41. 雨音と、溜息と。
サブタイトル変更につき、文章を一部修正しました。
はぁ、と大きく溜息を吐いた。
聞くだけで心が重くなりそうなそれは誰もいない旧礼拝堂によく響き、外でしとしとと降る雨と相まって余計に気が滅入ってさらに大きな溜息を吐く。
「気を使わせちゃったわよね……」
母の話をしてからシスター・カトリーヌとシスター・コレットの態度があからさまによそよそしくなった。
シスター・コレットはいつも以上に俯きがちで目が合わず、ぼんやりと考え事をすることが増えたとはいえ常に明るく笑顔を絶やさないシスター・カトリーヌが表情を曇らせるので、事情を知らない周囲が心配するほどだった。
そのため今朝は何となく顔を合わせづらく、私は気分が優れないと嘘をついて聖女の侍女の仕事を休み、朝から旧礼拝堂に入り浸っていた。
鉛色の雲が空を覆って薄暗い礼拝堂で読んでいるのは、授業と祈りの時間しか開いたことのない聖典だ。
秘跡の研究には詠唱の足りない部分を補うには聖典の教えへの正しい理解が必要だということが分かった以上、聖フィリアの絶対の教えであり、女神の言葉を記した聖典を読まないことには進まないからだ。
これまで机の上に置きっぱなしになっていた聖典を自主的に持ち出して読み始めたものだから、ガブリエラは喜びむせび泣いていつもの倍は鬱陶しかった。
しかし今まで触れたことのない、さらには苦手な分野であるためか、頁をめくる指が進まない。これは時間が掛かりそうだ。
そして何より、聖典を読んでいると、その教えを信じているシスター・カトリーヌが昨日見せた悲しそうな顔が浮かぶ。
いまいち集中することができず、文章が頭に入らない。私はもう一度溜息を吐き、聖典を閉じた。
「どうして言ってしまったのかしら、あんなこと」
別に嘘をつきたくなかったとか、そんな褒められた理由じゃない。あのときはなぜだか無性に言いたくなった、ただそれだけなのだ。
「あの聖女様、本当なのですか? その、お母様のお墓の場所をご存じないというのは……」
ガブリエラが私の顔色を窺い、少し言いにくそうにしながら尋ねた。聖典を手に取ったときこそうるさく騒いでいたが、昨日からやけに静かだった。
「本当よ。母が亡くなったときに母方の実家……祖父にあたる人が母の遺体を引き取って、それきり」
父は研究を続けるのに爵位は足枷にしかならないと、当時はその座を叔父に譲る気でいたため一介の学生に過ぎなかったが、稀代の天才として研究者たちを中心にその名を轟かせていた。
母は建国から続く由緒ある名門貴族の娘で、社交界に顔を出さないのは当主である祖父がその美しさから外に出さないからだと有名だった。
ちなみに私の髪と瞳の色は父譲り、容姿は母譲りらしい。
大学の博士生と深窓の令嬢がどこで出会ったのかは知らないが、二人は惹かれ合い、恋に落ちた。
両親が恋愛結婚だったので私には婚約者を宛てがわれることはなかった。魔術学院を卒業したら適当にお見合いをするつもりだったが、もしも婚約者がいれば修道院には入れられなかったかもしれない。
父はその頭脳で将来を嘱望されていたとはいえ爵位を継がず家を出るつもりでいたため、大切な娘をそんな男に嫁がせられないと母方の祖父にあたる人物に結婚を猛反対されたらしい。
両家の話し合いの席で父方の祖父が亡くなったら爵位を継ぐ約束で二人は結婚を認められ、父は大学卒業後に教授となり、両親は王都の屋敷で幸せなときを過ごした。
それも私が生まれるまでの話だ。
母は産後の肥え立ちが悪く、私が生まれてすぐに亡くなった。
母の亡骸は母方の実家に引き取られ、葬儀も母の実家の領地で粛々と行われたらしい。母方の親族も領民もそれはそれは母の死を嘆き悲しみ、元々結婚を反対されていたのもあって両家の溝は修復不可能なものになった。
父と私を含めアシュフォード家の人間は母方の領地は出禁となり、私は母が埋葬された場所すら知らないのだ。
「お父君はともかく、忘れ形見であるはずの聖女様まで出禁なのはおかしくないですか?」
「あの人たちはね、母の命を奪って生まれた私を憎んでるのよ」
「そんな! あんまりです! 生命の誕生は女神様がお与えになった奇跡だというのに!」
「全くだわ。人間が五体満足で生まれてくる確率を考えろって話よ。ただでさえ出産には危険が伴うものなのに」
聖フィリア教が秘績の威光を高めるために医学の発展を阻んでいることもあり、出産時に母子ともに命を落とすことも珍しくない。子供を産むのは命懸け、というのがこの国での常識だ。
この国は女神を信奉する一神教ゆえに土着の精霊信仰が根付いている地域に比べて女性の地位が高い。
女性が高い水準の教育を受けるのが当たり前のように受け止められているにも関わらず、社会的地位の高い女性が少ないのは、子供を生んだ後に身体を壊し、以前のように働けなくなって職を退かざるをえなくなるからだ。
貴族の場合、女性が爵位を継ぐことは認められているが、母子ともに亡くなったら血が絶えるリスクがあるため、男性が継ぐという考えが一般的である。
逆に神に一生を捧げ、未婚を貫き子供を産まない聖フィリア教の高位聖職者に女性が多いのはなんとも皮肉な話である。
「そうそう、人づてに聞いたのだけれど、母方の一族曰く、私は母の命を奪って生まれた闇の遣いなのだそうよ」
「は? 闇!? よりにもよって聖女様に向かって!!? 信じられない、命を何だと思ってるんですかその者たちは!」
ガブリエラが我が事のように怒るのがおかしくて、思わずくすくすと笑ってしまう。まるで自分の代わりに怒ってくれることが少しだけ、本当に少しだけ嬉しかった。
母がいなくて寂しい思いをしたこともあったが、その分父が愛してくれたし、顔も覚えていない母の死よりも、シスター・カトリーヌを悲しませてしまったことへの罪悪感の方が遙かに勝っている。
私は聖典を脇におき、鍵網み棒と刺繍糸に持ちかえる。途中で聖典を読むのに飽きるだろうと見越して持ってきたが、正解だったようだ。
刺繍や編み物はあまり好きではないが、今日だけは何も考えなくていいとばかりに作業に没頭した。雨の音だけが響く静かな空間でただただ手を動かす。
どれくらい時間が経ったのだろう。扉が開く音と強くなった雨音でようやく集中が切れ、私は顔を上げた。
そして、この場所に来る人間は一人しかいない。
「ここにいたのか」
扉の先にはやはりというか、アレクシスが立っていた。




