2.自称御遣いの小人
祈りの時間は信者たちの殊更熱心な雰囲気に包まれて終わった。
誰もが口々にシスター・カトリーヌをもてはやし、熱心な信者は祈りを続行し、大司教が御遣いの降臨を教会の総本山に知らせるために早馬を出した。
修道院中に漂う浮ついた空気に嫌気がさし、私は外に出た。
労働時間の開始を告げる鐘が鳴る。
修道院の生活は「祈れ、働け、学べ」の三則に基づいているため、自給自足が原則だ。
貴族の子女など、修道院に入るときの持参金の多い者は修道院で定められている労働を免除され、私もその対象に入る。
普通はその時間を勉強や読書、自由時間に充てるところを、図書館にある蔵書の分野と思想の偏りに抵抗を覚え、これなら手を動かしていた方が幾分かマシだと判断し早々に労働に変更してもらった。
労働も先輩修道女から刺繍や修道院での生活で使うナプキンやテーブルクロスを作る作業を勧められたが、針仕事は不得手だったので今は畑仕事に従事している。
私は通りかかった教会──先ほどの礼拝堂ではなく、修道院近辺に住む村人や旅人のための施設だ──の前でその壮観を見上げる。
聖フィリア教。女神フィリアを崇拝する一神教であり、王国の主教である。国内には修道院がいくつもあり、私が入れられたのは南の大修道院だ。男子修道院・女子修道院・神学校を有する南の大修道院は国の辺境に位置し、学べ、という指針も相まって信仰の篤い聖職者たちの学術的な研究機関としての性質が強い。
なぜ無神論者の私が修道院にいるのか。それには色々と事情がある。
「……聖女様! 待ってください聖女様――!!」
その諸々の事情のために精神を病んでしまったらしい私の幻聴は今なお続いている。そして振り返れば小さな翼を一生懸命羽ばたかせて私を追いかけてくる小人の幻覚が見えるのだろう。
私は幻聴を無視して修道院の庭にある奥の畑まで進む。
土いじりは好きだ。幼少期、書斎に籠っている父に構ってもらえないときは住み込みの庭師と一緒に花壇の手入れを行っていた。庭師は無口だったが、物心つく前に亡くなった母が愛した庭園を守り続ける忠義の人だった。
実家の薔薇園に思いをはせながら一心に雑草を引き抜いていたが、顔の周りをちょろちょろと動き回り、耳元で甲高い声で叫び続ける小人に私はとうとう白旗を上げた。
「聞こえてるわ、小人さん。聞こえているからとりあえずその口を閉じてくれない?」
片手で小人の両頬をぎりぎりと掴みながら小人の呼びかけに応えた。小人が苦しそうにじたばたと私の手の中でもがく。
ずっと目を合わせないようにしていたので、私はこのとき初めて小人の姿をしっかりと見た。
小人は透き通るような金糸の髪と澄んだ湖水のような水色の瞳を持ち、まるで礼拝堂に現れた麗人を二頭身にしたような姿をしていた。
……まさかね。
「ぷはっ、やっぱり私のことが見えていたんですね! 痛いじゃないですか聖女様!」
拘束を逃れた小人が私に向かってぎゃんぎゃんと吠える。まったく耳障りな幻聴だ。
「悪いけど人違いよ。私が聖女サマな訳ないじゃない」
「いいえ! 貴女は正真正銘女神様がお認めになった聖女様に間違いありません!」
流石に頭が痛くなってきた。そもそも百歩譲って小人の話が本当だとしても、おかしいことがある。
「……二、三質問があるわ、小人さん」
「小人さんではありません! ガブリエラです!」
聖フィリア教を主教としている国に住む民なら誰でも耳にしたことがある女神の御遣いの名前を名乗ったガブリエラは、なぜか偉そうに踏ん反りかえっている。私の幻覚のくせに生意気な。
「ではガブリエラ。先代の聖女が退いてから随分経つけどが、どうして今になって女神は私を選んだのよ? しかも各修道院が聖女候補を擁立した中でほぼシスター・カトリーヌに確定した最悪のタイミングで」
女神、と口にしたとき苦虫を噛み潰したような顔をしてしまったのは仕方のないことだ。
聖フィリア教の聖女になる条件は二つある。
一つは女神フィリアの神託を受けること。書物によると、聖女に選ばれた少女の前に光とともに御遣いが降り立ち、神託を告げるらしい。そう、ちょうど先ほどの祈りの時間のように。
そしてもう一つは誰も女神に選ばれなかった場合、秘跡を使う素質がある女性を祀り上げ、聖女とすること。
秘跡とは治癒や補助に特化した光系魔術の一つだ。治癒術に関しては聖フィリア教が術式を独占している状態のため、貴族は病気にかかると教会に金を積んで秘跡に縋る。
王国では様々な魔術の研究が進んでいるが、未だ光や闇の魔術は術式が確立してしない。
さらに秘跡を使える人間は生来の素質に左右されるため、上級の秘跡を使える人物は聖フィリア教の中でも極一部の聖職者に人間に限られる。
王国では様々な魔術の研究が進んでいるが、未だ光や闇の魔術は術式が確立してしない。
そもそも光や闇系統は魔術の素質も持つ者が滅多にいない上に光魔術の素質を持つ者は教会が囲い込み、闇魔術の素質を持つ者は迫害するため自ら公表しないからだ。
ちなみに南の大修道院が擁立する聖女候補のシスター・カトリーヌは生まれつき持っている魔力量が膨大で、上級魔術クラスの秘跡を使うほどの光魔術の素質を秘めている。
「それは女神様が今日初めて貴女を見つけたからです。……聖女様、教会を訪れたことは?」
「ないわ」
「聖フィリアの祭をお祝いをしたことは?」
「ないわ」
「女神様に祈りを捧げたことは?」
「あるわ。今日初めて。私、無神論者なの」
無神論者の父の影響で私自身も無神論者として育ったため、幼少の頃から教会のミサや行事に参加したこともなければ、教会で洗礼を受けた経験もない。もちろん家に家庭用の小さな祭壇もなく、十七年生きている中で形だけでも祈ったのは今日が初めてだった。
修道院では七日に一度は今日のように礼拝堂に修道士や修道女が集まって祈りを捧げるが、その日以外は各々の自室で朝晩祈りを捧げる。もちろん私はサボっていた。
ガブリエラはげんなりとした顔をしている。王国の主教は聖フィリア教だが信教の自由を保障しているため、私の発言には何もおかしなことはないはずなのに。
「……道理で。女神様は信仰心のある者の中からしか聖女を探すことができません。聖女様からは信仰心を欠片も感じませんし……」
「仮にも世界を創ったことになっている女神サマとしてそれでいいのかと思わなくもないけれど……まぁ合点はいったわ。そうねぇ、聖女の持つ発言力と自由裁量権は魅力的でも、興味はないわね」
聖女は聖フィリア教で女性の就ける最高地位で、教皇に並ぶ権力を持つ。しかしその地位に伴う責任やリスクを考えると天秤にかけるまでもない。
「あ、貴女は一体聖女の役目を何だと思っておられるのです!?」
ガブリエラは怒りで声を震わせ、信じられないと言いたげな顔をしている。
私はしばし考えてから口を開いた。
「聖フィリア教の偶像という名の傀儡。もしくは国王と教皇の権力争いにおける政治の道具、かしら」
「全っ然、違います! いいですか、よく聞いてくださいね!」
仁王立ちになったガブリエラがずいっと私の前に立った。
「聖女とは女神様から神託を承る神の代理人にして聖フィリアの象徴! とても尊い役目なのです!」
まさか私の幻覚で敬虔な信徒の模範解答のような発言を聞くことになるとは思いもよらなかった。気が遠くなりそうだ。
私は適当にガブリエラをなだめ、一番気になっていたことをガブリエラに問うた。
「分かった、分かった。じゃあ最後の質問。……ガブリエラ、なぜ縮んでるの?」
「それは……」
ガブリエラはぶるぶると身体を震わせている。俯いているためその表情を読み取ることができない。
顔を上げたガブリエラがキッと私を睨みつけて叫ぶ。
「それは、貴女様に信仰心が微塵もないからですーーーー!」
キンキンと耳元で響く声にうんざりする。
はぁ、と溜息を吐くと目の前の幻覚に向かって言い放った。
「当たり前でしょ。神サマなんて、いるわけないじゃない。……ガブリエラ?」
ガブリエラは両手を頬に当て、口を大きく開けたままの状態で気絶していた。