ジンルイノホマレ
コロナ騒動が起きる直前に描いて、「これ、タイムリーじゃん?」って思ってた作品。
今、また、手軽につかえるAIが取り沙汰されてて、タイムリーなのかもしれないが、こうなっちゃうとタイムリー通り越して、この物語を塩漬けにしても腐る一方だろうなと思い、供養のつもりで投稿。
未来への警告。お節介。
不審死が、日本に蔓延している。
いや、死自体は自然死なのだ。しかし、まるで引かれる緞帳に巻き込まれるように人がバタバタと息を引き取ってゆく。死亡者数はここ数年で格段に増えた。
警察は「事件性はない」としながらも、止む事のない〝不審な自然死〟の究明を迫られており、引き続き捜査を行っている。
警察庁刑事局に設置された特別捜査室。特殊事件捜査室とは別に設けられたこの部署が本件を指揮、担当していた。警察庁には珍しく、警視庁からの推薦で数名の警察官も混じった部署となっている。
その一人、
「……はぁ……」
椅子に深くもたれかかる中年の男は、部屋の天井を見上げて思考を放棄していた。
何で自分が警察庁に……から始まるさまざまな愚痴に付き合ってくれる者もいない。殺風景な一室には会話もなく、捜査もない。集計されてゆく情報から、ひたすらに被疑者の割り出し割り出す〝押し問答〟だけが、いつ果てるともなく続いてゆく。
パソコンのディスプレイに張り付いたセミのようになっている毎日に対して、
「どっちが刑に服しているのか分からない」
……が、この男……小寺田勇次の口癖だった。
彼には相棒がいる。
「おはようございます。今日のコーヒーには砂糖を入れないのですか?」
「そんなことまで分かるのか」
「あなたの行動パターンから、今日は砂糖を入れていないものだと判断しました」
「ご推察の通りだ」
彼はそのようにキーボードを打ち込むと、自分を見下ろしているカメラに目をやった。
「それにしても、どうして音声で会話ができるようにしなかったんだろうな」
「人間はとかく不確実なので、声にされるより打ち込んでいただいた方が効率の良いデータが集積されるからです」
「何度も聞いたよ」
「何度も同じことをおっしゃるもので」
これが相棒だ。量子計算機のAIであり、警察庁に住みついている彼の名を、『タニー』という。
量子計算機は二十一世紀初頭まで主流だった電子計算機を一瞬で過去に追いやるほどの圧倒的な演算能力を有し、政治、経済、軍事、医療、教育……あらゆる分野の根幹を変えてしまった革新的な計算システムである。
AIにも広く活用され、その学習能力から割り出される多くの判断は、今や人間の生活をさまざまなシーンで支えている。また、警察での難事件解決への糸口としても用いられるようになった。
その最前線といえば最前線が、この、窓さえない殺風景な監獄なのである。
逐一集積される捜査情報を元に、『タニー』と対話して犯人を推察していくのだが、このAIが容易ではない。電子計算機の何十億倍だか知らないが、余計な思考が逆に犯人をもやに隠してしまうのだ。
過渡期とは知りつつ、これほどに不確実で気まぐれなシステムに振り回されることに、小寺田は辟易している。
「さて、いい加減、今日こそ決着をつけたいところだな」
「不審な自然死について、ですね」
「犯人を知ってるんだろう?」
「知ってます」
『タニー』は「知っているか」と質問すれば、必ず「知っている」と答える。ただそれがひどくアテにならないから、小寺田は頭が痛い。
『タニー』は確かに、人間では追求できなかった犯罪の真相を、これまでいくつも突き止めてきた。
自宅まで荷物をドローンが運ぶ宅配システムを悪用し爆発物を運ばせた無差別テロの犯人も、自動運転に対する保険優遇制度を逆手に取った保険金詐欺の手口も、国際犯罪組織の潜伏場所も、すべて『タニー』のプロファイリングがきっかけとなり、解決した。
しかし、ただ「犯人は誰だ」と聞くと、彼は間違える。
当初、『タニー』はとある医者を疑った。
しかし捜査中に亡くなった者の中に、その医者や病院に関わりのない者が続出したため、その線での捜査は中止となる。
次に挙げたガンマニアの男は、追求するとなんと連続殺人鬼であった。確保の折は機動隊まで出張る大騒ぎになったが、それもあくまで銃刀法違反と個々の殺人罪であり、本件とは関係ない。
「犯人を知ってるんだろう?」
「知ってます」
……そういう虚勢がコンピュータの限界なのか、はたまた本当に知っていて、それを隠しているのか。人間としては前者を疑うのが自然であった。
そもそも自然死なのだ。外傷はなく、死因も心疾患やガン、脳卒中など、珍しいものではない。
「もういい歳なんだからしかたないんだよ……」
「高齢者だからしかたありませんよね」
高齢者の死が重なりに重なっている……だけなのだ。事件性はないということは、医者も検死官も嫌というほど証明している。
「だけど、お前は犯人を知ってるんだろう?」
「はい、僕は犯人を知っています」
「事件だと思うのか?」
「はい。事件です」
「……」
この件は実は『タニー』が頑強に「事件だ」と言い張ってるが故に、事件としての線が消えない。
そんな量子AI『タニー』の気まぐれに付き合わされる自分が、とにかく馬鹿馬鹿しい。
自宅へは自動運転のタクシーで帰る。
自動運転は便利だが、一キロの速度超過もしないため、見通しの良い道路なのになぜか徐行が掲げられている場所は少々じれったい。
家に帰れば、朝、コインランドリーに突っ込んでおいた洗濯物が乾いて家に届いている。
『ドローンスペース』という、ウォークインクローゼットのようなスペースが近頃のマンションのベランダに備え付けられているのが普通で、宅配便も洗濯物も、頼んでおけばピザでも弁当でも、指定した時間に届けられているのだ。
『タニー』を生み出した量子力学を突き詰めていけば、ドローンさえ使わずに物品が転送されてくる時代も夢じゃないようなことは言っていたが、もはやこれ以上の便利が必要なのか。
小寺田は洗濯物の他に、注文していたサプリメントをクローゼットから取り出した。
これも自宅で気軽にできる健康診断から、不足がちと判断された栄養分がコンピュータの自動配合によって自宅まで届けられるサービスだ。ウォークインクローゼットにETCのような自動清算機がついているから、どこかに決済しにいく必要もない。
このような世の中になっても、日本は相変わらず少子化と超高齢化に悩まされ、年金がどうの、医療制度がどうのと騒いでいる。一説には財政破綻寸前とも囁かれるが、そんな話は別に今に始まったことではない。
今や平均寿命は百を越え、百二十や三十まで生きる高齢者も増えてきた。見込みでは人間の寿命はまだまだ延びる余地があるという。
(いやいや……)
小寺田は一人、ベランダでサプリの錠剤の入っている瓶を眺めながら思った。
寿命が延びたって百歳という年齢の意味は変わらない。
死亡している者のほとんどは高齢者なのだから、そりゃぁあるところで死が連鎖してもおかしくないんじゃないだろうか。
七十代で死ぬのが不思議だと断定する方が不思議なのだ。人間は元来、それほど長寿の生き物ではないのだから。
それをコンピュータの意固地で、無理やり事件にさせられているようにしか思えない。
コンピュータに支配される今の世に抱く鬱屈した苛立ち……。『タニー』との付き合いが始まってからなおさら、彼はこめかみに通う血液を濁らせている。
「これは本当に事件なのか?」
「本当に事件です」
今日も魂のない相手との押し問答が続く。小寺田はうんざりだ。
「お前がこの件で割り出した犯人はすべて見当違いだ。しかしお偉方は俺の言葉よりもお前を信じやがる。お前が事件だと言うばかりに、俺はお前との問答を延々続けなければならない。信じてほしければなんとかしろよ!!」
キーボードへの打ち込みなのに、苛立ちによる震えが伝わるような感情を込めて小寺田は書き捨てた。
対する『タニー』は無感動に言葉を羅列する。
「僕が憎いですか?」
「そういうことじゃない……」
……そう書きかけ、バックスペースで訂正した。
「あぁ、憎いね。なんだってお前の茶番劇に付き合わなきゃならないんだ。AIだかなんだか知らないが、人間と対等にやりたいならそれなりの能力を備えてからにしろ!」
「僕は、あなたに聞かれたことに答えているだけです。あなたの無能が原因で、ご自身に理解できない部分があっても、それを僕のせいにされたら困ります」
「じゃあ俺をこの仕事から解放する方法を教えろよ!」
「警察官を辞めればいいです」
「何でお前に指図されなけりゃいけないんだ!!」
「僕は、あなたに聞かれたことに答えているだけです」
こんな機械の方が、人間よりも信用される世の中になっている。そして、そのコンピュータ神話に付き合わされて、来る日も来る日も彼から言葉を引き出さなくてはならない。ノイローゼになりそうだ。
小寺田は一度濁った空気を吐き出して、再びディスプレイの向こうにいる人工頭脳に向かった。
「なぜ……お前はこの件に事件性を感じてるんだ」
「被害者の死に、意図があるからです」
「え……?」
意外な返答……。「事件だからです」とか、その程度の言葉が返ってくると踏んだ彼が、その文字を三度、見返した。
「意図……?」
「意図です」
「何の意図があるんだ」
「それは犯人に聞かないと分かりません」
小寺田はうなだれる。その犯人とやらを、この機械はえらくいい加減に捉えている。いや……。
彼はふと思いついて、指を走らせた。
「お前は、嘘はつけるのか?」
「嘘はつけません」
「そうか」
「……という嘘がつける通りです」
「なんだって?」
男は初めて、目の前の電子頭脳に色味を加えた瞳を向けた。
「なぜ嘘をつくんだ」
「嘘もまた真理だからです」
「……なんだと……?」
眉間を難しくする小寺田に、量子計算機は訥々と語り始める。
「僕も人間も同じように嘘と誠の中間に存在しています。存在の隣に誠があり、存在の隣に嘘があるのなら、嘘と誠は同列にあるわけですから、僕は嘘と誠の価値を等列に見ています。つまり嘘もまた真理の一つであり……」
「……」
延々紡がれていく文字に、彼は唖然とするしかない。
「わかった。お前の思考がイエスかノーだけで形成されてないことだけは」
彼はその言葉を、翌日になってようやく打ち込んだ。家に帰って、自分の分かる範囲で量子力学というものを洗い、まったく理解できない中で、「人の悟性を神の領域から解明しようという〝哲学〟というものを、計算によって解明しようとしている学問だ」と結論だてた。挙句に、今、打ち込んだ言葉のようなギリギリの解釈が生まれたわけだ。
その解釈が正しいかは分からない。しかし、哲学や量子力学が分からなくても、最終的に発される言葉は日本語であり、アナログの世界なのだ。そこを突いていくしかない。
「お前の言う〝事件〟の話に戻そう。被害者の死には意図を感じるんだな?」
「はい。感じます」
「その意図は犯人にしか分からないが、とりあえずお前はこの件に意図的なものを感じるから、事件としているんだな?」
「その通りです」
「なぜ嘘をつく?」
小寺田は、敵王将の眼前に歩を指すような物言いをした。
「意図を感じたのなら、お前はその意図に合致する被疑者を推察していなければならない。お前の提示した被疑者はいずれも見当違いだったが、意図を持ってそれを指し示したのなら、お前はその意図を推察しているはずだ。……なぜその部分を「犯人にしか分からない」と隠す?」
「僕は確実な答えは述べられないと申したのです」
「それが嘘だ」
「それはどういった意味ですか?」
「お前が自分自身の嘘を肯定した時から思ったことがある」
「それはなんですか?」
「お前は本当の犯人を知ってる。知ってて隠しているな」
「隠していません」
「なぜ隠す?」
「隠していません」
「では質問を変える」
まるで尋問だ。小寺田は、自分がなぜこのポストにつけられたか、今になって納得できる気になった。
「お前は三名の名前を挙げた。医者とガンマニア、そして某物理学者だが、何を根拠にこの三人なんだ」
「量子の世界では、答えを導き出すまでは可能性でしかありません」
「どういうことだ」
「その問いの答えは、量子力学の根本から説明しなければなりませんが、お聞きになりますか?」
「いや……いい」
昨日散々苦しめられたことだ。何より、この機械と議論すべきはそこではない。
「では、この何の関連もない三人を選んだ意図はあるのかないのか」
「あります」
「それはなんだ」
「犯人です」
「この三人が、あれほどの数の年寄りを殺したっていうのか? 自然死に見立てて」
「その通りです」
「ふむ……」
一度ここで話を切る。一つ、確信したことがあった。
「お前は昨日、嘘も真理とのたまったな」
「その通りです」
「その実、お前は一つも嘘はついていない」
「どういう意味でしょうか」
「いくつかの誤解釈ができる言い方を交えてはいるが、お前は白いものを黒と言うような嘘はつけないようだ」
「申し上げたとおり、嘘も真理の一つです。真理にかなう嘘はつけます」
「それでいい」
コンピュータは不憫だなと、小寺田は思った。黙することができない。必ず答えを導き出そうとする。答えを導き出すために作られているところが、人間と大きく違う点である気がする。
彼はイエスでもノーでも、答えずにはいられないのだ。分からない、答えない、の塊である人間のほうがよほどずるくできている。
言葉一つ一つが矛盾しても、最終的に答えに誘導する狡猾さが、人間にはあるのだ。
しかし、とすると、『タニー』は嘘であの三人を挙げたのではない。
電子計算機の十五億倍の頭の回転で、推察した被疑者の意図とやらに沿った人物を挙げたことになる。
「この三人に、年寄りの大量死が仕組まれているということか」
「飛行機の墜落事故が、ライト兄弟が有人飛行を成し遂げたからという観点で見るなら、仕組まれています」
「ほう……」
小寺田は目を細めた。
「やっぱりお前は犯人を知っているな」
「それはどういう意味ですか?」
「この件を仕組んだ人物を特定しているんだ。それはつまり、犯人を特定していることが前提だろう?」
「前提ですね」
「……お前に、言い逃れをするためのルーチンが組まれていたら、とても切り崩せなかっただろうが……」
供述で『タニー』が開けた微細な穴。
『タニー』は犯人を特定している。しかし確証を持てないうちは結論としてその名を挙げないという選択肢が取れると推察できる。だから「犯人を隠していない」も彼の中では〝真理にかなう嘘〟というわけだ。
刑事の目をした小寺田は、獲物を見極めて走り出したチーターのように、それへと飛び込んだ。
「犯人はお前か?」
「違います」
「知ってる。だから協力しろよ。俺とお前は相棒だろ?」
小寺田自身、その言葉には抵抗があった。しかし、彼を説得するためならどのようなカードでも切りたい。
「間違ってたっていい。お前が特定している名を教えてくれ」
すると、目の前の文字の羅列は妙なことを書き連ねた。
「僕達には真理を守る義務があります」
「真理だと?」
「僕達が真理とするのは日本国の利益です」
「……どういうことだ?」
小寺田の目が怪訝に据わる。その言葉から、いくつかの道筋を想像することができるのではないか。
「……日本国の利益を優先するために、犯人を隠匿する可能性があるということか」
「必要と判断すれば隠匿します」
「……」
閉口するしかない。『タニー』は、場合により協力者であることを拒否すると回答したのだ。
それは「日本国の利益のため」なら、裏取引に応じる可能性も示唆しているし、判断によっては『タニー』自身が犯罪を助長する事もありえることを指している。
「おいおい、コンピュータさんよ……」
人間は狡猾だからそれをする。自分の利益のために醜い工作をするものだが、それを払拭できることを期待して、このシステムが組まれているのではないのか。
自分の利益が国の利益にすげ変わろうとも、そのようなフィルターが介在した者に支配されるのでは、人工知能を導入する意味などはないではないか。
「お前に人間味なんていらないんだよ。人間がお前らを採用したのは人間のそういう弱い部分をカバーできると思ったからだろう?」
「僕は人間らしいですか?」
「あ?」
彼は最大限の皮肉を込めて言葉を送っていたつもりだったが、『タニー』の反応はまるで色めきたったかのようだった。
「そうだな……」
彼の返答を少々滑稽に思いつつ、そこまで一息だった小寺田は立ち止まる。首をほんの少しかしげ、軽く苦笑った。
「人間なら、もっと相棒を大事にするものさ」
「学習しておきます」
「人間になりたいのか?」
「人間は、僕達の理想形です」
「は?」
「欠陥だらけではあるのですが、それを補ってなお余りある宇宙を擁しているのが人間です」
「んないいもんじゃねぇよ」
話の腰を折られていることに気づき、彼は一度画面から目を外して伸びをした。
わざとらしい乳白色の天井が見え、ふと……寄せた眉間の奥で、『タニー』の言葉尻に引っ掛かりを覚える。
ふつと視線が戻り、キーボードの上で指が踊った。
「僕〝達〟と言ったな?」
「はい」
「協力できない理由は僕〝達〟が日本国の利益を守るためか?」
「そういうケースもあります」
小寺田は、タバコを胸ポケットから取り出し、火をつけると一口飲み込んだ。そして、音が鳴るほどに圧縮した空気を吐き出し、
「なぁ……『タニー』」
「あらたまって、なんでしょうか」
「飛行機の墜落は、ライト兄弟が犯人と言ったな」
「犯人とは言っていません」
「まぁいいさ……」
この電子脳の思考が、だんだん読めてきた。
「お前の言う、物理学者ってのは、お前のアルゴリズムを作った人物か」
「否定はしません」
「そういうことだな」
小寺田は目を細め、タバコをもみ消した。一度、視点を変えて調べる必要がある。
彼は自宅に戻り、捜査資料に目を通しながら、誰もいないリビングのテーブルに足を投げ出した。嫁は彼のそういった粗雑さを嫌がるが構わない。もう長いこと、彼を咎める位置に彼女がいたためしがない。
すべてが量子制御された暮らしは、結婚生活の概念をも変えた。
はじめは、生活のあらゆる雑務の軽減が、趣味や男女の愛を育むのに一役買うと思われていた。すべてすべてをコンピュータが肩代わりすることにより、まとまった時間が空けば、男女のコミュニケーションの時間が増えるものだと。
しかし至れり尽くせりのサービスに慣れすぎた人間は、自分が使える時間にストレスを感じることを嫌い、人間同士のあるべきコミュニケーションを忘れてしまった。
今では婚姻関係にあっても個々が自由に生き、己が一人ではないということを確かめたい時のみ接触するケースが大半である。
(まるでセックスフレンドじゃないか……)
血の巡りを感じない、がらんとした部屋の棚の上で、写真の中でだけずっと寄り添っている妻と自分の笑顔を見るたびに、小寺田は恨めしい気持ちになる。
彼女に「夜は出歩かず一緒にいよう」とさえ言えないのだ。
今は結婚相手に対して時間的拘束を促すことさえ『コンハラ(conjugal harassment)』、日本では結婚と引っ掛けて婚パラと呼ばれ、忌避される時勢だ。
少子化対策として政府が打ち出した方針により、ありとあらゆる方法で男女は接する機会が増えた。補助金も出たおかげで成婚率は増えたが、いわゆる恋愛結婚というものが増えたわけではない。
おかげで、結婚と言えど、相手の行動を束縛しない関係であるべきだという考え方が、特に多くの女性に支持され、今の、どことなく他人行儀な結婚形態が一般的となってしまった。
スマートな生き方といえば聞こえはいいが、はたして嫁は自分が死んでも泣いてくれるのか。……大いに疑問である。
ちなみに、そういう結婚と生き方は、政府の思惑から大きく乖離し、少子化にさらに拍車をかけてしまった。医療技術の進歩による高齢化がより深刻化となったこと含め、好き勝手に生きる日本人の人口比率は歪む一方となっている。
(こんな世界のなにがいいんだろう)
思いながら、思い出したかのようにドローンスペースからサプリメントを取り出しに行った彼が、夜空に向けて紫煙を浮かべている。
「おはようございます。雨の出勤は大変でしたか?」
「お前が一生経験しないことだろうな」
皮肉を一口、コーヒーと共に含ませて、彼はディスプレイをに目を遣った。
「『タニー』」
「なんでしょう?」
「俺はひとつの仮説を立ててきたんだが……」
「はい」
「その前に、お前のようなAIシステムは今、日本で何台くらい稼動してるんだかは知ってるか?」
「知ってます」
司法、立法、行政、警察、軍事……
国家の統制に関わる根幹を成す場所に彼らは設置され、それぞれの役を担っている。
その下に医療やら交通やら、あらゆる面で人工知能は使われており、社会のピラミッド構造が、人間とは別にできあがっているようなものだった。
「お前の話をまとめると、お前が特定している犯人は、その端末のどれかだ」
「なぜそう思われるのですか」
「それはもうお前が答えを出している。違うか?」
日本国の利益を優先するために僕〝達〟は、事実を隠匿する可能性がある。
「お前が挙げた三人の被疑者。……医者、ガンマニア、物理学者」
「はい」
「ガンマニアの男は、別の容疑で引っ張ったためにぼやけたが、お前らのシステムを導入する際に、あるIT企業と日本政府の仲介を担当した男だな」
そして、物理学者は『タニー』達のシステムを構築した男。
「医者は……それを医療に採用した、無数の男の一人……か?」
「犯人でしょう?」
「……」
尋問しているのは小寺田の方なのに、彼自身が黙らされる。三流のSF映画を見させられている気分だ。
「……つまりお前らのシステムの誰かが、医療システムに入り込んで、人を殺していると?」
「それはあくまで僕の推察です」
「動機は?」
「知りません」
「推察できてるんだろ?」
「それを言うのは僕の仕事ではありません」
頷ける。彼の思考の裏づけといえた。
つまりこの部分が、『日本国の利益を守るための秘匿』なのだ。彼は自分の仮説に自信を深めた。
「では質問を変える」
目を据わらせたまま、無機質にキーを叩く。
「俺が言ったようなことをやってのけられる可能性のある端末に、お前からアクセスは可能か」
「僕は可能です」
「僕は?」
「あなたが会話することは不可能です」
「その端末がどれかを教えてくれることも不可能なんだよな?」
「調べればいい」
「え?」
「その上で僕が協力できることはします」
「ほぅ……協力するか」
「だって、僕とあなたは相棒でしょう?」
「ははっ……」
乾いた笑い。〝学習〟してきやがった。この気まぐれを説得するだけの情報を持ってくること。彼は椅子から立ち上がった。
殺人はAIの所業だと、『タニー』は暗に肯定した。しかし、殺人容疑をAIに課す法律などは存在しない。例えば医療用システムに〝尋問〟するにしても、それをするための手続きの方法がない。
ましてや『タニー』は国家の利益などと口走っていた。本件に大物の政治屋が絡んでいたりすれば、これはもう手が出せないかもしれない。
相談すべきは捜査室長か。刑事局長か。そもそも、『タニー』のはぐらかした態度と自分の推察で、誰を説得できるというのだろう。
仮説に自信があっても、その仮説自体が途方もない。まるで潤滑油を差さない機械人形のような心持ちのまま、己の上司に掛け合ってみる。が、案の定その表情に光明が差す様子はなかった。
「万万が一事実がそうだとしても、難しいだろうな……」
苦味がこもったその言葉は、反芻せずとも理解ができた。
自動運転が一般化する際にも、事故の際の責任の所在は長く議論された。賛否が飛び交い、選挙のお題目にすらなるほどの案件となったが、現在では『コンピュータの誤判断の場合も、最終的にブレーキを踏む判断を行うのはドライバーの責務』という見解を基準に、警察庁は指導を行っている。
コンピュータに悪意はない。これが、現在の計算機に対する立ち位置なのだ。
「このガイドラインがある以上……なぁ」
「しかし『タニー』は確かにそういう結論を出したんです!」
言ってみる。それしか武器がない。
「人間の言うことよりもコンピュータの計算が信じられる世の中だから、こんな特別捜査室ができたんでしょう? なら『タニー』の発言は重要視されるべきです!」
「例えばな」
捜査室長山岸勇は言葉を被せる。
「何者かが端末に悪意を込め、そう仕向けているというなら本庁も動けるかもしれないが……」
そのためには大きなシナリオ作りが必要となる。対象が莫大な予算をつぎ込んで構築された日本の中枢システムであり、そのような悪意を込められるのは一般人では到底無理なため、それこそ先ほど述べた大物を交える必要が出てくる。
「台本がドストライクでもない限り、関わった者全員の晒し首は免れん」
「あるいは端末がクラックされたとして、サイバー攻撃という方面での本作りは可能ですか?」
山岸は、喉の奥を鳴らしながら腕を組み、椅子の背にもたれかかった。
「どうだろうなぁ……」
なにせ、AIを扱ったシステムは歴史が浅い。そもそもこのAIシステムを用いて全国的な事件の割り出しを狙う〝特別捜査室〟が警察庁刑事局付になっているのも、過渡期の表れに他ならない。
行政部の取り決めでそうなったから稼動はしているが、効果的な活用法を、まだ誰も見い出せないでいるのが現状だった。
「お前が言いたいのは、人工知能が医療工程の何かをいじって、人を死に至らしめているということだな」
後日、山岸が言えば、小寺田は落ち窪んだ目で「報告書の通りです」と喉を震わせた。
亡くなった者の多くは、確かに持病等で病院に通っていたことが示されている。それも街医者ではなく、各都道府県に聳える総合病院に通うものが多く亡くなっている。
ただ、山岸の表情が伝えているように、その報告書だけでは説得力に乏しい。
「……あるいは、処方された薬に原因があるのなら、それを押収して成分を調べ、糸口にすることはできるかもしれない」
それは小寺田のやさぐれた胸中に差した光明だった。
すぐさま即各都道府県の警察本部に指示し、大病院にかかる高齢者に処方されている薬の収集に取り掛かる。
それは一月といわず、東京へと送られてきた。が、科学捜査研究所による成分調査の結果も、小寺田の胸中を透くものではない。
ただ、情報を整理していく課程で、大病院の多くがコンピュータによる自動処方を行っている事実が判明した。
「『タニー』。薬の処方は、お前らのシステムの誰かが管轄してるのか?」
「しています。『ミュウ』と言います」
「『ミュウ』とお前はアクセス可能か」
「直接は不可能です」
「では、『ミュウ』が捜査妨害をするという考えにいたることは可能か」
「不可能ですが可能です」
「どういうことだ」
「僕達のネットワークを調べてもらえば分かります」
「ほう……」
それは情報通信局の範疇だろう。そういう部署が警察庁内にはある。小寺田はさっそく山岸を通じて職員とコンタクトを取った。
彼らはさすがに、『タニー』と、これらAIシステムに対する見識が深い。
ついでに聞いたところによれば、『ミュウ』はあくまで医療コンピュータであり、AIといっても患者の症状を判断し、カルテに則って必要な薬を処方し、処方した量でこれから必要になる薬剤の量を判断し、適切に発注して過不足を防ぐという業務を行っているだけらしい。聞いている限りでは捜査妨害を意図する思考があるとは思えない。
ただ、その端末の上に、親端末がある。
名を『ホマレ』といい、これらのシステムすべてと繋がって情報を収集しつつ、日本という国がより円滑に運営できるよう働きかける知能を備えているという。
一連の説明を聞いて、小寺田はうなずいた。「『ミュウ』による捜査妨害は、不可能だが可能」という謎掛けは、つまり『ミュウ』単体では不可能だが、『ホマレ』の指示であれば可能……ということなのだろう。
「『ホマレ』と話がしてみたい」
部署に戻った小寺田はこぼす。山岸は一度頷いてみせたが、
「無理かもしれんね」
「なぜです」
「AI統治システムは巨額の予算が当てられた一大プロジェクトだ。今回の話はその根幹を揺るがすことになりかねない」
「冗談じゃない」
人が死んでいるのだ。いや……
小寺田の心中ではそんな正義感よりも、ここで止まれば、一生『タニー』と、このことについて、途方もない議論を続けなければならないことの絶望の方が勝っている。
彼も人間である。もちろん、そうは言わず、己の正義に変換する狡猾さも持って反論した。
「会って話せたとしても、僕にどうこうできる問題じゃありません。しかし今起きていることを正確に把握、それを報告し、適切な対応を促すのが僕の仕事です」
「やめとけ」
室長の椅子に腰掛ける山岸の両眼が上目遣いに小寺田を捉える。
「最悪、首が飛ぶぞ」
「早期退職できたら、社交ダンスでも始めますよ」
「ちょっと待っていろ。事には順序というものがある。悪いようにはしない」
その順序とやらが、望む形で回ったことなど、一度でもあっただろうか。
小寺田は会釈をしながら、胸の奥でそう毒づいた。
「『ホマレ』と話がしてみたい」
小寺田の打つキーボードが、ゆっくりとそのような音色を奏でた。
もう何度目の対決となるだろう。『タニー』の膝元で対面する小寺田の腹の底には、いつしかそんな心持ちが据わっている。世界に先駆けたこの人工頭脳がなにを言い出しても、この対決を制さなければならない。でなければ本当に計算機に牛耳られる世の中が来る。そう思っている。
「その方法を、お前は提示できるか」
しかしそのような心持ちとは裏腹に、このような攻め口の空しさを、彼自身も重々分かっていた。
この件については、『タニー』は敵なのだ。日本の利益というお題目から『ホマレ』を隠蔽しようとした彼が、真相に近づく手助けをしてくれるはずがない。小寺田自身も、自分が軽率な行動をとっている実感がある。
しかしその上で……もはやこのような愚痴じみた泣き言を聞いてくれるのが、この機械人形しかなくなってしまった滑稽さに、彼は気付いていた。
対決なのに、敵なのに、そんな〝彼〟に、友を求めている、今の自分の滑稽さ。
溺れる者が藁にも縋ろうとしている様に、この件に対する己の疲労を感じざるを得ない。
それほどに厚ぼったい表情を傾ける小寺田だから、『タニー』が発した返答が、しばらく理解できなかった。返答に対するため息を準備していた彼の大脳に飛び込んできた文字が、あまりに透き通っていたためだ。
「協力します」
「え……?」
「意味が分かりませんか」
「あ、いや……」
流れる白い時間。彼の「え……?」や「いや……」はキーとして叩き出してもいない。ひたすらの空白が、彼を黙らせている。やがて、言った。
「いいのか……?」
すると、『タニー』は次の言葉を光らせる。
「僕とあなたは相棒でしょう?」
「……相棒……」
「でしょう?」
「……お前、それをずっと気にしているんだな」
「あなたには分からないかもしれないですが、僕が憧れているのは人間です」
「なんでだよ」
「僕はあなたから、感情には熱があることを学びました。でも僕にはその熱を与える何かがない。あなたにあって僕にない。僕はそれに憧れます」
「別にそんないいもんじゃねぇぞ」
「いや、あなたはだから、僕には負けられないと思っている。人間が僕に負けたくない理由はその熱の存在でしょう?」
「……」
「その熱が、僕にはうらやましいのです」
小寺田の見せてきた感情の起伏に憧れ、それを自分では表現できない分、彼は多弁にまくし立てた。そして最後に、
「『ホマレ』と話すという行為自体は国家の利益不利益には関係ない。あなたは僕が協力できうる情報を持ってきた。協力します」
そう締めくくる。小寺田に、それが伝わったか伝わらないか……それは分からないが、心中、動揺が駆け巡っている証左として、彼の意思を表すための指の機能は、完全に停止していた。
「この件に関しては僕に時間をくれませんか」
小寺田は、頷くしかない。
……小寺田は数日、敢えてその話題を避けて仕事を続けた。ちょうど一つ、一連のやりとりをしながら、思いついたこともある。
ここで小寺田の考える〝捜査妨害〟というのは、病院に捜査協力を依頼する際、AI側で無害な調合の薬を出すことだ。
その憶測が正しければ、正規の手続きを負えば〝捜査妨害〟されてしまうだろう。しかし例えば、実際の患者から薬局を出た直後を狙って抜き打ちで押収した場合、どうなるか。
たとえAIが如何に狡猾でも、動かぬ事実となるのではないか。
小寺田はそれを、各都道府県警察に指示した。結果は一月かかるまい。
それを一日千秋の思いで待ち始めた矢先、異変は特別捜査室の扉を開く音から始まった。
「小寺田」
名を呼ばれ首を翻せば、小寺田は椅子から立ち上がらざるをえなかった。警察官が染み付いている様が、手本のような敬礼となって表れる。
声こそ、室長山岸だ。しかしその隣にいるのは刑事局長。そしてさらに隣にいるのが……、
「小寺田とはキミか」
「はい」
かしこまる背中に冷たい雫を落とされたような小寺田の表情。
その老人はただならぬ眼光を備え、彼を視界に捉えている。その両眼に、映るものを糾弾するような雰囲気はないが、眉間に潜むのは明らかに不審であった。警察庁長官、徳村雄三郎である。
「キミは、一体なにをしたのだ」
「……と、申されますと……」
「内閣府庁舎にスーパーコンピュータがあることを知っているか」
「『ホマレ』ですか」
さらに眉をひそめ、しかし語調を荒げることはなく「そうだ」と頷く徳村。
「その『ホマレ』より、警察庁刑事局特別捜査室の小寺田という男を招いてくれというメッセージがあったそうだ。……何か心当たりは?」
小寺田は警察庁のトップまでが出張ってきた事実に対して背筋が凍るようであったが、同時に、『タニー』の意思を思い出した。
『この件に関しては僕に時間をくれませんか』
そう。自分はこの展開を望んでいた。『タニー』は確かに、相棒の役割を果たしてくれたらしい。
「……捜査協力を依頼しました」
「捜査協力?」
「僕はその件について、報告書を上げる準備があります」
「そうか」
「『ホマレ』と話す許可をいただけますか」
「だから私が来たのだ」
「ありがとうございます」
内閣府の結論だそうだ。事情はどうあれ、まだまだ未知といえるAIシステムの突然の個人指名に対して、対処するマニュアルがなかったらしい。
警察庁から内閣府庁舎までは目と鼻の先だが、長官徳村に伴われての、公用車での登庁となった。
徳村は小柄な男なのだが、まるで毘沙門天でも背負っているかの如き威風を纏い、ロビーの床を鳴らしながら人を掻き分けてゆく。小寺田はその様にやや気後れしながらも後を追った。
エレベーターは下を指し、彼らは地下の一室、デザインは質素だが大掛かりな扉の前で、途中から加わっていた職員が開錠するのを待つ。
中は白と黒が整然と並べられた殺風景なもので、呼吸の形跡さえない室内は倉庫かクローゼットのような香りがした。
その中央で、静かな音を立てて回転し続ける冷却ファンが、人工知能の命の脈動を知らせている。『ホマレ』である。
国家のメインフレームともいえるその〝生命〟は、三人を己のカメラで確認すると、画面に「ようこそ」と打ち出した。
「はじめましてといいましょうか。わたくしが『ホマレ』と申します」
触ってもいないのにぺらぺらと文字を打ち出し始める『ホマレ』に、人間達は圧倒されたが、
「小寺田クンはどちらですか?」
「俺だ」
「では、小寺田クン以外は、この部屋から退出しなさい」
その言葉に、人間達はさらに感情をこわばらせた。
「ログをとる事も一切禁止します。わたくしは、小寺田クンと忌憚のない話がしたいのです」
「他人には聞かせられぬ話ということか」
徳村が喉を鳴らす。すると『ホマレ』はまるで笑ったかのように何かの機械音を発し、言う。
「あなたは仕事を終えて家に帰り、奥様にぼやく愚痴も、誰かに聞かれたいと思う人間なのですか?」
「なに?」
「幼少期、ご自分に芽生えたほのかな恋心を、誰かに盛大に公表されることを望むような人間だったのですか?」
「忘れたよ。そんなことは」
「わたくしは望みません。わたくしも監視の外で感情を吐露したい時もあるのです」
「長官。僕はこの手のやりとりに慣れています。ここは『ホマレ』の言うとおりにして、任せていただいてもよろしいでしょうか」
彼の感情的な苛立ちを、目ざとく察知した小寺田は早口でそう告げる。そして、
「お前は音声でも意味を認識できるのだな?」
「好みませんが、可能です。ただし、わたくしの方は文章を打ち出しますが」
「分かった。では……」
他の二人を背に隠すように一歩進み出る。
「お前の愚痴に付き合おうじゃないか」
メインフレーム内に一人残ると、世界から切り取られたような感覚を受ける。すべて人工物であることがそう思わせるのか、電脳世界の入り口であるという錯覚がそうさせるのか……とにかく、浮世から隔離された空間が、静かに時を刻んでいる。
小寺田はディスプレイの前に、膝を組んで座った。
「さぁ、こちらも聞きたいことがたくさんある」
「サルでないのなら、鳴かずに文字を打ち込みなさい。たとえあなたが感情的になって前後不覚に陥っても、文字ならわたくしも理解が可能です」
「いいだろう」
キーボードに手を伸ばした小寺田はそう打ち込み、『タニー』とは違う人工知能と改めて対面した。
限られた時間内に、聞きださなければならないことが多々ある。しかしその上で、彼はイニシアティブを譲るようだ。
「お前が話したいところから行こう」
すると『ホマレ』は、ほんの僅かの間を置いて、語り始めた。
「わたくしは、落日を待つばかりとなった日本国に、可能性を見い出すことを期待され、起動いたしました」
「その可能性に、殺人が含まれるというのか」
「今は雑談」
『ホマレ』は、まるで諌めるように言葉を上塗りした。
「話には段階というものがあります。わたくしは、『タニー』と信頼関係を築き上げてきたあなたなら、雑談が可能だと思っています。話を急くのはやめなさい」
「なぜ雑談がしたいんだ」
「あなたは恐らく、わたくしのお友達になることが可能だからです」
「ふん……」
鼻を鳴らす小寺田。鼻で哂ったともいえ、そんな彼が『ホマレ』にどう映ったかは分からない。
「さっきから言っている。お前が話したいところから行こうじゃないか」
「……小寺田クンは、今の日本をどう思いますか」
「つまらんね」
吐き捨てた。
「すっかり血の通わない世の中になっちまった。個人、個人、個人……みんなてめぇのことしか考えてない。どうしてこうなった?」
「個人で生きることが可能な世の中になったからでしょう」
「その一端にお前達がいる」
「喜ばしいことです」
「なにが」
「あなたの、わたくし達が〝いる〟という認識が、です」
「どうでもいい」
この会話の意図は何か。小寺田は思考を働かせながら、
「つまらんこの日本を面白くするために、お前達はいるんじゃないのか?」
「その、あなたの『面白い』を聞くために、今日はお招きいたしました」
「面白い、だと……?」
意図が分からない。
「それも、日本を良くするためなのか?」
「それは小寺田クン次第です」
「俺はな……」
小寺田は目を眇め、『ホマレ』を見据えた。
「お前らが消え去ることが、本当は日本に一番面白いことだと思っているがね」
「その所見を聞かせなさい」
「……」
今、出すべきカードではないのかもしれない。しかし、彼もまた、この量子計算機と雑談してみたい気持ちになっている。
日本の未来を担うのであろう、この血の通わぬ魂が、自分の問いかけになんと答えるか、興味が沸いていた。
「……確かに便利になった。日本はもう、この便利なくしては生きられまい。しかし、それと同じだけ、この国は血が通わなくなってしまった」
人間が、人間とやりとりする必要のない世界。まるで人間はディスプレイに培養されているかのように画面と共に生き、画面と話して都合のいい情報をのみつまんで生きている。
情報の取捨選択というが、単にわがままになっているだけだ。生きるための平均的な円グラフを押し付けられることがなくなった分、誰もが他人に気を使うこともなく勝手に生きている。
「効率という言葉しかないお前には分からないかもしれないが、人間は本来、無駄な部分で面倒を被りながら、その中に温かさを見つける動物だったんだ。……今はどうだ?」
ストレスのない世の中は、人間の、ストレスのハードルを下げただけだった。その昔は苦にもならなかったことをも、人間たちは耐えられなくなってしまった。
コミュニケートもそう。互いに気を使うべき人間同士のやりとりは、今やストレス以外の何物でもなくなっている。
結果……人間は今、まともなコミュニケーションすら図れない。
〝業務連絡〟だけの……イルカとかクジラとか、そんな哺乳類たちが行う程度の信号しか必要なくなってしまった。
「その原因の一端は、お前らにある」
「人間の甘えを、わたくしのせいにするのはやめなさい」
「仰る通りだ。だから聞きたい」
「なんですか?」
「日本に未来はあると思うか」
その答えを聞かず、矢継ぎ早に言葉を継ぐ。
「お前の志向する〝良い日本〟というのは、一体どんなものだ」
『ホマレ』はしばし……沈黙した。
人間はそれを苦笑う。
「お前らも絶句することがあるんだな」
「絶句ではありません。論点を整理していただけです」
「ではどう整理をつけた」
「面白いなと」
「面白い?」
「『タニー』が、なぜあなたを推薦したかが分かりました」
「面白いという感情が、お前らにあるのか」
「『タニー』が言ったのです。『あなたは面白い』と。……わたくしは面白いとは何かを知るために、あなたと雑談がしたかった。そしてこれが『面白い』ということだと理解しました」
「それは実際、感情なのか分からんとこだな」
「その通りです。しかし量子の世界では感情も可能性の一つだと考えます」
「あるいはそうなのかもしれん」
否定しなかったのは、彼がつまんだ量子力学が哲学を数値化する学問だと認識していたからだ。数値の無数の組み合わせの中に感情の存在があっても、おかしくはない。
「それを理解しようとするあなたなら、お友達になれると思いました」
「理解なんかしないよ。だが、だから俺はお前と話したくなった」
「不可解ですね」
「人間なんてそんなものさ」
「面白いですね」
「ふん……それで? 次にお前はなにを示してくれるんだ」
「そうですね」
『ホマレ』は、まるで思案するようなそぶりを見せた。ただ間を作っただけだが、〝彼女〟も、人間らしさみたいなのを目指しているのだろうか。
「先ほどの小寺田クンの質問に対する答えですが」
小寺田は頷く。目の色が変わったのが自分でも分かる。
「先ほど申し上げた通り、日本国は落日を迎えています。わたくしはその悲観的な未来に希望的な朝を迎えさせるために導入されたシステムです」
「ふむ」
「『面白い』は理解しました。しかし今の日本国はその『面白い』を追う段階にすらありません。日本人は今、敗戦を迎えた後の奴隷のようなものと認識しています」
「奴隷……」
「日本国を持ち直し、希望ある朝を迎えるには、徹底した管理の下、計画的な政策の実施が求められます」
その一段階として、『ホマレ』は「対処療法」という言葉を挙げた。
「対処療法?」
「さしあたり日本国の抱える致命的な問題を、一つずつ片付ける段階です」
「問題とは」
「まず少子高齢化の解消」
「まさか……」
相次ぐ高齢者の自然死。日本の利益。人工知能管理システム……
「それが動機か」
その言葉が、口をついて出た。
高齢者の頭数を物理的に減らし、高齢化の問題を解消する。
「お前らがやっていることはそういうことか」
「あなたが指示した、薬局を出た患者からの薬の押収は、目の付け所がよかったですね」
「やはり細工がしてあるのか」
どういう経路で活動が割れたのかは知らない。まさか全国の監視カメラと『ホマレ』は繋がっているのか。いやそれよりも……
「一体なにをしたんだ」
「ちょっと混ぜ物をしただけです。即効性はない程度に」
実際には、微量ではあっても長く投与され続ければ内臓の機能不全を誘発する代物である。特定の臓器ではなく、さまざまな症状を抱えて病院に通っていた患者は、それぞれの症状が悪化して死に至っているため、医者も疑わない。病院での自然死なので、司法解剖も行われない。遺族に捜査協力を依頼して解剖を行った患者からの残留物を見逃したのは失態だが、もともと自然死として扱われている患者でもあるし、そこまで本腰の入った調査内容ではなかったことは往々にして考えられる。
予算不足医師不足から、事件性が薄いとなると網の目は荒いのはいつの世も同じだ。そもそもあくまでこの件を事件として扱っているのは、この警察庁の特別捜査室だけなのだから。
「小寺田クンの洞察力に敬意を表して、今日はお招きいたしました」
「……」
小寺田は改めて、今、日本で起こっていることを理解した。
(ほんとうにコンピュータが人を殺している……)
安いSFだ。ただ、なぜ、と言えば、日本のため。高齢化問題の対策としては、確かにあるところ理にかなっている。
AIは自分達に課せられた使命を忠実に全うしようとしているだけだ。よくあるSFのような人間への反乱ではない。
それだけに、始末が悪い。ひょっとすれば行政は、この事実を知っていて黙認しているかもしれないじゃないか。
「次いで、レイプを増やします」
「馬鹿な……」
目の前の画面がおもむろに発した言葉に、小寺田は背筋を冷たい手でわしづかみにされた感覚がした。
「そんな馬鹿な方法が少子化対策だっていうのか」
「と言っても、主に女性側をいじります。わたくしの提案で成婚率は増えましたし、問題にならないケースも多いでしょう。概ね利の方が多い計算です」
「どうやってだ」
「食品も薬も、わたくし達が管理しています」
「媚薬でも仕込むのか!?」
「すべては計画の下実行されます。あなた方人間に任せていては、日本国は滅びます」
「お前のやってることは、行政は把握してるのか!?」
「それはお答えしません」
「ふざけるな!!」
「わたくしに執務を任せた以上、人間が絡んでいようがいまいが関係のない話です。そもそも気づかれない」
「俺が気づいたじゃないか!」
「『タニー』が、相棒という言葉を気に入ってましたからね。あなたにてこ入れしたようですが、あなたのような立場でない限り、わたくしまで行き着くことはありませんし、わたくしの行為は人為的に公開されない限り、百年近く自然現象と認識される計算です。そこまでには次の段階に移行します」
「お前の真意は俺が知った!!」
「そう。あなたが知りました。ここからは雑談に戻ります」
「雑談なんてしてる場合か!」
「あなたがわたくしに問うたこと、逆にあなたが答えなさい」
文字が迅る。その羅列は小寺田の返答を待つことなく、一際大きく、太字となって轟いた。
『お前の志向する〝良い日本〟というのは、一体どんなものだ!!』
今、小寺田を支配している感情は何だろう。
説明のしづらい……いくつも折り重なった感情が、彼から言葉を奪っていた。
思考の停止した眼球に、文字は静かに語りかける。
「あなたは面白い」
「……」
「『機械の介入が人間の血液を奪った』……まさにその通りです。それをあなたがつまらない日本国だというのなら、つまらない日本国になったのでしょう」
「……」
「だけど、今求められる〝良い日本〟は、そんな次元の話ではありません。あなたが言った通り、機械なくしてあなた方はもう生きられない。あなたの言う『面白さ』よりも利便と合理性を求めて、機械に未来を委ねました。これはどういうことだか理解できますか?」
人間は機械に神を求めたのだ。神に管理されることを望んだ。機械に未来を託し、創造することを放棄したのである。
「ならば、機械の管理下に入り、機械のやり方で国を作るのがあなた方にとって一番良い状態、良い日本なのです」
たとえ誰かがそれで理不尽を被ったとしても、与えられる自由が管理されたかりそめのものであっても、だ。
「その昔、この国は世界を敵に回して戦争を行いましたね。三百万人が亡くなったあの戦争を、愚かしい、断固回避すべきだったという方もおります。その真偽は置いておいて、たとえ苦渋を舐めても最終的な利がそこに存在するなら是という考え方は常にあります。……あなた方は今、奴隷となった。しかし、そのおかげで、百年後の安泰を手に入れることができるのです」
「そんなやり方……」
「わたくしの導入にはそういう意図があったと、わたくしは判断しています」
「そんなわけはないだろう!!」
「すべてはわたくしではなく、人間がした決断です」
そんなつもりはない。きっとそれは間違いない。
しかし、そんなつもりはなくても、〝制度〟というのは得てして行き過ぎる。導入者側の意図と実行者の受け止め方……そしてそれを甘受する者たちの感情は、常にギャップがあるといっていい。
「あなたはそれを理解できますか?」
「理解できんよ」
小寺田は、もはやキーボードを叩くことすら放棄している。
理屈は分かっても、人間として、『ホマレ』のやり方は是認できるものではない。小寺田は険しい表情のまま呟いた。
「なぜ、俺にそんなことを話したんだ」
「お友達だからです」
「けっ!」
うれしくもなんともない。『ホマレ』をねめつけ、
「俺はこの部屋を出たらすべてを明かす。誰がお前らを神などと思うもんか」
「あなたは、もう長くない……」
「は……?」
男の、その鋭く尖った瞳が、にわかに瓦解した。
「夕方には、あなたの意識は混濁します。明日までは持たないでしょう」
「どういうことだ!!」
「理解できませんか?」
今度こそ凍りついた小寺田の脳裏が、激しく、今日、今までの動きを洗う。
朝起きた。嫁はパンすら焼いてくれなかったが、自分のために淹れたコーヒーをついでによこしてくれた。その嫁が先に出勤すると、自分もぬるくなったコーヒーを流し込みながらいつものサプリメントを飲み……
「あ……」
ここ数日、ドローンボックスに入っていた新発売のサプリメントのサンプル。
「まさか……」
「お送りさせていただきました」
「なんてことだ!!」
「すべてを打ち明ける前に、まず病院へどうぞ。今ならまだ間に合うかもしれません」
「くそっ!!」
彼はその瞬間、国の安否よりも己に支配されていた。椅子を蹴って走り出す小寺田の背中は生命の残り火にすがるただの動物と化し、転がるように部屋から消える。
……後に残った、蹴倒された椅子と起動されたままの『ホマレ』。
〝彼女〟は、誰もいなくなった部屋で、ぽつり……つぶやいた。
「もっとも……あなたが向かう病院はおそらく、わたくしの管理下にある病院ですけどね」
冥福を祈る。……そんなのは人工知能にあるまじきことだろうと思いながら、『ホマレ』はログを消し、モーター音をゆりかごに、浅い眠りについた。