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しまもよう カモメの逝きし 空に見え

とある短編賞で落ちた作品

 夏の雨がドロドロに疲れた大地を洗い、後に立派な虹を置いて帰った。七色のストライプは嘆息するほどに見事で、この世の物に思えない。いや……

 この世の物では……ないのかもしれない。


 真由莉まゆりは今、海の見渡せるこの真夏の青空が、黒々と燃えているのを見ている。

 雲の合間に白い翼が閃いて絡み合い、カッと紅く燃え盛ると、煙を吹いて堕ちてくるのだ。その数はちょっと数えきれない。

 飛行機同士が、戦っているのだ。星と、日の丸。無残に堕ちてくるのは日の丸の付いている飛行機が圧倒的に多く、普段特にナショナリズムが濃いわけでもない彼女を動揺させる。

(この世じゃない……)

 真由莉は唱えて自分を納得させようとした。だって日本は今、令和の年が明けたばかりじゃないか。

 テレビは見ている。新聞は読んでないけど、ニュースも……あまり見てないけど、だけど、日本で戦争が起きているはずがない。それくらいは知っている。

 だいたい、飛行機がやけに古くさくないか。プロペラの付いた戦闘機など、今も存在しているのだろうか。

 その戦いを見守る雨上がりの大地と、七色のしまもよう。

 ……いくらなんでも、無茶な光景だった。


 今年、真由莉は結婚する。

 夫となる隆利たかとしが薩摩隼人で、挨拶も兼ねて夏の休暇を彼の実家で過ごすことにし、真由莉は生まれて初めて本州を出た。

 鹿児島市街を抜け、九州の南端である海沿いを東へ……。肝付まで出て国道から一本入ってしまえば、南国めいた静かな風景が広がっている。

 そこにはやや癖のある、暖かい家族が住んでいた。

 始め緊張した面持ちだった真由莉も、少し強引な親切に囲まれて、ちょっと窮屈そうに輪の中に入っていく。不器用だけど暖かい……そんな一日目をすごして、障子の白と畳の匂いに包まれて眠りについた。

 そこまではいい。

 緩やかな時間の流れる素敵な夢を見ていた真由莉は、突如その頬に、焼け爛れるかと思うほどの熱を感じて飛び起きた。

「どうした?」

 隣で眠る隆利も婚約者の短い悲鳴に驚いてみせる。上半身だけ起こして、タオルケットを跳ね飛ばして頬を押さえている彼女ににじり寄った。

「ムカデでもいた?」

「今……すごい熱い何かが飛んでこなかった!?」

「熱い何か……?」

 夫のその眠たい反応に、真由莉は頬を覆っていた手を離し、何か虫でもついてないか確かめてみる。

 そこで初めて気がついた。

 真由莉は、なぜだか分からないが大粒の涙をこぼしていたのである。


 翌日はにわかに大雨が降った。

 長く降り続けるものではなく、速くて分厚い雲が、隙間もないほどに大量の水をぶちまけて、そのまま去っていった。

 八月だ。ゲリラ豪雨という奴が起こることも、通り過ぎた後は嘘のように青空が覗くことも珍しいことではない。

「ちょっと散歩しようか」

 隆利の提案で外を歩くことになった。しとどに濡れた草木がキラキラ輝いて美しいが、それ以上に空気は水分を帯びてむせ返っている。真由莉は軽い呼吸困難を覚え、空気を求めて空を見上げた。

 海へと下ってゆく細い道。防風林を経て砂浜へ向かう道すがら。

 視界には人家も車もなく、自然のままの風景が残されている。そんな一大パノラマに虹のかかる風光に包まれて、胸が透く。……はずなのに。

 上空では、数え切れないほどの航空機が、互いを殺しあっているのだ。真由莉の目は言葉を失い、空を見入ってしまって動けない。

 しかしそれ以上に奇怪な文言を、隆利は吐いた。

「何か見えるの?」

「え!? 隆利君には見えないの!? 飛行機だよ飛行機!」

「飛行機?」

「すごいいっぱい」

「え、どこ?」

 どこと聞かれる時点でおかしい。空いっぱいにレシプロ機が舞い、硝煙を撒き散らして戦っている。扇風機が暴走しているような乱暴なエンジン音が絡み合って、美しいはずの虹をどす黒く汚しているじゃないか。

「真由莉?」

 隆利が呼ぶ声も聞かず、真由莉は何かを探している。

 ……探している……?

 ふと我に返る彼女。これが夢だとして、自分は一体この夢に何を探す必要がある。

 しかし探した。無数に飛び交う鋼の翼から、何かを。何かを。

 そのうち、彼女の視線は虹へと移った。

 見事な虹だ。これ程鮮やかに咲く虹を見る機会もなかなかない。七色の橋はまるで本当にそこに存在しているように……"戦場"を照らしている。

 彼女はしかし、虹それ自体よりも、虹の持つ色の移り変わり……しまもようが気になった。

(違う)

 自分が求めた、あの日のしまもようは、これじゃない。

「ねぇ」

 真由莉はそこで、初めて隣で怪訝な表情を浮かべている夫を見た。

「わたしの探したしまもようは、どこ?」

「え?」

「あのしまもようは……なんだろう……」

 空に揺れていた。でも、虹ではない。自分はそれを目印に走った。だけど……

 急に、目の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。

「真由莉。大丈夫か? お前」

「……っていうか、わたしはどうしてこんなことを考えてるの?」

「……」

 隆利は閉口するしかない。錯乱しているようにも見えるし、何かがのりうつっているようにも見える。

 気味も悪いが、しかし、そのような状態がずっと続くとは思えないから、彼はとにかく笑顔を作って、「海岸の方へ行こう」と誘う。

 虹は、いつの間にか消えている。真由莉も、その場は何もなかったかのようにうなずいて隆利の手を取った。


 しかし、その記憶は真由莉の奥底に、確実に刻み込まれた。

 先ほど隆利はそんな真由莉のことを気味悪がっていたが、真由莉にしてみればこっちの方がよっぽど気味が悪い。

 この土地には、怨念のようなものがあるんじゃないか。

 近くに古いお社があった。大自然に囲まれた見慣れぬ土地は、開放的なのに閉鎖されているように見える。もしや、よそ者の自分をエサに、何かが取り憑いたんじゃないだろうか。

 朝起きた時そう思えるほど、自分の布団の枕はまた涙で濡れていた。こんなことって……。

 しかし、言えないし聞けない。住んでいるのはこれから結婚をする夫の、親族なのである。

 まだ、立場も確立していないうちから、「この家、何かおかしくありませんか?」などとは口にできないし、「戦争の幻を見た」みたいにおかしなことも言えない。

 ただ……それ以上に、脳裏から離れないのは、風にたなびくしまもようだ。あれはいったいなんだろう。

 虹ではない。が、虹を見てその"もよう"が連想されたのだから、空に見えるものである気がする。

 必死に、しまもようを求めて走ったという記憶……。あれは……。

「真由莉、どこか調子が悪いの?」

 家に帰っても、たまに呆然と立ち尽くすことのある嫁に声をかける隆利は心配そうだ。

「病院行く? ちょっと遠いけど、車で行けばそんなに時間はかからないよ」

 昔ながらの縁側で、ハタと空を見上げていたようだ。見回しても、ここには隆利の他に人はいない。

 手の届く範囲で今、唯一腹から背中まで信頼のできる隆利に、真由莉は口を開いた。

「しまもよう……」

「しまもよう?」

「なんだか分からない?」

「何の話だ」

「……」

 うまく説明できない。すべてが漠然としている。遠い遠い記憶。

 頭ではなく、眼球だけが覚えているそれが何か分からないことに、真由利は徐々に苛立ちを覚えていく。

「ほら、分かってよ!」

「そういわれてもな。なんだ、どんなしまもようなんだ」

「揺れてるの」

「揺れてる……?」

「空高く、ずっとずっと揺れてるの!」

「旗……?」

「旗……」

 真由莉は自分に聞いてみる。が、その視線はすぐに隆利に戻った。

「しまもようの旗ってある?」

「えぇ?」

 彼は頭の引き出しを開けて、前の方にあった記憶を取り出してみる。

「アメリカの国旗とか、しましまだよ」

「あぁ……」

 確かにしまもようがある。アメリカ独立当事の十三州を表す紅白のしまもよう。

「……違うなぁ」

 彼女の網膜が違うと語りかけ、彼女はそれをそのまま言葉にした。

 隆利は半ば滑稽に思いながらも次を取り出す。

「フランス」

「うーん……」

「ドイツ」

 しまもようの国旗といえばたくさんある。

 ……しかしいずれも、真由莉の気持ちを透明にできる答えはなかった。


 その胸が透き通ったのは、隆利の実家の車で墓へと向かう途中であった。

 世間はお盆である。隆利の実家はお墓の前を色とりどりの花と盆提灯で飾り、そこで酒盛りをするらしい。東京にはない風習だが、迎え盆の夕方(十三日)に家族で行われる小さなお祀りのために、二人は先に移動していた。

 海岸線の開けた国道。そこで。

 ある物が目に入った真由莉は思わず助手席から立ち上がろうとして、シートベルトに身体を押さえつけられもがいた。

「どしたの?」

「あれ!」

 道路の向こうの海沿を指差す真由莉の先には、海風の強さを知るための吹き流しが翻っていた。

「あれだ!!」

「吹き流し?」

「そうそうそう!!!」

「吹き流しがどうした」

「昨日言ってたしまもよう!!」

「あぁ……」

 確かに縞が入っている。一色にするよりは目立つからだろう。

「吹き流しがどうしたの?」

「……えっと……」

 どうしたんだろう。真由莉は首をかしげてうつむく。

 記憶が、まるでモールスのように断続的で、一つ切り抜けてもそこでまた立ち止まってしまうのだ。

 あの日……わたしは吹き流しを目印に走った。なぜって、目印になるから。いつもとても高いところでたなびいているから。

 それがなぜって……

「そうだ……」

 そこは……空港だったから。


 しかしその結論は、真由莉に更なる混乱をもたらした。

 生まれてこの方一度も本州を出たことのなかった真由莉なのだ。空港に走る理由もないし、第一空港という場所へ赴いたのは、人生で一度、今回の帰省旅行でしかないはずである。

 一体あの吹き流しは……。

 出るはずのない答えに心を引っ張られながら、墓の掃除をする真由莉。区画が広く、確かにここなら親族がささやかな酒宴を開くこともできそうだ。

 バケツに水を入れ、ひしゃくで墓に水をかけ、垢を落とすように墓石をなでる。炎天下で、石まで熱い。

 「焼け石に水だね」などと言葉を交わしながら、もう一度水を汲みにバケツを手にとって手洗い場へと向かって……ふと、真由莉は足を止めた。

 その視線の先にあるのも墓である。合祀墓であり、どうやら戦殉者、それも特攻へ向かった者が埋葬されているらしい。

 しかし、真由莉に見えたのは墓ではない。その向こうにある、青年兵の顔だった。そして昨日繰り広げられていた空中戦。

 眼球にのみ残る記憶が、とめどなく彼女の眼前に展開し、真由莉は息をつめて顎を上げる。

(今日は何日!?)

 迎え盆、つまり八月十三日だ。真由莉は気が気でなくなった。バケツもそのままに夫の下へと走る。

「隆利君!!」

 そして、彼が何かを言い出す前に、その両腕を握ってすがりついた。

「海軍の基地!!!」

「え?」

「飛行場のある基地! 近くにある!?」

「自衛隊の?」

「違うの! 海軍!!」

「昔の日本の?」

 あるはある。鹿児島には、沖縄方面へ向かう特攻機の基地があった。

 そのうちで海軍に属していたのがどれかも、祖父がよく話していた。

「連れてって!」

「えぇ!?」

「このお供え、ちょっと持ってっていい!?」

 返答を聞きもせず、ラップにくるんだ手製の団子を両手に抱く真由莉。

「お願い!」

 ……隆利は、わけがわからない。


 しかし真由莉の眼球には今、鹿児島が見えていた。

 令和の鹿児島ではない。一九四五年。広島に新型爆弾が落ち、長崎に落ち、なおも戦いの続いていたあの夏の鹿児島である。

 暑かった。あの夏もこのようにむせかえる空気が、空襲に汚れた鹿児島を覆っていた。しかし暑さよりも、空から降ってくる火の塊が、ここを地獄にしていた。

 敵の航空機を見ない日はなかった。誰もこの、業火に巻かれて逃げ惑う日々が終わる、などということを考える余裕もなかった。

 真由莉はその地獄の中を走った。いや……真由莉が走るわけがない。でも、確かに走っていた。

 基地に向けて……空高くに掲げられた、あのしまもようの吹き流しを目印にして……。

 だって……。

 弟は明日、出撃するのだ。

 真由莉には弟などいない。しかし、そんなことはどうでもいい。

 行かなきゃ……自分は今日、この日のために生きてきたのだ、とさえ思った。

「ついたよ」

 隆利が連れてきた場所は現在、自衛隊の基地となっている。

 基地内に入れるはずがないので、門の近くで路肩に寄せ、対向車線の向こうのだだっ広い敷地を指し示す隆利。

 真由莉は転がるように車から降り、対向車線を横切って門の前まで躍り出た。

 彼女の目は、遠くを見据えていた。基地の今の姿ではない。遠く遠く……世紀を越えて、さらに向こうの記憶……。


 名を、文吾という。

 八月十四日に征くことが決まったという知らせを受けたのは、前日だった。

 遺書である。地元に実家があると知っていた彼の上司が、わざわざ届けてくれたものだった。

 特別攻撃と呼ばれたその出撃の意味を知り、出征の固い決意を遺書から読み取った母と姉は、静かに口を閉ざしていたが、やがて姉が口を開く。

「文吾ン好きな握り飯。食わせてやろ」

 食料は絶望的に不足している。しかし、明日この世を去ることを決めた弟だ。握り飯の一つでもこしらえてやってバチは当たるまい。

 二人には去年農家から少しだけ譲ってもらって、万万が一のために絶対に手をつけなかったなけなしの米があった。

 それで握り飯をこさえ、基地まで届けることにした。交通手段などはないから、徒歩となる。距離もあるので体調のおもわしくない母親の方は断念した。

 アルミの弁当箱に小さな握り飯を入れて、タクアン、梅干を添え、布で大事に包んで、姉はもんぺ姿で家を飛び出す。

 基地だから会えるかわからない。だけどきっと会わせてもらおう。明日出征する隊員の姉だと言えば、きっと会わせてくれるはずだ。

 高台からの坂道を小走りに往く。しかしそこで、姉は見た。はるか上空。敵の航空機の翼が閃く様を。

 爆撃機ではない。しかし生身の人間にとって、敵機はどのような種類でも脅威だ。

 彼女の小走りは全速となった。瞳が、焼けてなお火の消えない家屋を、黒焦げになって影と見分けがつかない状況で道端に転がる人の姿を……空襲というものの恐ろしさを知っている。

 なんとしても逃げなければならない。せめて……文吾に握り飯を渡すまでは。

(二度と見ちゃだめだ!)

 彼女はわき目も降らず懸命に走った。振り返ったら足がすくむ。前だけを見て、基地に翻る紅白のしまもようだけを見て。

 走る。走る。息が苦しい。だけど一分でも一秒でも速く。前だけを見て。前だけを見て!

 音が迫ってくる。暴力的なプロペラ音は、いつの頃からか兵隊以外にも容赦がなくなったことを彼女は知っていた。

 音は熱を生み、彼女はそれに飲まれそうになりながら必死でもがく。転げながら、呼吸がはちきれている胸に握り飯を抱いて、なおも走る。

 止まるものか。振り返るものか!!……絶対だ。絶対に!

 全身にちぎれるような熱さを感じながら、彼女はしまもようへと続く焼け野原を駆け続けた。


 そして今……ようやく、基地の目の前にいる。

 真由莉は立ち尽くしている。ラップにくるんだ団子を胸に抱き、基地の入り口の前で、途方にくれている。

「真由莉がこういうところに興味があったって意外だな」

 隣から聞こえてくるのは隆利の声だ。

 真由莉は、一歩、二歩……ゆっくりと前へ進み出る。

「文吾……」

 彼女の眼球から、七十年が消えていた。"ただの"現在いまだ。

「遅かった……」

 思い出した。あの日、自分は、この基地にたどり着けなかった。

 爆風か銃撃か……途中から足の感覚がなくなった。それでも、這って行こうとした。だけど……とうとうたどり着けなかった。

「文吾……」

 震える声で、うつむく真由莉。

「姉ちゃん、来たよ。おっかんと作った握り飯はなくしちゃったけど……」

 胸に抱いていた団子を離して、手の上に乗せたまま……うつむいたままの視界に入れる。

「お団子でよかったら。これも姉ちゃんが作ったんだよ」

「真由莉。もう行こう」

 基地の前で、彼らを見る守衛たちの目がいぶかしげだ。隆利は耐えられない。

 実家の濃い慣習に、少し疲れたんだろうか。東京育ちの真由莉だ。ここに来て、人には言えぬストレスを抱えていたのかもしれない。

「真由莉。今日のお祀りは家で休んでてもいいよ。俺が何とかしとくから。真由……」

 彼女の肩に手をやろうとした彼はその時、反射的に手を引っ込めた。

 真由莉の目の前に、緑色の軍服を着た男が立っている。


「あねじょじゃなかね(姉ちゃんじゃないね)」

 その声に、ふっと顔を上げる真由莉。そして、息を飲む。

「文吾……」

 真由莉よりは背の高い、髪の毛を五厘に刈ってある、年端も行かない青年兵が、彼女を見下ろしている。

 真由莉は必死に首を降った。

「あねじょじゃ。おはんのあねじょじゃ!」

「……」

 文吾は口をつぐみ、涙をこぼして自分を見ている女性を見た。

 姉とはまったく違う。姉はこんなに垢抜けてはいないし、第一、彼女の姿はなんだ。紺色のノースリーブも、ベージュのショートパンツも、皇国でこのような姿が認められるはずがない。

 文吾の表情はとても得心しているようには見えなかったが、しかし真由莉は構わない。

「文吾、出征は……?」

「明日じゃ」

「いっちゃ……」

 彼女は思わず感嘆のため息を漏らした。

 間に合った……と言っていいんだろうか……。真由莉は団子を、少し不器用に差し出す。

「団子じゃ。食もらんね」

 ラップに包まれた団子。文吾の時代はまだラップというものを知らない。目の前の女性の必死さを嘲る性格を持たない彼は、それが物語るなにかを見い出す言葉を探し、口を開いた。

「あねじょは、今どこで生きちょっとや?」

「令和。……七十五年後じゃ」

「え……」

 答えは思いもよらなかった。もちろん呆気にもとられたが、それを馬鹿にはしない。かわりに、クスリと笑ってみせる。

「おいン出撃のおかげかの」

 対して、姉は涙が止まらない。少しうつむいて、でも彼から目を離すまいとまた顔を上げ、ハッキリと言い放った。

「……じゃっど(そうだね)」

 その雰囲気に、"姉"を感じて……文吾は初めて団子の包みに手を伸ばす。

「不思議じゃ……」

 ようやく彼は、気付き始めたのだ。目の前で今、何が起きているのか。

 静かに……目の前の団子を見つめて、また、姉を見た。

「わっぜ美しゅうなっちょぅな、あねじょは」

「いっちゃ。げんね」

 そんな姉の肩に、文吾は手をやった。それは幻のようで、現実のようで……。

 でも、どちらにしても幸運と見るべきなのではないだろうか。出撃の前の日に、七十五年の時を経て、姉が激励しに来たのだ。これがすべて幻だとしても、その幻は確かに奇跡と言って間違いない。

 姉はちょっとそそっかしかった。無鉄砲で、思いついたら衝動で行動する。

 でも、そんな姉だから、こんなところまできたのかもしれない。

 そして、そんな姉が今日来てくれたおかげで、明日の出撃への迷いは消え去った。

 ……七十五年後の、姉の笑顔のために、明日は必ず、突撃を成功させなければならない。

 文吾は一歩足を下げ、立派に……敬礼をした。

「あねじょ、お元気で!」

「あっ!」

 真由莉はそれを引きとめようとして……その気持ちを表に出すまいと奥歯を噛み締める。

 彼はどちらにせよ、今の世には生きていない人なのだ。引きとめる無駄くらい、分かっていた。


「ごめんね、隆利君」

 彼女が不意に謝ったのは次の日だった。真由莉はもう一度彼を散歩に誘い、車も通らないような狭い道を海岸に降りていく途上で、ぺこりと頭を下げる。

「不思議な夢を見ていたの。もう大丈夫だから。隆利君に心配かけないからね」

「これ程心配かけさせておいて、今さらそれをいうか」

 隆利は苦笑いだ。しかし返す刀で訊ねる彼の表情は真剣だった。

「とりあえず、何言っても信じるから説明してくれる?」

「うん……」

 きっと、この記憶は、時が経つほどに忘れていくものなのだろう。彼女は漠然とそう思っていた。だって、今日はもう、八月十四日なのだ。文吾は出撃していった。

 彼女はまた、眼前に広がる、海と空で真っ青の光景を仰ぐ。

 その視線を追い抜いていくように、いくつかの機影が沖縄の海へ向けて飛んでいくのが見えた。

 白い、流れるようなフォルムの航空機はまるで海洋を渡る鳥たちのようだ。南風を受けながら、大きく翼を広げて逝く姿が、まるで自分の、自分ではない記憶さえ連れ去ろうとしている。

 また泣きたくなるが、彼女はそれを必死に堪えた。自分も、もういい加減今の生命に戻ってこなければいけない。

 彼らの逝く空に虹が見える。時を越えて二人を繋いだ七色のしまもよう。虹がなければ吹き流しの記憶が掠めることもなかった。

 それをすべて視界に収めて、真由莉はこの不思議なご縁を何かに残そうと思う。

「ねぇ隆利君。一句詠むよ?」

 俳句など詠んだこともない。それでも詠もうと思った気になったのも、終戦の二日前に亡くなった一人の薩摩おごじょが残した、最後の心かもしれなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「おいン出撃のおかげかの」 この言葉が全て。 自分の命が愛する人の、祖国の命となるのなら賭けてやろうじゃないか。 そういう気持ちが凄くわかる。 もちろん色んな想いがあるんだろうけど、その根…
[良い点] やっぱ、 面白いです。 [一言] 感動、しました。 読みながら何度も、つきん、と胸の奥が痛くなりました ああ、何も言いますまい でも言いたい なんか、誰かに向かって叫びたいです …
2019/12/07 23:36 退会済み
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