蝉の咆哮
俺の中で純文学寄り(純文学とは言わない)な、シリアスな短編です。
蝉が鳴いている。
僕の足元で、腹を上に向け、羽をバタバタさせながら、それでもビリビリと鳴き続けている。
公園のベンチに座って呆然とその姿を見る僕は、気が立っているのも手伝って、それを踏み潰してやろうかと一瞬本気で思った。
しかし思いとどまる。この蝉はまるで僕だ。
バイト先で嫌なことがあった僕は、直接家には帰らず近くの公園のベンチに腰掛ける。
木のベンチは木陰にあるというのに生ぬるい。八月という名の一年のてっぺんは、地球温暖化とかいう五文字熟語に煽られながら、殺人的暑さで街を包んでいる。
それでいて、木陰にそよぐ風はそれなりに心地よく、先ほど虫けらのように扱われた僕の、すれた自尊心に火照った脳幹の熱を多少奪っていった。
僕はそのまましばらく眠ってしまっていた。さっきあったいざこざに疲れたのかもしれない。いや、そもそも寝不足なのだ。三十過ぎても夢を追いかける僕には、一日二十四時間は短すぎた。
とにかく眠りこけた。起きてもまだ太陽はずっと上のほうにあるからそんなに長い間ではなかったようだけど。
それから目覚めた僕が、呆然としている。
夢だったのだと思う。白昼夢。まどろみの向こうに、僕は僕を見た。
僕……だけど同じ僕じゃない。夢が叶わなかった未来の僕だと、彼は言った。
「ほぼなくなったよ。出版社は」
彼が住んでいる三十年後、人は娯楽に、文字を必要としなくなっていた。
自分の趣向に合わせたキーワードをいくつか入力するだけで、人工知能(AI)はそれらしい物語を映像つきで自動作成してしまう。それはシェアが容易で、人気の出た物語にはセンスのよいユーザーがスパイスを加え、物語を進化させた。
今や文学は素人が思いつきで『映画化』できる時代であり、表現に雅な文字の羅列を用いるなどいう文化はなくなった。彼は熱っぽく語り、文章を操る技能について付け加えた。
「あるにはあっても、それは到底生きていくための手段にはならない」
そもそも発想に文字を使うということがなくなった。学術論文や報告書でさえ、今は本人が直接文字を落とすことはまれだと、彼は言う。
「僕は諦めたんだ。もちろん時代に合わせて、クリエイティブな分野で夢を追う事もできたと思う。だけど僕は……君は、なにになりたいんだ?」
小説家……
……すぐに言葉は出てこなかった。だって今、目の前のくたびれた僕はなんて言った?……「諦めた」と、言ったんだ。
諦めた自分の前で、夢の象徴であったその目標を自分が宣言することは容易ではなかった。彼が言う。
「僕には確かに文章を操る力があったかもしれない。でも逆に、とりえはそれだけだ。だからこそ僕はそれを人生に活かしたかった。自分の才能で、生きていきたいと思った」
そう、その通り。まさしくそう思っている。
「でも、時代はそうではなくなるんだよ。刀が鉄砲に取って代わられたように、蒸気船が日本から消えたように、なくなっていく技術っていうのは、確かに存在するんだ」
「だけど……」
「言っておく。君は小説家にはなれなかった。とても苦しい思いをしながら続けたけど、最後には目指すステージさえ消え去った。僕は、まだいろいろな可能性のある君に、それを伝えたかった」
……そんな、夢だった。
いや、夢だったんだろうか。ひょっとして三十年後には、過去の自分に何かを伝えることのできるアプリとかが存在するのかもしれない。とにかく僕はその、お告げのような死刑宣告のようなメッセージを未来の自分から受けて、ふと目覚めたわけだ。足元で死にかけの蝉が鳴いている。
踏み潰してやりたかったけど踏めなかった。死にかけなのに鳴こうとしている。僕はあの死刑宣告を受けて、どうすべきなのか。
いやそれ以上に……美樹に、どう伝えればいいのか。
それを思うと、僕はこの生ぬるいベンチから立ち上がることができない。頭を抱えれば美樹と、まだ幼い娘の笑顔が頭に浮かぶ。
美樹はいつでも笑っていた。三十越えても夢を追い、片手間のバイトで大した収入もない僕を一度も責めたことはない。
うだつのあがらない僕のプロポーズを待ち続け、安い指輪を握り締めて、写真だけの結婚式をした。
美樹は常に僕を信じ、僕が一つ浮かび上がるのをずっと待ってくれている。そんな彼女に、今起きたことを、どう説明すればいいのだろう。
「いや……」
やはり、これからどうすべきか、じゃないだろうか。彼女に今からの確固たるビジョンを語れなければ、今の事実を話しても寝言とそうかわりはない。
いやそれ以前に……。
二転三転して混乱する僕は、頭を抱えていた両手に力を込めた。髪の毛がいくつかの指の股に振り分けられ、まるでそれがいくつかの未来を指し示しているかのように、さまざまな方向を向く。
しかしどの未来を選ぶにしても、まず考えなければならないのは、今日、今、ここで夢が諦められるか……ということじゃないだろうか。
相変わらず蝉は鳴いている。
蝉が鳴くのは求愛行動だ。捕食される危険と背中合わせに、メスを求めて力の限り鳴き尽くす。都会と田舎を比べると、やはり都会の蝉の方が先に消えていくように思う。
よせばいいのにわざわざ都会に繰り出して、よせばいいのに後先考えず鳴いて早く死ぬ。
しかし、思えば人間も同じことをしている気もする。とことこと身の丈にあったペースで歩いて長く生きればいいのに、一生懸命背伸びをしながら全力で走って、わざわざ寿命を縮めて生きてゆく。
特に夢追い人は蝉じゃないか。ほとんど生き残れないことを知りながら、数少ない栄光を求めて、将来のリスクを省みず、力いっぱい鳴き続ける。
でもそれは、心のどこかにメスが舞い降りてくれることを期待すればこそだ。夢を追うという行動は、未来が絶望を語ることを前提にはできていない。
しかしだからとて、営々と積み上げてきたその想いを、たった一度の死刑宣告ですっぱり諦めることなどできようか。
……僕は、手をほどいて、公園の向こうの空を見上げた。
そもそも、だ。さっきの白昼夢にどれほどの信憑性がある?
人間というものは、未来を見ることができないことを前提に生を与えられている。先ほどは三十年先に存在するかもしれないアプリを想像したが、思えばそのようなアプリが存在するなら、今日、世界は未来を知る者だらけなんじゃないだろうか。
気にしなければいい。そう、気にしなければいい。そう言い聞かせながら、僕は頭を垂れる。
……気にならない、わけがなかった。もうう長いこと、僕は執筆を続けている。
さまざまな小説賞を目指し、資料を漁っては数え切れないほどの作品を生み出した。しかし結果は、嫁に、新しい服すら買ってやれない状況だ。
いくら魂をぶつけても、選考員の胸に響いたためしはない。傑作だと思っても、それはあくまで僕の独りよがりでしかないということが、結果に現れていた。
才能がないのだろうか。……疑った夜は数知れない。
しかしそれでも、僕にはこれしかない。蝉が自分の鳴き声が気に入らなくても、その声で一夏を明かすように、僕が自分の声を誰かに届ける方法は、これしかないのだ。
だから僕は描き続けた。鳴き続けた。結婚してまでも、嫁に苦労をさせてまでもその夢を追い続けた。
しかし、その先には何もないと、自分自身の口から聞かされたら……
それが例えただの偶然でも、気にならないわけがない。
僕の心情は右に左に揺れ動き、ふと再び見上げてみれば、日は西へ落ちかけている。
相変わらずシャンシャン鳴り続けている蝉に囲まれながら、僕は立ち上がった。
遅くなった。美樹はさぞ心配しているだろう。これがサスペンスなら、彼女は殺されたり不倫したりしているかもしれないが、美樹は単純に心配をしてくれているはずだ。
マナーモードにしていたスマホを取り出して、僕はそれを確信する。彼女からのメール着信は三つあった。結局答えは出ていないが、とにかく一度帰らなければならない。
家までは歩いて十五分かかる。僕はメールで謝りつつ、「今から帰る」と返信して歩き出した。
県道をまたいで住宅街を抜ける。もちろん無心ではない。僕は今からしなければいけないことを模索しながら、少しゆっくり歩いて決断までの時間を伸ばそうとした。
夢ってなんだろう。自分の才能で生きていくというのは、どういうことなんだろう。
三十越えて今も夢を目指しているなどと呟いた時の、その声を拾った人の反応はいつも微妙だ。
やんわりと言葉を選ばれながら、
「現実も見ていかなきゃね」
などと苦笑いされることもある。
どこかに属せ。どこかのレールに乗れ。……日本という国はそれを前提に成り立っているし、そもそも人の才能というものを、そこまで重要視していない傾向にある。
彼らのいう『現実』という言葉はつまり、『自分の才能を信じる』などという妄想は捨てろということと同義だ。人はそれぞれに違うものを持っていてしかるべきなのに、個性が社会の枠組みに入っていないことを嫌う。挙句、才能で生きようと思うことは現実的ではないというイコールが成り立ってしまう。
実際に才能で生きていける人も少ないのだから無理もないけど、そもそも人間の文化というのは、人の才能を生かしてこそ育まれてきたものではないか。それを、幼少期に一時期蔓延する風土病のように言われては、日本という国はいくら便利を得られてもそれはそれは味気なくて薄っぺらい未来を形成していくより他はないのではないだろうか。
才能は、もっと大事にされるべきなのだ。そして己の持つ才能を、人はもっと大事にすべきなのだ。
そう信じて、僕は他人の嘲笑じみたアドバイスを跳ね除けてきた。
でもそれは、さっきも言ったけど、その才能で生きていくことに一縷の期待を寄せてこそ。
……僕の落胆が大きいのはそれが才能ではなく、コンピューターに奪われると聞かされたことも原因だった。
その昔、戦いには技術が必要だった。剣が巧みな方が相手を倒し、その技術は芸術にまで発展していった。
その後火器を用いる戦争には、戦術は必要でも個人の技術は必要なくなった。そして今や戦闘は、ミサイル発射ボタン一つで勝敗が決してしまう。ボタンを押すだけなら素人でもできる。もちろん操作や号令などの基本的な知識は必要でも、攻撃それ自体に匠の技は必要なくなった。
つまり人の才能というものは、科学技術が発達するほどに無用になっていくということだ。
だけど、そうして才能を絶滅させながら最終的に出来上がる人間ってどんななんだろう。その時に作られた文化というものは、本当に人間の文化といっていいものなんだろうか。
時の流れなんだから仕方がないのかもしれないけど、それに人間たちが空虚を感じた時、活きた才能を持つ人たちはどれほど残っているんだろう。
……僕は僕自身の未来よりも、そんなことばかりが頭によぎって、結局美樹への答えを何も用意できないまま、家の扉の前に立った。
「遅かったね」
美樹は作り笑いをして出迎えてくれた。裏にあるのは怪訝だ。当然といえば当然で、僕は帰る予定時間を半日近く外して帰ってきている。しかし何か言い出す前に「ぱぱ!!」という、娘の声が飛び込んできて、その後は娘の独り舞台となった。
結局、美樹と話せるタイミングは娘が寝てからだった。僕は夜を執筆に当てているので決して晩酌をしないし、美樹もそれに気を使って普段はあまり声をかけてはこないのだが、今日はやはり気になっているらしい。パソコンに目をやっている僕の前におずおずと現れると言った。
「今日はどうしたの?」
「うん……」
僕は結局なにをどう切り出せばいいのかわからない。
「寝ちゃってさ……」
「どこで?」
「公園」
「暑かったのに……」
「疲れてたのかな」
「連絡してくれればよかったのに」
「マナーモードで気付かなかった」
「そう」
そこで途切れる会話。このまま知らぬふりをして普段の生活に戻ることもできる。しかし、僕は美樹の方へ向き直った。
「……白昼夢を見たんだよ」
「へぇ、どんな?」
「うん……」
部屋には冷房も入っていない。うだるような熱帯夜だけど、彼女はそんなことには一つも触れない。ただひたすらに、夢の内容を聞きたがっている彼女に、僕は長い間、口をつぐんでいたが、
「未来を知った」
「未来?」
「三十年後の僕」
「へぇ」
美樹の勢いはそこで止まった。
僕の顔色を見たのだろう。三十年後の未来……と言って、表情を硬くした僕に、美樹が容易に声をかけられるわけがない。
小さな、沈黙だった。僕は言う。
「小説家にはなれなかったらしい」
「……それは、どうして?」
「時代が変わった。小説どころか、出版社自体がほとんどなくなったって……」
「そうなんだ……」
喉の奥で呟いた美樹は、「よかった……」とも言った。
「よかった?」
僕はむっとして声を尖らせる。
「なにがよかったんだよ」
「だって、三十年後、あなたが病気とかで死んでたとかじゃないんでしょ?」
「……」
「ならいいよ」
……僕は言葉を失った。
美樹はその後、僕がこれからどうするのかとか、何も聞かなかった。
興味がないんじゃない。僕が言い出すまで黙っているつもりだ。僕はどうしたらいいのか、もう一度考えなければならない。
翌日の昼も、僕の姿は公園のベンチにあった。美樹にはあらかじめ遅くなることを告げて、僕は木陰のベンチに腰掛ける。生ぬるいのは昨日と一緒で、夏は相変わらず光り輝いていた。
昨日の蝉はいない。行方は知る由もないが、あれではメスに選ばれることはなかっただろう。力いっぱいを尽くしても、報われないこともある。……蝉は、どんな気持ちだっただろうか。
しかし、そんなことを考えに来たんじゃない。僕は匂いすら感じる熱気の中で、死刑宣告をされたその場所で、もう一度、葛藤することにしたのだ。
すなわち、あんな事実を突きつけられて、なお小説家を目指すか否か……。
よく、諦めることは簡単なことのように思われる。特に、何かを目指したことがない人たちからしてみれば、電気のスイッチのようにボタン一つでオンオフできるようなもののように思われているフシもある。
だが実際は、それほど簡単なことでは到底ない。その情熱に費やした時間や想いの積み重ねは、言うなれば自分自身を凝縮した結晶に相違なく、夢を諦めるというのは今までの自分を否定するのと同じくらいの意味合いを持つ。
そのニュアンスは、わからない人にはわからないし、わからない人はそれを簡単に否定するけど、とにかくそれほど簡単に諦められるものは夢とは言わない。
問題は未来の僕と称して出てきた夢の男の信憑性だが、実際はそういうことではないのかもしれない。結局、そういう雑音が聞こえてきてもなお、折れない心を持ち続けられるか……ということなのかもしれない。
そうだ。所詮は単なる白昼夢だ。一度の夢程度で諦めるなら、今まで無視され続けてきた作品の数だけの落胆でとうに諦めている。三十年後など誰にもわかりはしないのだ。いや……。
例え三十年後がそうでも、僕が僕自身に敗北するまでは……諦めるなど、ありえない。
僕は、中空をにらみつけた。その目に意思が宿る。
……しかしその意思の先に浮かぶ女性の姿を消し去ることができないのも、また事実だった。
僕一人なら……地面に這いつくばっていたあの蝉のように、鳴き続けてのたれ死ねばいいと思う。だけど、僕は一人じゃない。双肩にかかる責任の大きさは、決して鳴くだけ鳴いて死ねばいいというものではないのだ。
僕はそれを、たまに重荷に思うことがある。
美樹を愛しているからこそ、彼女の未来を惨めなものにしたくない。
僕に未来がなくてもそれは僕の責任だが、それは決して彼女の責任ではない。ドンキホーテに付き合って、不幸になるいわれが彼女にあるはずもない。……夢の結果が見えたのなら、なおさらだ。
僕はまた、頭を抱えた。嫁を不幸にしたくはない。それでも、夢は諦められない。
夢と家庭の両立……。これは、限りなく難しい。すべての人にそう言えるかはわからないけど、少なくとも僕にはそうだ。
夢にうつつを抜かして家庭を護りきることができないのなら、別れてしまうのが美樹のためなんじゃないか……とは、よく思う。美樹ほどの女性なら、まだまだどんな方面でもやり直しはきく。いい女なのだ。メスのために鳴かない蝉の元にいるにはもったいないほどに。
未来を見据えて見切りをつけるのは、実は僕じゃなくて美樹の方なんじゃないだろうか。
僕は本来そうするべきことをずっとずっと先送りにして彼女と結婚し、子供まで生してきた。
しかしそうやって無理やり両立してきたのも、夢を達成させる可能性があってこそ。それが叶わないと知りながらも突き進もうとする僕なんかに、彼女は何のいわれがあって付き合わなければならないのか。
僕の脳裏の論点は、気がつけば変わっていた。すなわち、美樹と別れて夢を追うか。夢と別れて美樹と暮らすか……。
「美樹」
娘を寝かした美樹の名を僕は呼ぶ。振り返る美樹の目元は、出会った頃に比べればだいぶ老けたのかもしれないが、やわらかいラインを描く優艶な愛らしさがある。
彼女との付き合いは長い。学生の時分、僕らがまだ無限の未来を思い描いていた頃、互いに無邪気な恋をした。
あの頃の僕は知らなかった。自分がこれほどの甲斐性なしだということを。
彼女を幸せにしてやりたい気持ちとは裏腹に、生活は逼迫している。僕のつまらない意地が原因のすべてであり、おかげで彼女はカツカツな生活の工面を常に強いられている。
それでも彼女は一言の愚痴ももらしたことはない。何も言わず、娘を育て、僕を支えてくれていた。
これほど気丈で、芯の通った女もそうそういない。だからこそ、僕は申し訳ない。
「美樹……」
「なに?」
「ちょっと話があるんだけど……」
書斎へ行こう……僕は歩き出せば、彼女はついてくる。何を疑いもしない歩調の軽快さに、僕は唇を噛み締めた。
書斎といっても実際は単なる僕の作業部屋であり、僕の私物が乱雑に散らかっている小さな部屋だ。美樹はどこに腰を落ち着けるか辺りを見回し困っているので、僕はスペースを作ってクッションを敷いた。
ヘタッと腰掛ける美樹。風呂に入って間もないのだろう。さっぱりした表情を浮かべている。
僕はそんな彼女の瞳から、つい目をそらしてしまった。だって僕はこれから彼女に別れを切り出そうとしている。でも、僕に、この表情を曇らす権利がどこにある。……つい、そう思ってしまう。
だけど……。
僕は対座し、ノースリーブにショートパンツ姿の美樹を改めて目に留めた。
「美樹、僕はやっぱり、あの白昼夢を無視できない」
「うん……」
「あれからいろいろ考えたんだ。あんな事実を突きつけられた時、僕はどうすべきだろうって……」
美樹は……じっと、瞬きもせずに話を聞いている。僕は彼女のこのまっすぐさに、ずっと救われていた。
「僕はずっと夢を追ってきた。その背景に美樹との生活があって、僕はそれを両立して生きていきたいと思ってたんだ。でも……」
夢が叶わないと知った以上、このままの生活を送ることはできない。……僕はそれを、やっとの思いで口にした。胃が、やけにはっきりと感じられる。なにか熱いものに燻されていくような……虫唾の沸騰を感じてえずきそうになる中で、僕は「だから」と言った。
言って……口をつぐむ。
美樹の目は今、僕を映してはいなかった。僕らの歴史を……僕らが、初めて会った時から連綿と築き上げられてきた僕ら二人の時間を……乱れ咲く記憶のすべてを映していた。
美樹は、わかっているらしい。僕が決断したこと。なにを言い出すのか。
付き合いの長さとはこういうものだ。呼吸で、空気で、相手の感情を読み取ることができる。できてしまう。
だからとて、会話をここで止められるわけではなかった。分かっている美樹だからこそ、僕は自分の口からはっきりと決意を口にしなければ、これほど互いの空気となって溶け込んできた関係を清算することなどできはしない。
「僕は……美樹を愛してる。だからこそ、わかってほしい」
「ねぇ」
美樹は僕の言葉に差し込むように声を発した。
「夢ってなに?」
「え?」
「夢って、どういうもの?」
「……」
意外な質問に、僕は目を泳がせる。しかしその裏にあるのは「その夢というものと今まで培ってきた私たちの時間と……大切なのはどっちなの?」ということを聞かれたものだと思った。僕は深呼吸をして、静かに言い放つ。
「もちろん美樹との時間のほうが大切で、かけがえのないものだと思ってる」
美樹は首を振り、
「そんなことは聞いてないの。夢ってなに?」
「僕の夢……?」
「ううん。夢って、どんなもの?」
「そりゃ……」
僕は、実は漠然としているその言葉を反芻した。『夢』というものを、言葉にするとしたらなんだろう。僕はいったい、なにを追って、何度も絶望してきたのだろう。
「入手困難な地位を……手に入れるために、自分の人生を賭けることかな」
夢の多くは地位を得るために扱われる言葉だと思う。例えばスポーツでオリンピックの金メダルを夢見たとしても、やはりそれは地位だ。もっと漠然に金持ちになる……のような夢でも、それはやはり、富豪という地位だろう。
いずれにしてもその地位が狭き門の向こうにあるがゆえに、人はその場所に全力を尽くして邁進しなければならない。
環境や才能によってはそうでない人もいるのかもしれないが、容易に達成を果たしたことに関して、その本人は『夢が叶った』とは思わないだろう。
入手困難なものが夢の条件だ。だから自ずと、夢を目指すものは人生の一部にせよ全部にせよ、叶うか諦めるかまでの間、自分を担保にして、才能と努力を賭けなければならない。取り返しのつかない時間を生きる人間にとって、その賭けは決して軽いものではなく、その重さに耐えられないから、人は夢を諦めるのだと思う。
彼女は、僕の言葉を一度なぞるように呟いた。そして言う。
「夢はリスクでもあるわけね」
「ああ」
「場合によっては人生終わることもあるってことでいい?」
「大げさに言えばな」
いや実際、決して大げさではない。僕はそれくらいの覚悟を持って夢を追っているし、だからこそ夢は叶わないなどというお告げがあろうとも、簡単には諦められない。
僕にとって、文章で生きていくことは人生で唯一のアイデンティティの表し方なのだ。
「あなたはその夢まで届かなかった時、人生終わってもいいって思ってる?」
「……その時、気がかりなのはキミだけだ」
空気が揺れる。美樹は一度、胸に呼吸を溜めると、別のことを言った。
「私にも夢があるの。聞いてくれる?」
「夢?」
僕は再び視線を上げた。
彼女の目は、僕を一点に見据えていた。開いた口から静かな言葉が紡がれる。
「私の夢は、夢見るあなたの成功を信じた私を信じて、ずっと一緒にいること」
「え……?」
「私、あなたに賭けてるの。その賭けに敗れて、自分自身を信じきれなくなるなら、この人生終わってもいい」
彼女は微動だにしない。座ったまま、やや僕を見上げるようにして、言った。
「私より夢をとるあなただもん。夢っていうものがどれだけ大切か……説明は必要?」
「……」
「私を蹴っても、夢を奪われることを嫌ったあなたが、人の夢を奪うのはありなの?」
「……」
「夢が大切だと分かっているのなら……私の夢を奪わないで」
僕は、目をつむった。
かなわない。この嫁は、こんな僕であることをすべて飲み込んで、共に生きている。僕の甲斐性のなさもすべて織り込み済みで、その上で幸せを探そうとしてくれている。
この先見えるのが絶望だとしても、美樹は鳴き続ける僕のそばで小さく鳴き続けるのだろう。さっき、二人は空気で分かると言っていたのに、なんだろう僕は。何にもわかっていなかった。
僕は、死にかけの蝉のようなものなのかもしれない。しかし、死ぬまで咆哮し続けたのであろうあの蝉のように、立派に鳴き尽くさなければならない。
「わかった……すまない……」
それは一種の求愛行動でもあるように、今の僕には思えた。