと。ご主人が楽しそうなときは肉と脂でできた丸いものを食べていたことを話した。
「あなたそれって…」
白い猫人の顔が曇る。何かマズいことを言ってしまったようだ。カリカリの貰えない野良猫だったのかな?
「あ、えっと。名前は?私はタマ。」
話題を変えるのは気まずい時のやり過ごし方だ。とても人間らしい会話だ。
「ブランシェよ。あなた、昨日のことは覚えている?」
「池の近くで寝てて、起きたら夜で、マモノに襲われて、逃げてたら犬人がいて…そこからは何も」
「そこから先は、あなたがその犬人に捕まって、私が助けて、今ここに寝ているというわけ。」
「そんなことが?!あ、ありがとうございます。」
「いいのよ、それよりも昨日より前のことは何か思い出せる?例えばどこに住んでいたとか。」
「住んでいたところは、よくわからない。外に出たこと無いから。」
ブランシェの顔がまた曇った。
「そこでの生活のこと、教えてくれる?」
「日の当たる暖かいところで寝て、ご主人がご飯をくれて、撫でてくれて、一緒に寝て…。」
「それだけ?」
「それだけ。」
そう、と言ってブランシェは俯いてしまった。何やら悲しげだ。
「でもね、とても楽しかったんだよ。おもちゃで遊んでくれたり、イタズラをしかけたりして…」
あのね――と、ブランシェは真剣な顔で切り出した。
「あなたは、これからは自分の力で生きていかないといけないの。わかる?」
かなり言葉を選んで言っているように感じた。そしてそういう話はこの世界に来る前に女神様から多少なりは教えてもらっていた。
「うん、大丈夫。」
「それで、何かしたいことはある?私でよければ力になるわ。」
「ご主人を探したい。」
ブランシェが突然立ち上がった。そして辺りを右へ左へ、頭を押さえながら歩いている。まるで怒りや悲しみを抑え込むかのように。
「いい、タマ。あなたはご主人に捨てられたのよ。会えたとしても、きっと酷い目に会うわ。ヒトとはそういう生き物なのよ。」
「捨てられたわけじゃない!」
「説明できるの?」
しまった、とタマは思った。「別の世界から来た」なんて到底信じてはもらえないだろう。しかしそれを誤魔化す上手い嘘を吐くにはこの世界の知識があまりにも不足している。正直に話してみるか…。
「実は、私とご主人は別の世界にいて。そこで二人とも別々に死んでしまったんです。そして死後、神様のお陰でこの世界で再会できるように計らってもらんです。だから、私は、捨てられていない。」
「そう、分かったわ。」
はぁ、とブランシェはため息を吐いて外へ出て行った。
ドアの向こうから話声が聞こえる。
「ハイラ、記憶の書き換えはヒトにできたかしら。」
「奴らがその手の魔法が不得手なのはお嬢もよく知ってでしょう。つまりお嬢はこう聞きたいんですな、連れ込まれたバステトの娘さんは何かしら記憶を弄られていると。そしてその可能性はどういうものがあるのか、と。」
「そうよ、そして残りの記憶はヒトに“飼われていた”ものだったわ。」
「趣味の悪いヒトの金持ちが愛玩に飽きて捨てた、と?こんな獣国の奥地にまで?」
「…。」
「仮説はいくらでも立てられます。が、記憶が弄られたかどうか幻術家にでも診せてやればすぐわかるのでは?」
「虫人の街、トランキアか…遠いな。」
「お嬢、今回の仕事でこの後イョーグへ行かれるのでしょう。でしたらそこに一時預けるというのも。」
「鬣の姉妹たちか…。それがいいな。そうしよう。」
タマは話に聞き耳を立てていたが、知らない土地の知らない言葉が飛び交うばかりで内容が丸で掴めず仕舞にはシーツの心地よさに包まれて寝てしまっていた。