時代の孤児
とある短編賞で一次通過
人は動脈から流れる血を見た時、全身が凍りつくような恐怖を覚えるように思える。
惨事だ。これは大変なことが起きた。
自然とそういう認識がなされるのが動脈からの出血であるならば、現場はとにかく大惨事だった。
赤黒い液体に濡れる永田町。いまだ収まらない興奮が、身体に穴の開いた三つの死体を映して入梅前の湿った風を濁している。
暮れなずむ悲劇のステージを遠巻きにする人々と、警察車両、救急車の赤色灯が、今そこで起きた異様な事件を理解できず、いたずらに騒ぎ立てる中……犯人である男は凶器である包丁を地面に投げ、両手を挙げて逮捕されるのを待っていた。
取調室に入っても男は堂々としている。返り血を浴びた手首に手錠を掛けられた瞬間こそ、その初めての感触に冷たいものを感じたようだが、今はハッキリとした意思が男の目からは感じられた。
むしろ、刑事の方が手間取っている。昨今当たり前となっているICチップが、この男には埋め込まれていないのだ。
「それが義務違反であることを知っているか?」
「何をいってやがる」
鼻で笑う男の無精ひげの面からは、〝ギムイハン〟などという縛りなど、嘲笑の対象でしかないという様子が見て取れた。思えば公衆の面前で人を殺すような男なのだ。世間一般の常識を振りかざしたところで、栓もないのだろう。
藤田という刑事はそういう目でこの男を見たから、「おかしいとおもわねぇのか」から噛み付いてきた男の、意外な話題の方向に、多少動揺した。
「国が国民に対してそれを義務にする権利があると思ってんのか」
「……なにがだ?」
「チップの埋め込みだよ。そんなことが悪事として裁かれるってことに、どういういわれがあるのか聞かせてもらおうか」
これは……。藤田の喉下に、苦いものがこみ上げてくる。
(面倒な取調べになりそうだ)
直感した。あるいは長年の経験が藤田の四肢に警告したのかもしれない。『この手の男は面倒だ』と……。
現行犯逮捕であり、犯行に否認の余地はない。供述調書の段階まですんなりいくかと思っていただけに、その直感は藤田を落胆させた。
藤田はテーブルの上で絡めていた両手の指を組みなおし、言う。
「法律で定められた事柄を逸脱すれば裁かれる。それがルールだろう?」
「ふざけんな。法律なんざ誰が決めたんだ」
「子供のようなことをいわれても困るな」
「どこだと聞いてる」
「政府だろう」
「オレの意思は一つも含まれてねぇじゃねぇか」
「……」
「人間としてなにが悪いのか。……聞かせろよ」
「なあ、お前は今日、何の容疑でここにいるか分かっているか?」
問題点のすり替えだ。藤田は場をぴしゃりと諌めた。
「殺しだろ? 分かってるよ」
「そっちの、明らかな犯罪について話そう」
しかし男はなおも噛みつく。
「お前自身が言ったんだろ? チップ埋め込みは義務違反(犯罪)だと。強盗犯が百人殺せば、モノを盗んだ事実は帳消しにでもなるのかい?」
「……」
「金盗むために人を殺したなら盗んだ部分も調書取るんだろ? 埋め込み拒否者が人を殺したんだ。その部分をうやむやにして調書なんか取れんのかい?」
「ここは議論をする場所じゃないんだ」
藤田はイラついた。実は今日は早めに家に帰りたい。なんだってこんな日に限って、こんな面倒な奴が対面しているのだ。
いきり立つ気持ちをしかしこのベテランの刑事は抑えた。小さく息を吐く。
押し問答になって感情的になることは、いたずらに取調べを長引かせるだけとなる。
「……いいか。チップの埋め込みは法律で決まったことだ。法律は国民から選挙で承認された者が制定する。お前は選挙に参加したのか?」
「したよ」
「ならこの法律はお前が作ったものでもあると言えるんじゃないのか」
「馬鹿を言うな」
藤田を睨みつける男の目が政治を語った。
「野党がこう弱くちゃ、民意なんざねぇようなもんだろうよ。勝てると分かってるもんだから偉そうに民意を連呼しやがって」
「するとお前は野党へ?」
「俺は国民全員のチップの埋め込み義務付けなんざ、断固反対だった」
野党も選挙までは声高に反対を示していた。しかし、法が施行され、実際の財政効果を目の当たりにするにつれて、次第にその声は沈静化していった。
「……それはご愁傷様だな」
ご愁傷様は、そんな男を取調べしなければならない自分にも言える。
チップを照らせば一瞬で収集できる個人データを、大昔のようにいちいち聞き出さなければならないのだ。
待ち受ける面倒に眉をひそめる藤田は「とりあえず名前から聞かせてくれないか」と、最近ではすっかり珍しくなった紙の調書をテーブルに広げてみせた。
「名前なんざなくしたよ」
「は?」
「お前ら役人がオレの名前を取り上げたんだろうが」
「……どういうことだ」
藤田はイラつきを噛み殺して男を見据えた。これからどんな言いがかりをつけられるのかと構えるために、眉間に気を集中させる。
男は瞬きすらしない。
「俺は、死んだことになってるんだとよ」
「え?」
「だから、名前なんかねぇ。戒名いただく金もねぇしな」
「死んだことになってる……?」
目の前の、五体一つとして不健康そうなところのない中年の男を見て、藤田の反応は粘土のように、はねかえらずに取調室に転がった。
男は何も答えない。何かを聞かなければ進みそうにない中で、半ば苦しげに言葉の意味を追う。
しかし、現代の利便性に慣れすぎた藤田が、答えにたどり着く気配はない。
ICチップを直接手首の皮膚内に埋め込み、本人確認を行えるようにしようという試みは、もう相当前から実行に移されていたことだ。
埋め込んだチップから氏名、年齢等のデータをやりとりすることで、例えば酒やタバコなどで確実に未成年への販売をシャットアウトできたり、戸籍や運転免許証、パスポートなど、すべての情報を記憶させることによって、気軽に身分証明ができるようになるというシステムである。
キャッシュレスや自動決済にも一役買い、埋め込みさえ行えば、人は財布を持つ必要もないし、品物をレジに通す必要もない。高速道路のETCレーンを通過するように人は足を止めることなく、移動や売買を行うことができる。
高齢者や障害を持つ人へのサービス割引なども自動で行うことができるから、サービスを提供する側や政府の経費は大幅に抑えることができるようになった。
カードとは違い盗難もないし、なりすましもできないため、管理という面では非常に都合がよい。
ただ、プライバシーの問題やデータ改ざんによる犯罪の可能性もあり、義務化については最後まで沸騰した議論となった。
最終的には、『民意を問う』という名目で行われた選挙で勝利した与党の賛成多数で、埋め込みの義務化が議決される。
それでも、しばらくはさまざまな反対意見に気遣って強制力の薄い取り決めとはなっていた。が、段階的に埋め込みチップでしか受けられないサービスを増やし、徐々にそれでなければ生活していけない環境を作り、既成事実化して、あるところで一気に強制するというやりかたを、政府は取ったのであった。
……そんな背景がある。
「初めに、タバコが買えなくなったんだ」
「そうだったな」
取調室は一向に本題に入れない。時計に目を遣らずとも無為に時間が過ぎていることは確かだ。
しかしここで話の腰を折って、へそを曲げることの方が後々の取調べを困難にすると踏んだ藤田は、辛抱強く男の話を聞いている。
「おかしいとはおもわねぇか。政府からのお墨付きがなければ、人間はタバコ一つ買えないのかい?」
「チップを埋め込めば済む話だろう?」
「なんでそんなことまで強制されなきゃならないんだ」
その昔、人は電話を外に持ち歩くことなどなかった。それがあるところでポケベルという形となり、携帯電話という形となり、スマホを持ち歩かなければ非常に不便な世の中となった。時代はいつもそうだ。
勝手に先端技術をデフォルトとし、乗らぬ人間を厄介者とする。特に今回の話は、強制的に人をサイボーグ化するようなものじゃないか。
「サイボーグ化?」
藤田はついふきだしてしまった。そんな大げさな話じゃない。しかし男はニコリともせず、
「任意ならいいよ。やりたい奴が勝手にやればいい。だけどこれは……」
人間の強制的機械化だ。彼は言った。
これではもし「安全上の理由で、政府の意向を国民全体に迅速に伝えるために、国民すべてにアンテナをつけることを義務付ける」ということが決まれば、人間の耳の裏には割り箸のようなアンテナがつくのだろう。学力水準を上げるために脳に記憶装置を埋め込めば国益に繋がるとして、それをすることが当然となる世界もないとはいえない。しかしそんなのはすでに人間ではない。
「大げさだよ。そこまでになるもんか」
「悠長なことを言ってやがる」
「わかった」
藤田はいい加減に雑談を止めた。埒が明かない。
「埋め込みに関しては後で聞いてやる。とりあえずお前がやったことについて聞かせてくれないか」
法律的には今や、そのことだけでこの男のことを立件できるが、今追及すべきはこの男が行った凄惨な殺人である。
時計は十八時三十八分。早く帰るのは諦めた方がいいかもしれないが……。
男はあくまで非協力的だ。
「名前くらい、言うつもりはないか?」
「ないね。お前ら役人がオレの名前を抹消したんだ」
「それは俺とはまったく関係のない役人だろう?」
「名前を抹消した奴がいて、オレが殺しをやって、お前が捕まえて送検するんだろ? 全部繋がってるのに何を言ってやがる」
「すると、抹消された話と、今回の殺しは関係があるということか」
「そうだ」
「……」
結局この話に関わらなければならないらしい。
時計は見ないようにしたい。焦れば余計にこじれるだけだろう。藤田は気がつくとずれていた身体を直すために座りなおし、背筋を正して再び目の前の男に向かった。
「どこから話を聞けばいい?」
「刑事ってな、そんな質問をするのかい?」
「言いたいことがあるんだろう?」
「……」
藤田は、心と裏腹の台詞を口にすべく、奥歯で苦虫を噛み潰した。
「……言ってみろ。長くても聞いてやる」
「お前に言っても無意味なんだよ」
「本当は話したいわりに、もったいぶるんだな」
「む?」
「でなければもっとおとなしく取調べを受けるはずだ」
「……」
「お前にとって、殺し自体は重要じゃない。……そういうことなんだろう?」
「……」
「その殺しにはメッセージがある。そこを伝えるためにあんな公開処刑に及んで、無抵抗に捕まった……違うか?」
「……」
男はじっ……と、刑事を見据えている。藤田は、その目を一身に受け、一つも取りこぼさないように目を見開いて声を発した。
「話したいことから話してみろ」
「けっ」
男は一度眉をひそめたが、まんざらでもないらしい。やや角度のついた視線で刑事を見据え、「タバコはねぇか」と呟いた。
藤田は「今じゃ利益供与と言われてうるさいんだぞ」と言いつつも灰皿を弾く。スーツの内ポケットからよれたソフトボックスを取り出した。
「セッターかい?」
「イヤか?」
「いや、懐かしい」
今や剥奪された権利の一つを受け取った男は、乾いた唇にフィルターを差し込むと、差し出された火に誘われるように顎を突き出して、しばし煙を燻らせた。
「喫煙者も今じゃ軽く犯罪者みたいに言われるよナァ」
この男にとって、世の中というものは窮屈になる一方のようだ。紫煙に話しかけるように中空を向いたまま、言った。
「確かに分かるよ。副流煙でやられる奴は何のいわれもねぇ被害だ。だけど、今まで存在しなかった仕組みを押し付ける国の体質に打ちのめされることは、何のいわれもねぇ被害とはいわないのかね」
「詭弁だ」
「そうかね」
争わない姿勢を見せる男に、藤田はしかし、フォローを入れようと思った。なんとかこの男を軟化させなければならない。
「だが、喫煙者が肩身の狭い思いをしてる部分はわからなくはないよ。俺もヤニを吸うからな」
「そういうことだ。当事者になればとたんに気持ちも分かるものだよ」
しばらくそのまま……空白の時間を煙が埋める。そして、そっぽを向いていた男は言った。
「当事者以外に伝えたくてな……」
「ん?」
「オレは……生きてるんだってことを……」
「なんだ、それは」
「殺しの動機だよ」
「なに?」
藤田は目を瞬かせた。男は続ける。
「オレは死んじゃいねえ。生きてる。人だって殺すことができるんだとな」
「そんなことは殺しなんてしなくても、誰もが見れば分かることだろう?」
「それが通らねぇ世の中になったから、殺したんだろうが」
「通らない……?」
「そしてそれがオレたちの、社会に向けてのメッセージでもある」
「オレ〝たち〟か……」
みたび椅子を座りなおす藤田。座り方が悪いのか、興奮するといつの間にか椅子から滑り落ちそうになっている。
「……話す気はあるのか?」
「お前自身が言ってたろ」
「ん?」
「オレは話すために捕まったんだよ」
本来はお前に向けてじゃないがね……そう付け加えて灰を皿に落とした男の煤けた唇は、一つも笑っていない。
先述したようにチップの埋め込みが義務化され数年……同法律は刑事罰を問えるようになった。
そこからだ。男の家にはまるで彼が犯罪者であるかのような、赤い封筒が届くようになったのは。
「このままお手続きが完了しない場合、行政サービスを受けられなくなるばかりか、刑法上の責任に問われる可能性があります」
男は憤慨した。傲慢もはなはだしい。サービスのお仕着せであるばかりか、なぜそのような暴挙が、こちらの犯罪として問われなければいけないのだ。
一切の無視を決め込むことに決めた男は封筒をゴミ箱に叩き入れた。もちろんそういう行為は実家の親族を心配させたし、友人も「決まったものはしかたないと思う」と、チップを埋め込む際の特徴的な傷を見せながら不理解を示した。
「なんでそんな簡単に順応できるんだ」
彼はそのことに噛み付きもしたが、友人は「うーん」とうなってから、
「例えばBCGの予防接種も強制じゃないか。誰が病気で死んだって余計なお世話かもしれないが、それでも国は結核が蔓延しないように行うわけだ」
今回のことも、システムの効率化を図ってのことなのだ。それで生活が便利になるんならいいじゃないか。
しかし男は釈然としない。
「例えばここから十キロ先のショッピングモールに行くとした時、「お前ら、あそこまでは車が便利だから、免許を取れ」と命令されてるようなもんだぞ。歩いて行くか車で行くかなんざ、個人の自由だろ?」
「うーん」
「車で来なきゃ逮捕と言われたら、納得できんとは思わんか」
「海ほたるに歩いていけないのと同じだと思う」
「海ほたるに行くかどうかの判断はこっちに任されてるだろ」
今回の件は国をすべて海ほたる化するようなものだ。
「うーん」
うなる友人。彼にしてみれば、この男がなぜそれほどに頑ななのかがわからない。
「チップの埋め込みなんて、それこそBCGみたいなもんで、痛くもなんともないよ?」
「痛いからやりたくねぇんじゃねぇよ」
男は口を尖らせながら、しかし自分の価値観は伝わらないような気がしてならなかった。彼が漠然と持つこのわだかまりは、決して理詰めに説明できることではない。
なんというか、人間の尊厳というか……利便性とはまったくかけ離れた、動物としての倫理にかかわることだ。
その部分……例えば宗教上の理由で肉が食えない者に肉食を強制するような……そういう部分で、行政府が刑罰をちらつかせて強制していいものなのか。
「例えば国民の人口減少に歯止めをかけるために、男女は二十五歳までに結婚し、三十五歳までに子供は二人いなければならないって法律ができたとしたらどうだよ?」
荒唐無稽だ。問われた友人に即座に浮かんだ言葉はそれであったが、言って予想される反論を考えるために口をつぐむ。男は、その沈黙に満足し、さらに押した。
「国益にかなう政策だぞ? ある意味健全とも言える」
「だけどそれは無理だと思う」
「なんでこれが無理でチップはオッケーなんだ」
「チップはそれほどのことではない」
「強制することに関しての横暴さは同じだろ」
……しかし、伝わらない。
刑事罰を伴うチップの埋め込み強制化は、男にとって決定的だった。
大きなところで免許の更新ができなくなった。それは運転免許に限らず、各種資格免許にも及んでおり、男は職を失うこととなる。
一応退職金は出たので、いっそのこと海外に出てみようとしたが、パスポートの許可も下りない。帰り際に駅で見た但書を読む限り、改札も手首をかざすようになるという。
次々に外堀を埋められてゆく閉塞感。時代の流れがそれをしていると思えばなんと横暴なことか。
その昔、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が日本を開いた時に存在した根強い抵抗運動の意味が、この男にはわかる。あの時代を生きた者たちの感情も、決して理屈ですべてを片付けられる話ではなかったのだろう。
とにかくこの男は嫌だった。時代の流れは間違ってる。どう間違っているかは説明し切れなくても、彼は確信を込めてそう信じていたし、そんな体制には絶対に組み込まれまいという信念を握り締めて、生きていくことに決めたのだ。
「ふむ……」
腕を組んでいた刑事は、「一度休憩にするか」と言った。
もう、早く帰ることは諦めたほうがいいだろう。
実は今日は藤田自身の誕生日だった。嫁が四十を越えてはじめて生んだ娘が、拙いながらもケーキを作って待ってくれているはずだが、帰るころには起きてはいまい。
時間を気にしないとなれば、胸も据わろうものだ。藤田は、折の悪い〝客〟を視界に入れながら本日二本目のタバコを勧めて、自分自身も手馴れた手つきで白い巻紙に火をつけた。
「刑事さんさぁ」
男は間延びした声で呟く。
「アンタ、万引きしたことはあるかい?」
「刑事の俺にそれを聞くか」
「刑事ったって子供の頃から聖人でもねぇだろ」
「……あるよ、万引きくらい」
「あの、万引きする瞬間の、ドクンって、胃に血が流れ込むような感覚は分かるかい?」
「覚えてないな……」
「フン」
煙を吐き出す男。身体を投げ出すように椅子にもたれかかる。
「あの感覚がスリルだって奴もいるけど……オレはあれが大嫌いでな。ガキのころ、くだらねぇガラクタを盗みはしたが、二度とやるかと心に誓ったよ」
「そうか」
「ところがところが……最近はずっと、あれと同じ血が胃に流れ込んできやがる」
「どういうことだ」
「オレもそれがどういうことかを考えてみたんだが……」
くわえタバコの男はふっと煙を吐き出して、
「ありゃぁきっと、良心の呵責って奴なんだなと思うんだよ。オレは今、ヒトサマに誇れないことをしてるって気持ちが、胃に粘り気のある血を送るんだ」
だからあるいは、犯罪に慣れてしまった者には、あの感覚はないのかもしれない。
その血流が、近頃止まらなくて気持ち悪い。
「なぜ?」
藤田は顎を引き、上目遣いの視線を送った。
「犯罪者にさせられてるからだよ」
「チップを埋め込まないことか?」
「そうだ。どこかの勝手な取り決めで、ちょっと前までなんの後ろめたさもなかった庶民が、今じゃ犯罪者呼ばわりさ」
以前は堂々と生きられたのに、同じように生きているだけで今日は人目をはばかられなければいけない。そんな理不尽があるか。
藤田にはしかし、その感覚がわからない。
「そんなに苦しい思いをするのなら、チップなんて埋め込んでしまえばいいだろう」
「その考え方がおかしいって言ってんだよ。俺は悪いことをしてるのか? チップを埋め込むことなんて確かに一瞬だが、そうしなければ昨日までまっとうに生きてきた人間が普通に生きられなくなる社会に、何の疑問もねぇのがおかしいとは思わないのかい」
「なるほど」
藤田は、時代の孤児となっている男に目を遣った。
彼が言わんとしていることが、藤田にもなんとなく分かってきた気がする。しかしその上で、藤田は言った。
「どこの世界にも人が住みよくするためには秩序が必要なんだ。例えば今よりずっと前、自動車は存在しなかっただろう。だけど、自動車という存在が出来てしまった。なら、自動車がある世界に合った秩序作りが必要になってくる。いつまでも日本人が頭にちょんまげ載せてた頃の常識じゃ話は通らないんだ」
「そうかもしれないな……」
男はその点において、あっさりとうなずいた。
「そうやって時代って奴は迎合していかない奴を排除していくんだよ。大筋のレールに乗らないマイノリティは徹底無視なのが今の世の中だ」
「……」
藤田は黙るしかない。こうやって時代に対してすねている人間には、どのような言葉も無意味であることを知っている。
白い壁の取調室で、男の言葉はまだ続いた。
「それでも、無視だけなら良かったんだよ。まだな」
彼の、一番忌々しい部分のようだ。募る感情の高ぶりが、手元のせわしなさに表れている。
それは銀行からの通達だった。
『重要』と記載された封筒に包まれていた書面に男は目を剥く。
用件は預金口座の凍結である。
「どういうことだ!」
彼は銀行に直行した。仕事もないのだ。平日昼間から身が軽い。
窓口の担当者は事情が飲み込めないようで困惑していたが、上役が奥から出てきて、詳細に触れる。
スーツで長身の男は、慇懃に頭を下げながらも、彼を窓口から遠ざけ、
「当行は反社会組織に所属する方との取引はしないのが方針です」
毅然と言い放った。
「オレのどこが反社会組織なんだ!!」
「失礼ですが、あなた様は手首認証をされてないのですよね?」
手首認証というのはつまりチップの埋め込みのことである。
「当行ではそれを、認証をさせたくない理由があると判断しております」
つまりは後ろめたさがあるから認証ができないのでしょう?……と、表情が語っている。男は胸倉を掴まん勢いで詰め寄った。
「凍結することはないだろう!! せめて全額引き出させろよ!!」
「……あなた様は現在、信用の置けるご本人確認ができません。ご本人様確認のできない方とお取引することはできないのが銀行というものです」
「保険証なら持ってる」
「アナログの証明書は無効になったのはご存知ですよね?」
チップの埋め込み拒否に刑事罰が化せられるようになった際、確かにすべて無効となった。
「しかし本人だということくらい分かるだろ!!」
「正式なご本人確認の取れない方とはお取引をしない。それが、ルールですから」
「オレはここにいる! ここまで主張してもわからねぇのか!?」
「こう言っては元も子もないのですが……現代というのは、ご本人様自身よりも、ご本人様であるというデータの方を信用して取引がされる時代なのです」
「……」
「データが取れなければあなた様はご本人様だと認識されないのですよ。あなた様がどれほどに訴えになられても、です」
「くそっ!」
埒が明かない。そういう気持ちを壁に叩きつければ、スーツの男は無感情に「お力になれず、申し訳ございません」などと頭を下げた。
とにかく何とかしなければならない。
男はその足で役所へと向かった。
いや、実際はどこに訴えればいいのかわからなかったが、思いつく手近なところは役所しかない。
事情を話し、とにかく預金口座の凍結だけは解除できるよう便宜を図ってほしい旨を訴える。
「保険証も免許証も! 紙を使いたい奴は紙を使えばいいじゃないか! 何で強制するんだ!」
黒縁メガネの若い役人もやはり困ったような表情を浮かべ、窓口の外でがなっている男を見上げる。
「今は家庭用の端末機でも容易に精巧なモノが作れてしまうため、かなり前から問題視されていたんですよ」
「だからって政府のやり方は横暴じゃないか!?」
「それは僕たちに言われても……」
そうだろう。しかし個人的な話を聞いてくれるのはきっと役所までだ。
「あのぅ……」
おずおずと、メガネが口を挟む。
「今は手首認証をできない方は厳密には犯罪となります。できる限り早めにご登録することをオススメしますよ……?」
「なぜそれを強制されなければならないんだ!!」
「法が施行されましたから……」
「納得できるかよ!」
「だって、議会で決まっちゃったんだからしかたないでしょう?」
「議会が国のすべてかよ!」
「正等な手続きを踏んだ選挙に当選された方たちによって開かれている議会です」
「一強時代に、民意を問うと言って行われた投票率五十六パーセントの選挙に、どれほどの決定権があるっていうんだよ!」
「法的に成立している選挙だから何の問題もないでしょう?」
「……」
「それが法治国家です」
男はうなった。法律とやらに、なぜ倫理的に無実な人間が追い込まれなければならないのか。
そもそも、あのような重大な取り決めに四十パーセント強の国民が無関心だったことが恐れ入る。つまり、この男はあくまでマイノリティであり、ほとんどの国民は今回のチップ埋め込み法案に抵抗や興味がなかったことになる。
だから目の前のメガネもきょとんとした顔をしているのだ。
しかし、納得できないものは納得できない。なぜ国民はそれを何の抵抗もなく受け入れることができる?
悶々として次の言葉を探す男に、メガネの役人は申し訳なさそうに言った。
「それに、今年度末までに手首認証の登録を行わない場合、あなたは死亡したことになります」
「は……?」
「戸籍も手首認証で一元管理になるんです。それができないということは、つまりあなたは戸籍を失うということに……」
「馬鹿な!!」
実際は戸籍がないからとて死亡扱いにはならない。職員側の失言ではあったが、受けた衝撃はそれに匹敵するものであることに違いはなく、男にとってはその言葉自体に、大きな違和感を感じなかった。
「なんでずっとまっとうに生きてきたオレの戸籍が消されなきゃならないんだ!!」
叫び倒しても、あるのは役人の困惑した表情ばかりだ。
「ですから、お早目の登録をお願いしますとしか……」
「これは、国を相手に訴えることはできる案件だと思うかい?」
「さぁ……」
できるだろう。男は思った。しかし、その決着は容易にはつかないだろうし、長く戦った結果、訴えは退けられてしまう可能性の高さを考えると気が乗らない。その間戸籍が保留されることはないだろうし、第一預金も凍結されているのでは弁護士を雇う金もなかった。
「死んだことになっているというのはそういうことか」
もう六月だ。男にチップが埋め込まれていないのだから、彼はあくまで制度に逆らったのだろう。言う通りなら戸籍も剥奪されているはずだ。
彼の落ち窪んだ目には、慢性的な疲れが見えた。
「国は無視だけじゃねぇ。オレを殺しにかかったんだよ」
「わかった。確かにそれは不憫だと思う。だが、人を殺していい理由にはならんだろう」
もしそれで人が殺されたのなら完全な逆恨みだ。男は自分の信条を曲げたくないが故に人を殺めたことになる。国の横暴を糾弾し続けているが、もしそうだとすれば、喚く本人も劣らず横暴と言えるじゃないか。
藤田は被害者の身元をハンディサイズの照合機で検索した。スマホのようなものだが、もちろん個人所有ではなく、職務の時のみ携帯する代物である。
しかし検索に引っかからない。藤田は眉をひそめ、男のほうを見た。
「被害者たちとの関係は?」
「関係なんか特にないがね。強いて言うなら……」
男は、意外な事を口にした。
「そいつらも死んだ人間だよ」
「え?」
「照合できなかったんだろ?」
「まさか……」
「そう。そいつらも埋め込みの拒否者さ」
「全員か?」
「ああ」
「……どういうことなんだ……」
「そうか。アンタぁ、現場にはいなかったんだな」
「そうだ。説明してくれるか」
「タバコ」
男は久しぶりのタバコが身に染みるのか、それとも白状していくことに対して心を落ち着けているのか、フィルタをうまそうにかじり、一間を置いた。
男の生活はその後、にっちもさっちもいかなくなったため、アパートも引き払って友人の家に身を寄せていた。が、やがて友人もさぞ迷惑だろうと思い至り、二つの県をまたいだ実家に帰ることにした。自転車は鍵を壊して盗み、ほぼ夜通しで走る。
途中、パトカーやpoliceと書いてある原付を見るたびにビクビクして道を変えた。なぜこれ程に惨めな思いをしなければならないのか。
特に夜、『止まれ』の誘導棒を振って二人の警官が物陰から現れた時は、縮み上がっていた心臓が止まるかと思った。
彼らは多くの場合、初めは丁寧な口調である。
「こんばんは。自転車の防犯登録の確認をさせてもらってよろしいですか?」
よろしくない。これは盗難自転車だし、手首の認証もできないのだから。
「……」
「すみません、すぐに済むので、ご協力をお願いします」
「あの……」
彼は凍えていく心を隠すように、大きめの声を上げた。
「またですか?」
「え?」
「さっきと今。今日二回目です。っていうか今月に入ってからもう四回目ですよ?」
「あぁ……」
「いい加減にしてもらえませんか。これはオレのチャリだってどれだけ証明すればいいんですか?」
「まぁ……とりあえずすぐ済むんで」
「拒否します」
「え?」
「任意でしょ? いい加減にしてください」
言いながら、ロケット発進できる体勢を作る。威圧していないという意思表示か、彼らは多く、明らかに疑わしいと思わない限り真正面に立たないので、正面は空いている。
斜めからカゴに手をやる警官に対して、
「ちょっと、カゴを曲げないでもらえます? いいんですか? 警察ってそこまでやって」
すると警官は言葉に乗せられて反射的に手を離した。それを見計らって地面を蹴り、強くペダルを漕ぎ出す。
彼ら二人は手を伸ばしたが、寸でのところで自転車はもみ合いから離れていった。
実家では「うつ病を患った」と言い、部屋に引きこもった。
本当に犯罪者になった気分だ。そう思うと、部屋に篭もることは潜伏のように思えたし、チャイム一つ鳴るたびに寒気がした。
意地を張らなければ……ただ意地を張らなければこんな圧迫感からは開放される。自分が行っていることは、独り相撲に過ぎないと思うとひたすらに空しい。
なんというか、自分の精神など、国家のシステムの前では塵芥のようであることへの絶望感が彼を無気力にさせた。所詮何か大きな力に生かされているだけのように思うと、その都度腹が立ったし、そんな状況で圧迫から逃れても、暮らしていきたい未来がない。
だいたい、人間というものは国家に認められなければ生きてはいけないものなのか。認められずとも生命という者は存在するのに。
そのように自分を鑑みる彼は、これまでこんなことは考えたこともなかった。当事者にならなければ分からない。いじめられっこの気持ちがいじめっこには分からないように、自分がどんなに圧迫されているかは、余人には伝わるまい。
(いや……)
伝えたい。なぜ自分が犯罪者に仕立て上げられなければならないのか。生きたまま殺されなければならないのか。
……そう思い至った時、彼は自室にパソコンを用意し、インターネットを通じて仲間を探すようになった。
(きっとオレだけではないはずだ)
機械化されて何の温かみもなく一元管理されることをよしとしない人種……。頑なに埋め込みを拒んでいる者たちが、まったくゼロとは思われない。
SNSを探るが、表面的には埋め込み拒否は犯罪行為だ。わざわざ己の首を絞めることを喧伝している者はいない。
が、匿名掲示板を探っていくうちに、一定の隠語を駆使して話している者たちに目が止まった。それらを理解するには少々の時間はかかったものの、ニュアンスに共感できるところが多かったために、それと確信する。
彼らもそれぞれに理不尽を感じ、今の自分への扱いへの不当を訴えていたのだ。
男は、少しだけ救われた気になった。自分は決して異端ではない。同じ考えを持つ者たちがこんなにも存在しているじゃないか。
彼は顔も見えぬ同志たちの憤怒に支えられ、しかし心が満たされていくにつれ、次の欲求が巻き起こってゆく。
(伝えなければ駄目だ……)
自分たちの正しさを。自分たちは不当を被っていることを。……分からぬ者たちに分からせなければならない。
徐々にそういう覚悟が固まっていったある時、彼は皆に提案した。
『抗議をしにいかないか』
掲示板への書き込みである。音にはならない五十音の叫びが、他の者を驚かせた。
『抗議?』『どこへ?』
さまざまな返信が飛び交う中、男は静かにキーボードを叩く。
『国会議事堂前なんてどうだい?』
『デモ行進でもするん?』
『おおっぴらには人を集められないから、デモをするほどの人数にはならねぇだろ』
『追っ払われるだけじゃね?』『それどころか捕まっちゃうんじゃない?』
『なに、オレに考えがある』
『でも、少しおっかねーぞ』『リスク高すぎ』
『わかってる。だから本気の奴だけ集まろうや。生半可な気持ちじゃどうせ押し流されて終わりだよ』
迷いなく、自分の考えに信念を持って、一歩も引かない構えを見せられる奴。
『機動隊が出張ってきたとしても戦争できるような気持ちのある奴だけで行こう。なに、人数なんて少なくても大丈夫さ』
その後、掲示板はいつもにはない、静かで硬い雰囲気に包まれていた。
〝志願者〟は数県にまたがっていたが、実行の日はその内二名が車を出した。無免許ではあるが、これから主張する信念の大きさの前ではそのようなことは、瑣末である。
男は実行の日までに周到な準備を済ませ、首都へと向かった。
男も含めて四人。……そこまで学のある者たちではない。本当はどのようにしたら最善なのか、わからない。
それぞれに追い詰められたような表情を浮かべながら、しかし、アスファルトを踏んだその足は確かな意思を宿している。
彼らはビルの隙間に身を寄せて、それぞれに顔を見合わせた。
「今日は集まってくれてありがとう」
男と同世代の者もいれば、だいぶ若い者もいる。内気そうで、瞳の奥にある光は重暗いが、覚悟の決まった据わった表情は、頼もしくも思えた。
「みんなの名前を聞いておこうか」
「名前なんかなくしたよ」
「オレたちはそれを取り戻しに行くんだろ? 名乗る名前くらい持っておこう」
「……ナオト」
そして初めに呟いたのが、先ほどの青年である。
「へぇ、偶然だな」
男の名も、直人であった。
「で、どうする。議会の傍聴でも申し出て、その中で騒ぐの?」
別の男は言った。が、直人は首を振る。
「それじゃきっと何も伝わるまいよ」
社会が、自分たちの行動を大きく取り上げなければならない。カゴの中では一瞬で取り押さえられて終わりだろう。
「正門の前でいい。そこで、きっと俺たちの存在を伝えてやるさ」
具体的な内容は一切示していない。しかし発案者の男の統率力を、誰もが信じることにしているようだった。
どちらにしても自分たちの望むゴールは、針の穴のように小さく頼りない隙間にしかないのだ。自分たちの道が開けることがあるのなら、彼のリーダーシップに従ってとことん戦ってみたい。
そのような目で、彼らは男を見ている。
四人は議事堂前の門前で特徴的な西洋建築を見上げた。
見慣れぬ国家の最高権力の象徴に気後れしてしまう。一見物々しい警備はないように見えるが、実際には衛視とよばれる警備の者たちが邸内に多数控えており、有事に備えている。力で何かを主張しようとしても、庶民ではどうにもならない防御力が、ここにはある。
直人はしかし、改めて感謝をした。ここまでたどり着けたのはとりもなおさず、勇気をくれたこの三人だ。自分ひとりではきっと、本心をひしゃげられたまま自宅の隅で膝を抱えていただけだろう。
彼らへの恩に報いるためにも、自分は今から最後まで、……この闘いが終わるまで、胸を張って毅然とした行動をし続けなければならない。
直人はボストンバッグから拡声器を取り出して、門の前へと近づいた。三人もそれについてくる。門前を見張る衛視の目があからさまに不審を示し呼び止めた。
「なんだキミたちは」
しかし次の瞬間、腕に旭日章のついたワイシャツの男は顔を引きつらせた。喉下に、包丁が突きつけられたのだ。
「テロだぜ。爆弾も持ってる。仲間呼びな」
包丁で彼を追いやると、程なく四人の周りはジュラルミン製の盾を持った集団で埋め尽くされる。騒ぎを聞きつけたプレスたちも周りに集まってきた。
圧倒的な多勢無勢だが、しかし安全の確保が最優先の彼ら警察は、すぐには突入しない。
「包丁を捨てなさい」
まず遠巻きにして警告をした。それから徐々に包囲を狭め、得物を回収すれば一気に身柄を確保する。そういう方針でいる。
〝バクダン〟という不確定要素があるものの、基本的には確保の線で考えていた。
なににしてもまだ遠巻きだ。男たちには微々たる間だが、時が与えられている。
直人は包丁を突きつけ、睨みを利かせたまま、拡声器で叫んだ。
「オレたちは手首認証を拒み、社会から抹殺された者だ!」
それで衛視たちの動きが止まる。直感的に面倒な問題と捉えたのだろう。その間隙に拡声器は鳴り響いた。
「なぜ、オレたちが自分自身のデータに踊らされ、振り回されて生きなければならないのか! なぜ、機械を埋め込まれてまで国に管理されなければならないのか!」
周囲には野次馬たちも集まり、まるで魂を吸い取るかのようにたくさんの携帯カメラを向けている。
それでよかった。
今は、とにかく目立たなければならない。主張を理論立て、自分たちは精神に異常をきたしているわけではないことを知らせながら、伝えるべきことを伝えなければならない。
時間はない。周りを囲んでいる衛視たちの目は輝いて見える。号令を気にせず飛び込んでいいと言われたら、今すぐにでも飛び込んできそうな若い目がちらほらと、挑戦的に光っているのだ。
端的に、やることを済ませなければならない。
「オレたちは決して登録された数字や文字で生きてるんじゃない! オレたちは心臓で! 血で! ……命で生きてるんだ!!」
その声が響き終えた頃、周囲で今の言葉を聞いていたはずの耳が、すべて閉ざされたかのように凍りついた。
……男が一人。悲鳴を上げて血を噴き出しながら倒れたのである。
包丁による、頚動脈をかっさらった一撃だった。
直人はこの日のために、その場所を正確に定めるための訓練を行っていた。
ちらちらと同志である〝ターゲット〟を窺い、決して仕損じない場所を確保して、拡声器を怒鳴らせていたのだ。
一瞬の時間停止は、次に大きな動揺となって周囲を取り巻いた。人が激しく揺れ動く。とにかく悲鳴を上げる野次馬や、後ずさる者、「救急車!」と叫ぶ記者、ガチャガチャと音を立てるジュラルミン製の盾……混乱の風が吹き荒れる喧騒の中で、救出に当たろうと進み出た衛視があった時、鋭い怒号が叩きつけられる。
「近寄んな!! 他の奴も死ぬぞ!!」
直人が包丁を一閃すれば、先ほど付着した血が周囲に飛び散った。間もなく動かなくなった〝同志〟に包丁を突きつけて彼は叫ぶ。
「いいかお前ら!! これが本当の死だ!!」
彼はさらに声を励まし、議事堂の中から姿を見せない者たちに向けて拡声器を鳴らす。
「お前らの傲慢が、死の意味を勝手に捻じ曲げてデータ化し、オレたちを殺した!!」
「ちょ! ちょっとまてよ! 俺聞いてねーよ!! こんなこと……」
ようやく目の前で起きたことを理解して、及び腰になった〝同志〟が喚きだした。
ちらりと外周に目を遣り、転がるように走り出そうとする。が、踏み出した足の先には、別の刃物が待っていた。
「うぁ!!!!」
走り出そうとした勢いと、突きつけられた勢いで、刃渡りの長いナイフが心臓へとめり込む。それを引き抜かれたほんの刹那の後に、いくつか浅い呼吸を繰り返した男は、仰向けに倒れて動かなくなった。
「本当の死をもって抗議する。アンタも同じことを考えてたんスね……」
サバイバルナイフを持った青年が、冷たい目を、直人に向けている。
「キミも同じ事を……」
「さぁ?」
〝同じことを〟と言っておきながら、ナオトは首をかしげた。
「この先のシナリオ次第っスよ。同じかどうかは」
「ふむ……」
「この先は……どう考えていらっしゃるんスか?」
男は、答えるかどうかを迷った。しかしやがてうなずく。
彼らは敵ではない。同じ理想を追うための〝仲間〟であった。犠牲になった二人のためにも、説明責任はあるだろう。
「オレは裁判を闘うよ」
「え?」
「本当はキミら三人を殺すつもりだった。議事堂の前で三人殺して裁判に臨む。きっとその法廷は注目される。三人も殺せば死刑もありうるだろうが、必ず最高裁までもつれ込ませてやる」
そして主張するのだ。人を殺したのはどっちかと。社会へと投げかける。
彼らの〝本当の死〟を無駄にしないためにも、データに踊らされてかりそめの死を作り出した社会と徹底的に争い貫く。
「そうですか」
青年は無感動だった。その無感動が気になって、直人は聞く。
「キミは違うのかよ」
「ジブンは今ここで死にます」
「え……?」
「ジブンらの主張のために、この二人は犠牲になってくれたんだ。僕だけが生き残るわけにはいかないっス」
問題提起はした。だがどうせ望む結果は訪れまい。あとは社会が勝手に考えればいい。青年ははじめから、時代の贄となるために、この場に訪れたのであった。
「アンタは闘ってください。何にも変わんないかもしれないけど」
「ああ……」
何も変わらないかもしれない。直人は、目の前で心臓を貫いて、それを抜きざまに、なお頚動脈を掻き斬ったナオトの見事な死に様を見下ろして、しかしそれに勇気を得て、ありったけの声を上げた。
「さぁ捕まえろよ!! 今からがテメェらとの闘いだ!!」
彼は包丁を投げ捨てて、両手を挙げる。
……それは今から始まる長い闘いへ向けた、大いなる決意であった。
「共感できないよ。俺は」
長い長い沈黙の後、吐き出された藤田の声が取調室に煙るタバコの香りに混ざる。
「他にも方法はあったはずだ」
「提示してみな?」
直人は間髪をいれずにそう答えた。
それでまた……部屋には天使が通ったようになる。
「……みんな言うんだよ。「他にも方法はあるぞ」ってな。だけど、誰も具体的なことは言えねぇ。言ったとしても、ネズミ一匹追っ払えねぇような眠たい方法ばっかりだ」
所詮現場に渦を巻く感情の機微など、当事者にしか分からない。分からない者が吐く正論など、多くの場合当事者の感情を汲んでなんかはいないのだ。
「思いつかねぇよ。オレたちは馬鹿だからな」
「……」
……長く続いた取調べ。互いに疲れて言葉もポツリポツリとまばらに散らかっていく。
「それでも……俺は共感できない」
藤田は一度だけ、娘が、……彼らの言う〝機械化〟を、物心つく前から施されている娘が作った誕生日ケーキを思い浮かべながら、時代に取り残された男の顔を見た。
「だけど……ずっと話してて、熱意だけはよく分かった。直人さん、アンタの主張が、ちょっとは世間に響くことを心の中で祈っておくよ」
「けっ」
そっぽを向く男は、そんなケーキの甘さも時代の向こうへ置き去りにしてきたのだろう。時代を受け入れられないことの責任を彼自身にのみ押し付けることを、藤田は少し不憫に思うようになり、この期に及んでも娘のケーキのことが思い浮かぶことについて、少し申し訳ない気持ちになった。
「……取調べは以上だ」
しかし、なんとなく自分はこの男を担当できてよかった気はしている。
久しぶりに〝人間〟を見た気が、藤田にはしていた。
藤田はこの件を送検したが、データは受領されても、男自体を拘置所へ移動する気配が一向にないことが不審だった。
二三、男に面会があったようだが時間ばかり経って音沙汰がない。とうに留置期限は過ぎているはずなのだが。
……が、その後ようやく藤田の耳に入ってきた言葉は、〝不起訴〟という三文字であった。
「は……?」
直人は今度こそ呆けた顔をした。それをわざわざ伝えに来た藤田の顔も暗い。
「正確にはまだ決まっていない。だけどそうなる可能性が高そうだ」
「なんでだよ!! オレは人を殺したんだぞ!!」
「わかってる」
「どういうことかい!? あれか!? データがないから裁判もできないってことかい!?」
「……」
あるいはそういう部分もあるかもしれない。しかしそれでは法の目をかいくぐる犯罪もこれから起きるようになるだろう。藤田は彼の処分を知り、仮説を立てている。
「直人さん。アンタはこれから都内の病院に搬送される」
「なに……?」
面会に来ていたのは検察官と医者だろう。だとすれば……
「そこで正式な精神鑑定を受け……恐らく、精神に異常をきたしていると判断される」
「な……」
「そうすれば、アンタは裁判所を騒がせることもない。つまり……もう世間を騒がせることはできない場所へ、隔離されるんだ」
「なん……だと……?」
直人の首筋が震える。口は動くが言葉にならない。藤田はさらに言葉を付け加えた。
「議事堂の、衆目の前で計画を語ってしまったのは失態だったな」
「……」
「上のほうで、この問題についてあまりアンタみたいなのが騒ぐのを好ましくないと思ってる者がいる。とすれば……」
あくまで仮説である。しかし確かに手首認証に関して、議会は長く紛糾した。最終的には半ば催眠術にかかっているかのように、取り決めは行われた。
既成事実となったとはいえ、今はまだ、このような男に国の中枢で叫ばれるのは好ましくないのかもしれない。
「なんてことだよ!!!」
男は収監室の壁を叩いた。何度も。何度も。
「どこまで人間をコケにすれば気が済むんだ!!!」
その、発狂していく様を藤田は見つめることしかできない。
時代に取り残されていく人間の断末魔を、しかしせめて自分だけでも見ていてやらなければという気持ちが、藤田を長く……そこへ釘付けにしていた。