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アイドルがコロナの中でイベントを(18468文字)


     1


 彼女はステージに立つ前、これほどに緊張した表情を見せたことはない。

 それは、初めての大舞台ということもあるだろうが、それ以上に今回のステージを取り巻く環境の異質さに、胆を潰しているのだと思う。

 スタッフ達の誰の顔にも余裕はなかった。このステージがいつ、どのようなうねりに巻き込まれるかを誰もが想像できずにいる。僕も、これほどの胸騒ぎの中で呼吸をしたことは今までなく、沸き立つ不安に圧迫されて耳までが熱い。

 が、舞台袖からほんの少し覗く観客席は、人で溢れている。もう……後戻りはできない。

 その光景に目を奪われて表情を硬くしている彼女の脳裏は、このライブイベントを強行したことによる、たくさんの誹謗中傷と、一通の殺害予告で爛れている。

 僕は、そんな彼女に今からのステージをすべて託さなければならないことが、どうにも心苦しく、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 だけど……頑張ってほしい……。


 今から書くことは、僕と、僕がプロデュースしたアイドル、美咲こよりが、新型コロナウィルスの蔓延する最中、武道館でのライブコンサートを行わざるを得なかった苦悩と経緯だ。

 こんなことを書き連ねても、理解されるとは思ってない。だけど、どこかに書き残さずにはいられない。だって……。

 とにかく、書きたい。知ってほしい。たとえ非難されても。

 ……それにはまず、こよりがどんな子だったか、僕らを取り巻いていた状況がどんなであったかを知ってもらう必要がある。少々お付き合いいただきたい。


 美咲こよりは、僕……内田誠司のプロダクション『シャム猫プロジェクト』からメジャーデビューを果たした元地下アイドルである。

 初めて彼女を見たのは、僕が下北沢のイベントを見に行った時の話だ。

 その日は地下アイドルを集めたライブハウスの対バンイベントがあった。順繰りに何曲か歌っては、次々交代し進行してゆく形式は、個々の出演者が知り合いを少しずつ呼んだとしてもかなりの数の客を呼べるため、ライブハウスが属性の近い集団相手に企画する定番の一つとなっている。

 僕らも、たまにこういうイベントに潜入(?)し、人材を探すことがあり、その時もメインのグループを見るついでに、万華鏡のように交代していく地下アイドルたちを見ていたのだが……。

 開幕からしばらく、平凡な才能がいくつも通り過ぎたせいもあったのだろう。はじめ、こよりがあどけない笑顔でステージに上がった時には、「容姿で勝負の娘か」という印象しか受けなかった。

 しかし、彼女が動き出して二分もたたないうちに、いや……第一声目ですでに、僕は打ちのめされてしまうことになる。まるでその第一声にぶん殴られたかのような衝撃が脳を揺らして、めまいがするほどだった。

(これは……)

 脳に直接流れ込むかのような透き通った声が、背筋にまで響き渡る。僕は思わず、その神懸かった歌声を前にして、無為に騒ぐ観客達に「黙って聞け!」と叫びたくなる気持ちを押さえなければならなくなった。

 紛うことのない宝石の原石である。いや、この時すでに彼女は宝石として艶めいていた。僕が初見で思わず、彼女に夢を語りに行ってしまったほどだ。

 彼女は驚いていた。そりゃまぁ彼女が引っ込むなり控え室のドアを叩きに行ったから無理もないか。

 怪しい者ではないことを伝えるのに一苦労だったけど、そのうち信用してくれたのか、僕が誘ったカフェに同行してくれることとなる。

 彼女にはすでに、他の事務所からも声がかかっているようだった。名を聞けば僕が黙るほどの大手であり、弱小の僕らが喧嘩を売って勝てる相手ではない。

 だけど、その時の僕は退かなかった。

 この娘は本物だ。きっと彼女なら、僕らに夢を見せてくれる。いや、彼女となら共に夢が見られる。

 うちの他の所属タレントには悪いけど、すべてを失っても彼女とタッグが組めるなら、『シャム猫』は生まれ変われるはずだ。……そう思った。

 話を聞いていくと、彼女は迷っているらしい。大手に誘われてはいても、自分の歌声にそれほど自信があるわけではない。やっていけるか不安だと、僕に語った彼女の口ぶりは、確かにおそるおそるだった。

 僕はだから、全身全霊で彼女の素晴らしさを語り連ねる。初見の僕がそれをするのも滑稽だけど、確信を持って彼女の才能に言及した。

 そもそも声というものは授かり物である。どんなに歌唱力に優れていても、歌を聞かせるのは声なのだ。僕は彼女の声の質にすっかり惚れ込んでしまったことと、あのような小さなライブハウスの雑多な喧騒の中では、それを活かしきることはできないことを力説し、必死に彼女を説得した。

 彼女にオファーしている競合相手に勝てる要素はない。僕が武器にできることはただ、多くのアイドルを抱える大手よりも、彼女一人に賭けることができる魂の大きさだけだ。

 それを目いっぱいぶつけるしかない。僕はまだ僕の半分くらいしか生きていないだろう彼女に、土下座をせんばかりの勢いで呼びかけた。

「ウチは大手のように、キミを売り込むこともできないし、将来を約束してあげることもできない。だけど、僕はキミに賭けたい。キミに夢を見たいんだ」

 僕はその時、僕の知っているくどき文句というくどき文句をすべて使い切るほどに頼み込んだ。彼女にどう伝わったかは分からないけど、僕の話をあくび一つせずに聞き入ってくれていることだけが救いだった。



      2


 返答は後日、僕の電話に、彼女の声が届いた時だった。

 彼女はあの日のライブと同じ……澄み切った声で一言、こう言った。

「オファーをお受けいたします」

 その羽毛のようなやわらかい響きに、僕の方がしばらく言葉を失う。

「あ、うん。え、えっと。うん、いいの? うちで」

「はい。決めました」

 落ち着き払った声に僕は救われた。しかし、冷静になるほどに、彼女が本当に冷静かが疑われる。

「スターラビットは大手だよ? どうしてうちなの?」

 言ってしまうなり僕は心で自分の頭を殴りつけた。馬鹿か、余計な一言のおかげで迷ったらどうするんだ。

 だけど、僕は彼女に、それを確かめずにはいられなかった。彼女が何を考えているのかを聞かなければ……ガッカリする彼女であってほしくない。

 しばらく……途切れていた電話口の向こうで、小さな鈴が鳴るような声がした。

「……そういうところです」

「え?」

「大事にしてくれそうだから……わたしのこと」

「……」

 ……僕はこの時、絶対に彼女を「僕の事務所に来たから埋もれてしまった」と言われない売込みをする、という覚悟を決めなければならなかった。


 『シャム猫プロジェクト』は実際、吹けば飛ぶような芸能事務所だ。

 数名のタレントを抱えながら、ほそぼそと営業活動を行うだけの存在であり、彼女の可能性をどれだけ生かせるかといえば、希望的な試算が立てられる状態にはない。

 ただ、スタッフの士気は高く、『シャム猫を盛り立てろ』という気概は、どこのプロダクションと比べても引けはとらない、いや、どこよりも優れている自信があった。

 こよりは数ヵ月後、デビュー曲をリリースする。その際、僕は彼女の広告宣伝に破格を費やした。

 広告宣伝さえ行き渡れば彼女の歌声は多くの耳に届く。耳に届けば必ず心に響く。僕もスタッフもそれを信じたし、そうであれば多額の資金を投入することに躊躇いはなかった。

 こより自身もその活動に大きく加わってくれた。大手に比べればすべてがハンドメイドで、まるで高校生がライブハウスを借りて自分で告知をしているかと思うほどにアナログだ。こより自身も笑っちゃうような時もあったと思う。

 だけど、そのしょっぱい草の根活動を、こよりは嫌な顔せずにこなしてくれた。

 スタッフとの連帯感は否応なく高まり、彼女が加わってからというもの、それこそ高校の文化祭を思わせる甘酸っぱさが事務所全体に広がるようだった。中心で小さく笑っているこよりに魅了され、僕らは一つの大きな輪を形成して回り始めたのである。

 実力も折り紙つきだ。僕らの広報力の限界もあり、デビュー曲から大爆発というわけにはいかなかったが、二曲目、三曲目がリリースされる頃には地下アイドル時代のファンの後押しでエンジンがかかり、あるところからまるで核が分裂するような極端なエネルギーで、急速に彼女の歌声は広まっていった。

 いや、実際エンジンがかかってからは本当に速かった。

 言い方悪いけど、日本人は集団催眠にかかりやすい人種だと思う。この時は、まさしくそういう状態で、こよりの歌はまるでロケットで宇宙に打ち上げられたのではないかという勢いで上昇していく。

 ただ、成長が早すぎた。こよりはプロダクションの規模に不相応な勢いで知名度を増してしまったのだ。膨張に経営がまったく追いつかない。

 小石を両手に包んで運んでいたら、その小石が急に太陽になってしまったようなもので、僕も含め、誰もがその眩さに目を開けていることもできなくなっていったのである。


 早い話が、『シャム猫プロジェクト』は彼女を扱いきれず、多大な機会損失を生み出していった。

 スタッフ達はもちろんみんな残念がったけど、それはうれしい悲鳴でもあって、今が攻め時だという認識だけは誰もが持っていたし、世間の熱を受け止めて世界に打って出ていこうという気概に溢れていた。

 僕も『シャム猫』を生まれ変わらせようと思って、こよりをスカウトしたのだ。その勢いを徒花で終わらせるわけにはいかなかった。

 僕はだから、日本武道館でのライブを企てた。会社としては一足どころか、二三足飛びの巨大プロジェクトとなる。

 誰もがその無茶に息を飲んだし、こよりもしばらく言葉を失っていたが、彼女を今一番効果的に売り出すには、どうしても大きなインパクトがほしかった。

 きっと今、この時に、充分に彼女を押し上げられるかどうかで、その後の彼女の扱われ方が変わってくる。より多くの人の耳に彼女の歌声を届かせるために、ここが勝負どころであり、今であればその賭けに勝利する可能性がある。

 儲けなんてなくていい。今の状況で武道館を押さえたという話題性が、こよりを飛躍させるはず。

 風が吹いているのだ。特大の追い風が。

 その風に乗って、この博打に勝利しよう。この弱小事務所がこよりとこれからも二人三脚でやっていくには、今が勝負時なのだ。

 僕は気圧されているスタッフ達を必死に説得し、納得させ、このプロジェクトを始動させた。 


 しかしいざ動き始めると途方もない。

 当たり前だけど、武道館ライブの準備などというものは一月や二月でできるものではなく、当日の天候や社会情勢、こより本人の体調なんてまったく分かるはずもない頃から着々と準備をし、円滑にイベントが運ぶように手配しなければならない。

 その労力もそうだし、何より経費だ。

 会場のレンタル、機材のレンタル、当日スタッフの雇用に伴う人件費、広告宣伝、各界への根回し、グッズの作成に伴うデザイン決めやそちらにかかる費用。

 数え上げればきりのない雑費も含め、僕自身も一生見ることはないんじゃないだろうかと思われる額が動くビッグプロジェクトなのが、武道館ライブであった。

 僕は融資を募るために奔走し、寝る間も惜しむ生活を送る。こよりも自身のSNS上で必死に宣伝活動を、別のスタッフ達も皆、仕事の枠を越えてその目標へと走り始めた。

 賭けから逸れれば、死であった。『シャム猫プロジェクト』は今、会社の体力をゆうに超えた信用取引で動いている。

 でも、僕にはいわれのない自信もあった。スタッフの士気、こよりのポテンシャル、そして吹き荒れる〝風〟。このご時勢で受けられた融資とスポンサー達の数。

 ……今勝てなければ、五年後も勝てまい。一生、勝つ事はできないと思う。

 大なり小なり、いつかどこかで賭けをしなければ企業というものは生き残れない。僕にとって、僕らにとって、それが今だった。

 その熱が融資先に伝わった、と言えば僕は僕を褒めてもいいだろうか。実際はこよりの、社会現象化した人気にベットされた形で、この奇跡は現実の物となっていく。

 こよりの歌声はますます冴え、スタッフ達もビッグイベントに向けて確かな手ごたえと、やりがいを感じつつ、イベントの成功を信じた。

 ……矢先の、コロナ騒動である。



      3


 僕らは一同、愕然となった。

 新型コロナウィルスと称された未知の病状は中国で発見されるなり、瞬く間に世界に広がっていった。

 感染力が強く、死亡する可能性もある。なにより、有用な対処方法が見つかっていないとなれば、日本国内にも大混乱が巻き起こった。

 誤情報も飛び交い右往左往する国民に対し、政府は外出とイベントの自粛を唱える。その影響は絶大で、日本は瞬く間に停滞を始めた。車のタイヤに釘が刺さったかのように、音を立てながら急激にしぼみ始めたのだ。

 僕らのイベントにもその余波は来て、当然のように興行中止を迫られることとなる。僕らは本気で凍りついた。

 もちろん、準備にかけた時間、労力……そういうものが無駄になってしまうという徒労感もある。しかしそれ以上に、僕らの打ち上げたロケットは、着陸地点である、例えば火星が存在することを前提に飛んでいる。その火星がなくなるということは、僕らは宇宙を彷徨い餓死するしかないことを意味しているのだ。興行の失敗は、会社の倒産と直結していた。

 しかもそれに追い討ちをかける事態を知る。この件について、保険会社は支払いに応じないというのだ。

 僕らは何かの理由で興行が中止になった時も破産しないように、通常「興行中止保険」というものに入る。当然、興行が成り立たない場合はその保険を頼ることになるのだが、保険会社は、今回の件は「興行中止保険」の対象にはならないと言い捨てた。「規定する指定感染症が原因による興行中止」は保険の対象外となる、と……。

 つまり、興行の中止は主催者がすべて、その損害を被ることとなる。

「馬鹿な……」

 スタッフの内の一人、遠藤もその後の言葉が一向に出てこない。僕も同じような顔をしているのだろう。皆、その目の向こうに映っているのは、死刑執行台であった。


 そうなれば、僕らが取れる選択肢は一つ。イベントを予定通り開催する、しかない。

 自粛などできる状態ではなかった。思えば感染力が強くても、世界に蔓延していたとしても、致死率が五十パーセントを超えるエボラ出血熱や、百パーセント助からない狂犬病とは違うのだ。

 もちろんチケットを買ってもらった人にもちゃんと事情を説明し、自粛する人、体調の思わしくない人にはすべて払い戻しを行いながら、何とか開催にこぎつけるしかない。

 僕らはそういう方向で会議を終えたし、こよりもうなずいてくれた。

 スタッフは皆、生き残るために必死の目をしていた。


 先方にもそのように連絡した。

 政府が緊急事態宣言というものを行うと、イベントを強制的に中止にすることができるそうだが、自粛勧告にその力はないらしい。というか、強制的に中止にされた場合、何かの保障をしてくれるんだろうか。「そのまま死ね」ということか。

 僕らはその理不尽の影におびえながら、さらに話を推し進めた。推し進めざるをえなかった。

 が、その決断が、ネット上で破裂する。こよりのツイッターが、大炎上を起こしたのである。

「自分のことしか考えないクズ」だの「ファンを殺す気か」だのというイベントに対する真正面からの抗議から始まり、謂れのない誹謗中傷、出所不明の暴露話、元彼氏の書き込みというフェイクまで現れ、収拾のつかない状況となった。

 自称元彼氏の書き込みなどはこよりに聞けば一瞬で否定される話だが、ファンの一人一人がどう思うかは別だ。彼女が何かをツイートしても、まるでその文字を引き裂くかのように、心無いツイートが埋まってゆく。

「ごめん、こより」

 僕は彼女に謝るしかなかった。彼女も「大丈夫です」と首を振りつつ、長いまつげは悲しげに揺れている。無理もない。少し前まで、彼女が受け取るツイートは励ましばかりだったのだ。それが突然、今を否定され、過去を否定され、人間であることを否定されれば、心中穏やかでいられるはずがない。

 彼女は決して犯罪者ではないのに。……ひたむきで、スタッフ思いで、この興行が中止されれば『シャム猫』がどうなるか分かっているから決して「ライブをやめたい」とは言わない……ただひたすらに優しい娘なのに……。

 それをよくぞここまでこき下ろせるものだ。僕も怒りが抑えきれないが、ツイッターの不特定多数に何を言っても無駄なことはよくわかっている。


 それらの抗議活動はさらにエスカレートした。

 どのように調べるのかは知らないが、彼女はネット上でプライバシーを丸裸にされてゆく。住んでいたアパートも晒され、彼女は夜逃げ同様にアパートを退去せざるを得なくなった。

 アイドルだから。女だからやり玉に挙げるのが楽しい部分もあるのだろうか。まるで彼女が嫌がることに快感を覚えたかのように手を変え品を変え、嫌がらせは続く。警察にも相談したものだが、まるで追いつく気配はなかった。

 そして事務所に送られた一通の封書。……こよりへの殺害予告。

「ライブを強行すれば、貴女様はお亡くなりにならざるをえないのではないでしょうか」

 回りくどいが、間違いなく殺害をほのめかしている文面である。

 当然差出人は不明で、文字もワープロ書きだ。こよりは震える手で僕のところに書面を持ってきて、そのまま唇を噛んで顔を伏せていた。

 僕は言葉にもならない。なんの言葉にもならないまま、その書面をデスクに叩きつけた。

 何だって言うんだ。こいつらも自粛を呼びかける政治家も、所詮一、二ヶ月やそこら足踏みしたって給料が約束されている連中じゃないか。お前らに死刑執行台が目の前にちらついている僕らの何が分かるのか!!

 いや、そんなことより、目の前で唇を噛み締めたままぴくりとも動かないこよりがいたたまれない。何の因果があってこの娘がこれほどに苦しまなければならないのだ。

 練習もサボらない。妥協もしない。ライブのために、ファンのためにどれだけの努力を行っているか。……少しでも軽言を吐いたヤツらすべてを並べて、耳元で叫んでやりたい。

 しかし、事態は殺害予告にまで発展している。僕が今護らなきゃいけないのは、会社か。それともこよりか。

 ……僕は、こよりの肩に手を置いて、声を絞り出した。

「中止にしよう。武道館」

 ふっと……それで軽くなったこよりの顎が上がり、瞳が僕を映す。

 喜びではない、開放でもない。

 ただただ……大きな瞳を丸くして、僕を眼球に吸い込んでいた。

「な。キミを危険にさらすことはできない。残念だけど……」

 小さく開かれた唇はしかし、吐息を吹くような音色で「『シャム猫』は……」とつぶやく。

「しかたないよ。だけどキミの移籍先だけは面倒見るから、心配するな」

 こよりの表情が今度こそ崩れる。両目が潤んで、まぶたを閉じれば涙は目じりから頬を伝い……

 しかし彼女はそれを左手で乱暴に振り払った。その目がかっと再び僕を捉え、

「やります」

「え……?」

「やります。ライブ」

「いや、だけど……」

「わたしは大丈夫です」

「だけど……」

 彼女がその後、どのような形で狙われるか分からない。それに……

 もう一つ、懸念していることがある。

「人は……もう集まらないかもしれない」

 しかし彼女はその言葉を察していたかのように、

「一人でも歌います。だって悔しいじゃないですか。わたしたち、何をしたっていうの?」

「……」

「お願いします。どうせ興行を中止にしてもしなくても同じ額かかるんですよね? それならわたしに歌わせてください!」

「……」

「誰もいなくても……今まで頑張ってきてくれたスタッフのために歌いたいです。内田さんのためにも……」

「……僕のため……」

「武道館で……わたしの歌を聴いてくれませんか……?」

「……」

 最初で、最後になる、僕プロデュースによる、美咲こよりの武道館ライブ。……僕の脳裏に、そういう文言が浮かぶ。

 浮かび……浮かんで…………僕の腹は決まった。

「わかった。やろう」


 それから、僕らはライブの存在を世間にはうやむやにさせたまま、再び突っ走り始めた。

 こよりのツイッターなども一時停止し、公式の更新も止めた。

 もう、誰のためでもない。僕らのために最後まで突っ走る。

 しかしこうなると実際に開催されるかがつかめなくなるようで、それはそれで問い合わせが殺到した。事務所の対応としては一律

「未定となりました。現在確実なことが言えませんので、希望者にはチケットの払い戻しをいたします」

 ということにして話を推し進めていく。申し訳ないが、初めから無観客前提で話を進めるわけにはいかなかった。スポンサーもこよりバッシングを受けて数社が手を引き、さらに状況は厳しい。初めから敗北を見越した開催は、できない。

 あくまで有料興行。ゲリラライブのように、観客はたまたま足を運んでくれたという形で行う。

 そのため当日の警備等も含めて、主だった関係者のみ話を通しながら、できる限り口止めと、アルバイト達にはギリギリまで告知しない姿勢をとったし、とってもらった。

 当社スタッフの士気が、意外に崩れない。彼らからは「やってやるぞ」という気迫すら見え、全員、将来のことよりもイベントの成功に向けて動いている。

 こよりもそんなスタッフ達を見るたびに声をかけ、礼を言って回っていた。

 突如起きたパンデミックに狂わされた人生。……彼らはあるいは、没頭することで気を紛らわしているのかもしれない。僕もそんな彼らを見れば頭が上がらないが、とにかく今は頭を下げる間も惜しんで、当日への根回しをしなければならない状況だった。


 そして当日。

 控え室に入ったこよりは、僕が撮影してきた外の様子を再生して、息を飲んだ。

「お客さんがいる……」

 それも、ちょっと数えられないほどの長蛇の列が……整然と、受付を待っていたのである。

 僕も驚いた。見立て満員には届かなそうだが、それでも予想だにしていなかった人数が、通路を埋めている。

 僕はすぐに指示をして、列になってる人々にマスクを配らせた。

 一応用意した一万五千枚のマスク。非常に難儀したが、マスクのメーカーに直接問い合わせ、紆余曲折ありながらも用意してもらった。

 しかもそのマスクすべてには、黒いマジックが入っている。こよりが「手伝えるものなら」と、一応用意したマスクすべてに、自分のサインをしたのである。

 受け取った人々はみな、そのサイン入りマスクに顔を隠し、受付で消毒を受けて入場を始めた。信じられない光景に見えて、僕はその様をやや呆然と見送るしかない。

 正直、胸をなでおろす気持ちもあった。だけどそれ以上に殺害予告。この中に、こよりを狙う者がいないとは限らないと思えば、安穏としている場合じゃない。

 僕は手荷物検査を徹底させた。男女警備スタッフをかなりの数動員して厳戒態勢をしく。〝殺害予告〟のことは、こちらが大々的に発表していたため、事情を知る彼らは思ったよりも快く協力に応じてくれた。

 助かった。この人数が非協力的だと、ライブ開始時刻に間に合わない。

 しかしそれをクリアしても……何が起こるかは分からない。スタッフの誰もがそう思っていた。



     4


 そして、冒頭に戻る。

 僕らは舞台袖から、暗いステージを眺めていた。

 隣を見れば、こんなに緊張しているこよりを見たこともないもので、どうしてやればその緊張がほぐれるのかが分からない。

 僕は、彼女の肩に手を置いて一言、

「がんばって」

 と言うしかなかった。

 こよりは肩の開いた衣装で僕の手の体温を感じながら振り向き、「はい……」とうなずく。

 小さな身体は、まるで風に晒されて身を縮込ませている冬の花のように冷え切っていて、僕の掌から一瞬で熱を奪ってゆく。

 歌えるのだろうか。僕はこれほどに細い両肩に重責を負わせていることが、罪であるようにさえ感じた。手を肩から離し、背中を押してやることができない。

 今から何が起こる?……どれだけ客の中にアンチが紛れ込んだ?

 総立ちで抗議されたりはしないだろうか。生たまごを投げつけられたりはしないだろうか……。

 警備員だけは徹底的に配置されている。ステージの大道具の影にも潜んでもらっていて、最悪ステージまで上がってこられても対処できる構えとはなっている。しかし……、

「いってきます」

 僕はその声に、一際心臓が高鳴った。

 時間のようだ。彼女は自分の肩に載ったままの手に自分の手を重ね、もう一度、

「落ち着きました。いってきます」

 とつぶやいた。僕の方は向いてない。僕は彼女が今どんな顔をしているかを知りたかったけど、覗き込むようなマネはできなかった。

 そのかわり、ようやく彼女の肩から手を引いて、……何かを言わなければと迷い……、僕は挙句、一番つまらない言葉を吐く。

「……がんばって」

 それしか言えないのか。自分の無能に打ちのめされている僕の元から、小さな妖精はふわりと長い髪をなびかせてステージに飛び出した。

 そして花開いた第一声。あの冷たい身体から発せられた音色は、雪の結晶のように透明な空気となって会場に舞い上がる。

 僕はそれで、これから三時間にわたる、長い戦いの始まりを意識した。


 ステージのスポットライトが白と青を基調とした衣装を照らす。その小さな身体のどこにそんなに空気を溜めるのかと思えるほどの声量が彼女の持ち味の一つで、その圧倒的なエネルギーはステージを中心に、巨大な津波を形成して広がっていった。

 こよりはまったく声を作らない。鼻にも掛けなければ、ちょっと粘ついたような発声も一切しない。

 魂から気道を、ただひたすらにまっすぐ抜けてくるトーンは限りなく深く、はるか水平線まで続く大海を渡る鳥が、大きく翼を広げて往く様を思わせるのだ。衣装が青と白のドレスであるのもそういうことによる。

 その……なんというか、巨大な世界観に引きこまれて自分達のいる世界を変えられてしまうかのような魔性の声質に、会場は一瞬で飲み込まれていった。

 これなんだ。僕も彼女のこの魔力に魅せられて、前後を見失ってスカウトした。

 動画や録音では絶対に味わえない。ただのライブハウスでもゆうに容量オーバーしていた彼女の本気の諧調が、声帯の震えを肌で感じられる距離から大ホールを突き抜けて無限に広がってゆく様……。

 それがあまりに桁違いで、間近で見ている僕も、口を半開きにしたままであることすら、しばらく気づけなかった。

 そう。僕自身が彼女の歌声にのめりこんでしまっていたのである。


「今日は、集まっていただいて、本当にありがとうございます!!」

 こよりはステージの真ん中でぶんと頭を下げた。音がするほどに。

 ……三曲、四曲を歌い上げ、彼女のMCが始まったのだ。

 バンド形式であるため、彼女はドラムやキーボードを叩いていたメンバーの紹介から入る。トークのほうはそんなにうまくはないのだが、素直な性格が口調にそのまま漏れる様子は、決してマイナスイメージを持たれるものではないと思う。

「……皆さんは春といえば何を想像するでしょうか」

 桜の芽吹くこの季節に、彼女はこのライブのための新曲を描き下ろしていた。海の妖精が歌う若草色の恋物語。春めく風がやわらかく、ほのかに触れていくような優しい詞の舞う曲……。

 ピアノの旋律から始まる春に彼女の歌声がシンクロし、先ほどとは違う雰囲気の風がステージに吹き始める頃には、こよりも落ち着いてきたらしい。

 身体のしなやかさが戻ってきている。僕も気がつけば、緊張などどこへ行ってしまったのかというほどにのめりこんでいて、逆にはっとなった。

 矢先だ。

 臭いがした。

「なんの臭いだ?」

 隣のスタッフに言い捨てるなり寒気がして、僕はその原因を求めてもがく。

 煙、火薬?……分からない。とにかく、熱を帯びた臭気が僕の立っていた舞台袖から立ちこめ始めたのだ。

「燃えてます!!」

 誰かが叫ぶ。僕はそれが何かが分かる前に「消火器!」と返していた。

 上がり始める黒い煙。客席が騒ぎ出し、その異変でこよりが気づく。彼女がすっとこちらを振り返った時には、下手の袖に赤い火が見えるほどとなっていた。

「早く消せ!!」

 僕は必死で叫びながら、身体が動かない。指示を出す以外の思考がまったく停止していた。

 何が焼けた。これほどの速度で燃え上がるなど尋常なことではない。

 慌しく動き始める警備員達。歌は止まり、呆然と立ち尽くすこよりの前後を数人の男が通り過ぎる。

 一方で客席側の警備員は客を落ち着かせ、ステージ側に壁を作りつつも、避難させるための動きに出た。さすがの手はずと言わざるを得ないが、僕はその勢いに気を取られ、一番初めに行わなければならないことは何かを見誤っていた。

 燃え上がる炎を中心に人が群がり、消火器の白い薬剤が舞う。それに、誰もが気を取られていたのである。


 悲鳴が舞った。

 僕は、この時ほど自分の心理の稚拙さを悔いたことはない。

 あの火は、この武道館を燃やすことが目的だったのではなかった。そんなこと、分かりきっていなければならなかった。

 この世でもっとも見てはいけない光景を浮かべ、僕の眼球がステージに向く。

 倒れているこよりと、バールを振り上げている警備員が一瞬スナップされ、次の瞬間にはその警備員が大道具裏に潜んでいた別の警備員に、背中から押し倒されている姿が映った。

「こより!!!」

 僕は彼女の元へ駆け寄り抱き上げようとするが、「動かさないで!!」という声がどこからか聞こえ、彼女の肩に手をやることで気を静める。

 頭から血を流してうずくまっているこよりを見て、僕は羽交い絞めにされた警備員の方を向いた。

「何の恨みがあるんだ!!!」

 男は二十代。……いいところ中盤くらいの若者だ。その後数名に取り押さえられ、もがきながら言葉を吐く。

「世直しだ」

「世直しだと!?」

「このご時勢に非常識なことをするからだよ」

「!!!」

「新型肺炎撲滅のために国中が歩調を合わせようっていうのに、てめぇらみたいな非国民が国を悪くしやがる。結局この国が傾いてきたのは、てめぇらみたいな身勝手な奴らがいるせいだろうが!!」

「ステージ燃やして女を殴ることが正しいっていうのか!!」

「みせしめだよ。二度とてめぇらみたいな馬鹿が出てこないようにな」

「なんだと!!」

 僕の血液は一瞬で沸騰し、バールを取り上げて動かなくなるまで殴ってやろうという気が抑えきれなくなった。しかし、その時上がったかすかな響きに仰天する。

「待って……」

「え……?」

 血の沸騰すら一瞬で凍らせる、小さな手……。

 僕の肩に置かれた手が、こよりのものであったことを知れば、僕は殺意どころではなくなった。

「こより!! 大丈夫なのか!?」

 彼女はそれには答えず、マイクを口に近づけて、観客席の方へ向く。

「皆さん、お騒がせいたしました」

 右肩が血で濡れている。頭からの出血だ。しかしこよりは僕が口を開く前に言葉を継ぐ。

「このコンサートを、あくまでやりたいと言ったのはわたしです」

 観客席では、避難が一向に進んではいなかった。原因はもちろん、ステージで起きた惨状に誰しもが目を奪われていたからであり、誰も警備員の指示に従っていない。

 集まっているほとんどは、美咲こよりのファンなのだ。今の凶行の後、客が逆上などしてステージに押し寄せない辺りが日本人の秩序だと思うが、それでもこの状態をこのままにして、避難することはできなかったのが本音だったのだと思われる。

 だから、ほとんどそのままの観客に向けて、こよりは言った。

「だけど分かってほしい。わたしは、わたしに夢を託して、その夢が破れたらすべてを失う数多くのスタッフに支えられているんです。確かに今、世界はコロナウィルスで混乱しています。コンサートを開けば、この中の誰かが感染して、病気の収束に余計な時間がかかってしまうかもしれない。だけど、わたしたちにだって、収束した後の人生というものがあるんです」

 政府はその後、無利子無担保融資を掲げたが、巨大な負債を抱えることには変わりがなく、実際、すでに廃業を余儀なくされている事業も少なくないのが現実だ。

 そもそもが開催自体が奇跡の大型ライブであり、融資は社会現象ともなったこよりの爆発的人気にのみ支えられている。融資を受けることができた挙句に自粛し滑空したとして、一年後二年後同じ奇跡を再現させられる保証はない。それはこより自身も飲み込んでいた。

 所詮は先の保証もない水商売なのだ。地道に積み重ねて成長していく製造業とは違うのである。今、このタイミングで実現した奇跡を逃せば、たとえ金が借りられたって、その負債を取り戻せる目途が立つわけではない。

 そんな僕の袋小路を背負って、こよりの言葉が続く。

「もちろん、そんなのは言い訳でしかないことは分かっています。わたしはきっと、悪者です」

「こより……」

「だけど、悪者にならなければ、自分たちを護ることはできなかったんです……ごめんなさい。こんなところで言っても、日本全体にはぜんぜん届かないかもしれないけど……」

 僕は血を滲ませながら必死に訴えるこよりを、場所も空気もわきまえず抱きしめたくなった。しかし同時に、僕は今彼女の話を止めちゃいけないとも強く思う。

 彼女がこのステージで訴えたかったこと。彼女はすべて言い切る権利があると思うし、僕には、聞き遂げる義務がある。

 奥歯を噛み締めながら、彼女が口をつぐむのを待った。

 だけど、話が終われば、彼女を休ませよう。もう、やめさせなければならない。

「……わたしは、わたしのために本当に一生懸命になってくれるスタッフのみんなや内田プロデューサーが好き。大好きなんです。だから、何にも負けたくなかった」

 世界を覆う新型肺炎にも、人格否定に及んだ誹謗中傷にも、殺害予告にも……彼女はそう言い含め、

「わたしが負けないために、悪者になるために、ここにいる皆さんの応援が必要でした。だから今日、ここに来てくれた皆さんに泣きたいくらい感謝しているし、そんな皆さんにわたしができることは、歌を届けることだけなんです。だから……ライブを続けてもいいですか……?」

「勝手なことばっかり言ってんじゃねぇ!!」

 がんじがらめにされている男が叫んだ。

「悪者とか言って自分を正当化してんじゃねぇよ! 自分達だけは特別だとでも思ってやがるのかよ! てめぇらみたいなのが一つ許されれば潔く生きてる奴らすべてに不公平だろうが! 沈む時は一緒に沈めよ!」

「……」

 〝悪者〟である僕は、そんな男を心底汚い物を見る目で一瞥する。しかし、もうそれだけだ。僕はこの男に向かって「うるさい!」と怒鳴る気もなくしていた。「自分は悪者だった」と彼女が口にした時点で、僕はすべてを理解したのだ。

 僕らは〝悪者〟だった。そして〝悪者〟でいい。その〝悪者〟の想い、誰がわかってくれると言うのだ。

 今日のことは、さまざまな角度からワイドショーで取り沙汰されるだろう。そして多くのコメンテーターが、好き放題議論をするはずだ。

 きっと、僕らに同情的な言葉ばかりではあるまい。この男の肩を暗に持つ者もいるに違いない。でも、もう、そんな議論も勝手にやってくれ。

 だって、こよりはそれほどに押し潰されそうな命題や重圧をすべて背負って、誹謗中傷も全部飲み込んで、僕らスタッフのために、自らが〝悪者〟となってこのステージに立ったのだ。

 彼女の覚悟は、この男の暴挙も含めて織り込み済みだった。僕なんかよりもずっとずっと深い覚悟で、このステージに臨んでいたのだ。僕がいまさら安い議論をしている場合ではない。

「こより、今は病院に行こう」

 もう充分だ。これ以上彼女に負担をかけるわけにはいかない。

「ありがとう。もう本当に、ありがとう」

 僕が感極まっているその向こう側……会場はひたすらに静まり返っている。誰もがこよりのサイン入りのマスクをし、一点……二つの瞳を、ステージに向けて、黙っている。

 こよりは、僕の方には振り向かず、あくまで会場の空へ向けてマイクを傾けた。

「この中の一人でも席に戻ってくれるなら……わたしはその人のために歌います。……お帰りいただく方がいらっしゃるとしても……わたしは、今日集まってくれたすべての皆さんに、張り裂けそうなくらいの感謝をしていることだけは、知っておいてください」

 警備員達は、その裏で男を引っ張っていく。

 意外にも奴はそれに対してじたばたと抵抗はしなかった。その眼光に宿った意思は、「自分はあくまで正しいことをした」という色に輝いていたから、これから傷害罪で立件されても、あくまで戦うのだろう。

 こよりがPAも呼んで、ドラムやキーボード、ギターのメンバーと打ち合わせている。そして、血のにじんだ顔を僕の方へ向けた。

「続けさせてください」

 その表情にはりりしさすら感じられて僕は閉口したが、

「キミが殴られたのは頭だろ。しかもバールだ。すぐに検査をした方がいい」

 しかし、彼女は瞬きもしない。

「……お客さんが来てくれた以上、わたしの声は、来てくれたお客さんのためにあります」

「……」

「わたしは国民感情を裏切ってライブをしました。ここまできてファンのみんなまで裏切ったらわたし……本当の悪者になっちゃう……」

「……」

 僕はステージ向こう……薄暗い観客席を見た。彼らは固唾を呑んだまま、しかし、見る限りほぼすべての客が、席に戻っているではないか。

 それが答えだといわんばかりに、こよりは僕から目を離す。そして、マイクに向かって叫んだ。

「美咲こよりライブ、セカンドステージ。……始めます!!!」

 その声があくまで透き通っていて、僕はその声に押されるようにして、消火された舞台袖へと引っ込まざるをえなかった。警備員達もあわてて散って、元の配置をトレースする。

 歌が再び、会場を満たし始めた。血染めのこよりから発せられるエネルギーはむしろ先ほどよりも強い波となり、耳のあるすべての動物の魂を洗ってゆく。

 僕はその波を身いっぱいに受けながら、ほっとしている部分があった。殴打されたことによる損傷は大したことはなさそうだ。

 後は、第二の刺客の心配を……今度こそ、すべての判断を間違えないこと。……そう自分に言い聞かせて、モニターに釘付けとなる。

 ……しかし、その判断すら間違っていたことを、この時の僕は気づけなかった。

 こよりはその時……あくまで奇跡の上を、歩いていたのだ。



     5


 彼女はライブを駆け抜けた。

 最終曲を歌いきり、ぺこりと頭を下げて舞台袖へと戻ってくる。

 アンコールの声は止まなかったが、僕が顔を出して今回の進行について謝罪し、「こよりを病院に連れて行きたい」と言うと、誰もが納得してくれたようだ。

 ぼくは小走りで会場を抜けて一路控え室へ。そして、半開きのドアを見た。

「こより!!」

 僕は、ドアを開けてそのまま吸い込まれるような倒れ方をしていた彼女へ叫ぶ。そして全身の血液が流れ落ちたかと思うほどに顔を真っ青にして救急車を呼んだ。こよりの元から離れずに叫び散らし、とにかく人を呼び続ける。

 それからは……不覚だけど、僕の方がよく覚えていない。半ばふらつく頭で、とにかく彼女が集中治療室に運ばれるまでの一部始終に叫び続けていた気がする。

 ふと気がついた時は手術室に運ばれたこよりを見送り、立ち尽くしていた。

 脳挫傷から引き起こされた急性硬膜下血腫……僕に説明した医師の表情は極めて険しい。

「なぜ、すぐに連れてこなかったんですか」

「……」

 僕はしばらく声にもならなかったが、ほとんど腹話術のように口も開かず、その後も元気に歌い続けた旨を告げる。医者は吐き捨てるように言った。

「脳挫傷の場合、脳へのダメージ自体は小さくても血管が損傷している場合があるんです。硬膜の中で血がたまり脳を圧迫すると、時間経過と共に急に意識障害に陥ります」

 そして、意識障害が始まると、この症状は進行が早い。極めて深刻な状況である、と呻る。

 とりあえず手術の同意書にサインをすれば、医者は手術室に電話をし、また、僕の方を振り向いた。

「こよりさんのご家族の方にご連絡を」

「そんな……こよりを、生かしてください!!」

「全力は尽くしますが……」

 医者との温度差が伝わってきて息ができない。僕の右腕は、半ば痙攣していた。

 そのまま、おぼつかない足で部屋を出ると、こよりの親へと連絡し、廊下のベンチ椅子に崩れる。

 深い……自責の念。

 何がいけなかったか、などを追求しはじめれば、自分の存在自体がいけなかったのではないかというところまで追い込まれる。僕はそれでも頭を抱えながら、あれこれ思考を巡らさないわけにはいかなかった。

 これは後々、あの犯人の供述から分かったことなのだが、彼は日雇い派遣の社員であり、警備暦は長かった。生真面目で元会社からの信用も高かったようで、今回、たっての希望でこのライブの警備を懇願し、それが通っていたらしい。

 驚いたことには、殺害予告を行った男ではなかった、ということだ。

 殺害予告のニュースは広く知れ渡っていた。それに感化されたのか、実は仲間なのか、それは分からない。ただ、今の日本に根付いている現実が垣間見える気がして寒気がする。

 奴には、恨みのようなものすらなかった気さえもした。

 今の日本に鬱屈とした不満を持ち、その不満の捌け口に出来る存在……こよりが現れた。今のこよりなら……狼藉を働いても支持者を得られる。現に奴は暴行を「世直し」と称していたし、そういう輩を英雄視する向きさえあるのが、ネットでの炎上というものだ。

 奴はそれに乗せられて、自身の狂気を吐き出した……。

 分からない。分からないが、僕は絶対に奴を正義とは認めたくなかったから、自然、そういう発想に至っていた。

 出火に使ったのはエナジードリンクなどに使われる小さなビンにガソリンをいれ会場に持ち込み、舞台袖の可燃物にかけて火をつけたそうだ。そして凶器は、リハの際に周到に死角を探し、大道具を固定するために使ったバールを忍ばせた。

 袖は暗く、しかもリハの時間など、すべてがバタついている。僕らに警備員を不審者と疑う余裕はなく、また警備会社のほうもあくまで警備の対象は観客だったし、職場での信頼の高い彼は、なおさらノーマークだっただろう。

 しかも、舞台近くの警備員というものは最低限を除いて、観客からは見えないように配置される。配置されている場所それぞれが隠れ場所ともいえる状態であり、彼が火をつけるまでのほんの十秒ほどを誰もが見落としたことは、やむをえないことだったのかもしれない。


 だけど、その時の僕はあの加害者のことよりも、ライブ開催を巡る葛藤に、思考の力点が置かれていた。

 僕が……こよりをあそこまで追い込んでしまったことには違いない。体力のある大手事務所ならもっとすべてに余裕を持たせることができただろうし、きっと一足飛びな売り方もされなかっただろう。

 僕に見い出されたばかりに……こよりは謂れのない誹謗中傷を受け、命の危険に晒されてしまった。

 そう思うほどに、事務所の無力と、僕自身の無能を悔いなければならなかった。

 日本人は集団催眠にかかりやすい。その力が明治維新をもたらし、戦後復興をあんなにも早く成し遂げた。こよりを一瞬でアイドルにしたのも、一瞬で悪者にしたのも、すべてはこの、日本人の気質によるものだ。僕はすっかり、その掌で踊らされていた。

 僕は頭を抱え、心なしか薄ら寒い風が吹いている廊下で身を縮める。

 それで呼吸が胃の腑まで届くようになれば、僕の思考はさらに事の奥底まで墜ちていった。

 しかし、〝底〟に到達した時、僕を待っていた思考は、僕を打ちのめすものとはちょっと違っていることに気がつく。

(僕らは本当に、そんなに悪かったのだろうか……)

 僕は、すべての喧騒が消え去った空間で、今回のことを振り返っていた。

(本当にアイドルが一人、バールで殴られて危篤にさせられなければならないほどの悪だったのか……)

 いや、それだけじゃない。数々の誹謗中傷。そんなものを浴びるような謂れは、本当にあったのか。

 ライブは、コロナを見越して意図的に開催されたものではない。自粛を呼びかけられれば、逆にスーパーは買占めに混雑し、コロナがあっても誰かが何かを言い出さなければ、さまざまな場所で人がにぎわう現実。

 この混雑が意図的でないために誹謗中傷の対象とはならないとすれば、僕らはいったいなんなんだ。いい面の皮じゃないか。

(それに……)

 こよりは、自分は悪者だと断じた。そう、確かににわかに湧いたコロナ騒動に対する社会通念からすれば、僕らは外れていたかもしれない。

 でも例えば、インフルエンザは毎年流行する。対処方法が確立されているにもかかわらず、インフルエンザだって人は死ぬ。

 しかし、いくらインフルエンザが流行したとして、今回のようなことはない。

 国内二千万人の感染者を出した二〇〇九年の新型インフルエンザの時ですらそうだった。

 その二の轍を踏むなということかもしれないが、それでもこれほどに締め付けられ、「自粛できない者」の人権が脅かされるのであれば、「感染者による死亡を減らすためなら、健康な者の犠牲はやむをえない」ということとニアイコールではないか。

 日本という国は、より弱者を護り、とばっちりをその隣の弱者が被る事をいとわない。

 僕らは、その被害者だ。そう、被害者なんだ。

(……)

 僕は首を振って、もう一度頭を垂れた。

(どうでもいい……)

 どのような議論がなされても、僕が支持されても、非難されても、もうどうでもいい。

 僕が正しくても、間違っていても、どうでもいい。

 『不謹慎』という言葉の免罪符に勝てる言葉は、今の日本には存在しないのだ。

 僕の頭に、あの加害者の青年の顔が浮かんだ。こよりの、最後まで輝いていた姿が浮かんだ。

 今は……こよりが無事であることを祈る他はない。

 たとえすべてを失っても、彼女が無事であれば……。


 僕は、コロナを呪いながら、いや結局……世界のすべてを呪いながら、刻一刻過ぎる時間に、血管を濁らせていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] これは「読むべき物語」だと思った。 コロナ自粛の影響で観光業・外食産業などが打撃を受けていることは知っている。ただ、その「知っている」は知識の上だけの話で、固定給をもらう者にとって「想像の…
[良い点] 投稿していただいてありがとうございます! まだ、なろうでは見てませんけど、嬉しくて感想書いてしまいました! ありがとうございます!(*´∀`)♪ [一言] また見せていただきますね("…
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