40.秘跡の綻び③
「…………」
シスター・カトリーヌの質問に虚を突かれ、私は思わず黙り込んでしまった。
わなわなと肩を震わせながらシスター・カトリーヌに食い気味に詰め寄り、その肩を掴む。
「す、すみません、素人考えでおかしなことを……」
「いい質問ね!」
「へ?」
私は目をカッと見開いて、シスター・カトリーヌの肩を揺さぶる。
「ただ詠唱を丸暗記するだけの魔術師も多い中でちゃんとそこに疑問を覚えるなんて! 私もきちんと説明せずに解読を始めてしまったし、一から教えるわ」
「は、はぁ。ありがとうございます……?」
シスター・カトリーヌは純粋に疑問を口にしただけだろうが、秘跡に抱いていた違和感や綻びに対するアプローチが徒労に終わってしまった気持ちが少しだけ上向く。
私は使っていなかった教室の後ろの黒板まで走ると、チョークを走らせた。
「いい? 魔術はね、周囲のマナに命令を与えることで発動する現象なの。どの属性のマナにどんな命令を送ればどんな現象が起こるのか、その意味をきちんと理解しないで使おうとすればマナに送る命令が曖昧になって発動できなかったり、威力が半減してしまうわ」
どんな学問でも言えることだが、公式を覚えて問題を解くのと証明の方法を知った上で解くのとでは理解度がまるで違う。
アレクシスの重力魔術がいい例だ。私の横で見ていた魔導書でうろ覚えながらも重力という概念を理解していること、彼の魔力が並みの魔術師より膨大で、マナに送ることができる命令式の数も多かったからこそ発動できたが、かなり燃費が悪かった。
秘跡の場合は光属性のマナとの相性がいい術者の存在が稀だというのが一番の原因だろうが、シスター・カトリーヌが中級秘跡まで使える理由は恐らく彼女も人より魔力量が高いことが関係しているだろう。
「術式の構造を完全に理解して要となる部分を抑えていれば短い詠唱で魔術を発動することが可能になるし、より効率のいい術式を組み上げて魔力の消費を最小限に抑えられるの。これが詠唱の欠けを気にしていた理由よ。伝わったかしら」
「はい!」
「ちなみに王立研究院で発表された最新の魔術理論によれば……」
思えば修道院に入ってからは魔術の話をする機会はついぞなく、シスター・カトリーヌの返事に気をよくした私は語り口につい熱がこもってしまい、一度話し出したら止まらなくなってしまった。
適度なところでアレクシスが質疑をしてくるのもいけない。
話についていけず口を開けてぽかんとしているシスター・カトリーヌに気がついたのは、教室が茜色に染まり、神学校の施錠時間が近づいても中々戻って来ない私たちをシスター・コレットが呼びに来たときだった。
「ごめんなさいね、ただでさえ今日は薬草畑の手入れを一人でさせてしまったというのに、教室の後片付けまで……」
「い、いえ、最近は畑仕事の方にも、て、手伝っていただけていますし……」
シスター・コレットがふと黒板を消す手を止め、そこに書かれた文字をじっと見つめた。
「ああ、これ? 古代語の訳をしていたの。秘跡の一文なのだけれど……。意図的な単語の抜けがあるらしくて、どうにも上手く訳せなかったの」
「……光の橋」
シスター・コレットが呟いた一言に、私は強烈な閃きを得た。
「それよ! 女神の権能の一部を借り受けて封印を施す術式というくらいだもの。発動時に御遣いが現れたときのような現象が起きると考えて……。ええと、こことここにも同じ要領で詠唱を足していけば……シスター・カトリーヌ!」
「はい?」
私は大慌てでアレクシスと話しているシスター・カトリーヌを呼んだ。
黒板の詠唱を読ませると、発動には至らなかったものの、教室中が光に包まれるほど術式の復元が進んだ。
シスター・カトリーヌはいずれ総本山で完全な形を継承するためもう意味のない行為だが、私にとっては秘跡の研究が一歩前進したように感じて嬉しかった。
「すごいわシスター・コレット! お手柄よ!」
「い、いえ。たまたまです。聖典の一節を思い出して……。わ、私よりもシスター・マリアの方が、す、すごいです」
「確かに……教本に載っている術式自体がおかしいなんて考えたこともなかったですし」
「私はただ父の教えを実践しているだけよ。私なんて遠く足元にも及ばないわ」
既存の概念を、当たり前と思うその思考を疑え、というのが私のお父様の受け売りだった。
マナに送る命令式はある程度体系立ってはいるが、まだまだ未知な部分が多い。魔術学院や王立 研究所での研究は、最も効率のいい術式の組み立てや、マナに関する未知な部分の解明に注がれているのだ。
マナは世界のあらゆるものを構成している。魔術を学ぶということは、世界の法則、理そのものを知ることになる。私は父が世界の全てを識る日が来ることを疑うこともせず、その来るべき日に隣に立てたらと、それだけを考えていた。
「立派な方だったんですね。夏至祭の夜は、私からもお父様にお花を供えさせてください」
──父への花。
考えたこともなかった。否、ずっと考えないようにしていた。
聖フィリア教を信仰していない無神論者だからではない。
私が、父の死を受け入れられないからだ。
「……ありがとう」
シスター・カトリーヌは優しい。亡くなったお父様の死を悼み、花を手向けようとしてくれているというのに、それだけの言葉を絞り出すのが精々だった。
「シスター・カトリーヌ。……私、亡くなった身内へ手向けたことがないの。普通はどんな花を供えるのかしら」
夕焼けが濃い影を作り、私の顔が見えづらくなっているのが幸いだ。
今は表情を上手く取り繕えている自信がない。
「ええとその、お母様も亡くなってらっしゃると聞きました。お母様には毎年何を……?」
「シスター・カトリーヌ、その話は……」
躊躇いがちに尋ねるシスター・カトリーヌを、心配そうな声音のアレクシスが止めようとする。
アレクシスは私の様子がおかしいことに気づいているのだろう。
「ああ、私ね」
私が今からする話は、きっと女神を信仰する彼女たちにとっては信じがたいことだろう。私自身はさほど気にしていないのだが、幼い頃その話をしたとき、アレクシスはとても悲しそうな顔をしていた。
適当にはぐらかしてお茶を濁すこともできるが、私はなぜだか本当のことを話したくなったのだ。
「母の墓の場所を知らないの」
淡々と告げた私の言葉にシスター・カトリーヌが目を見開いて小さく息を飲むものだから、やっぱり言わなければ良かったと後悔した。




