~響臆~
とある文学賞に応募して落ちたもの。
感覚世界を描いたアーティスティックな作品です。
心が暖まってないと文章が頭に入らないかもねー。
世界の最果てに一つの塔が建っている。
なぜぽつんと、このような塔が建てられているかはわからない。そしてなぜ、この塔だけが建築物として残っているのかも。
歩いて……歩いて歩いて歩いて……その先に、その塔はあった。
レンガを積み上げた重苦しい外壁には蔦が絡まり、何もない時間を雑草が埋めている。それが、灰色に染まる胸の内には空虚でありすぎて、薄ら寒さしか感じない。
それでも彼女は戸を開けた。この塔にまで見放されたら寄る辺がない。
螺旋になっている階段を昇った先には、一つの部屋。
そこには生活するためのすべてのものが揃っていた。ここならしばらくは生きていけそうな気がする。
窓から外を見れば、茶色い静寂の拡がる世界を遠くまで見下ろすことができる。誰か……もし誰かいたら……通りかかるのが見えるかもしれない。馬でもいい。鳥でもいい。
誰か……。
部屋にはグランドピアノがあった。
彼女は生まれてこの方、ピアノなどには触れたことがなかったが、鍵盤を叩けば音が出る。
何もなくなってしまったこの世界で、その音が唯一、彼女の友達となった。
ドの音色……ソの響き……彼女の細い指が、とても拙く単音を生み出しては、胸にわだかまる寂しさを紛らわせていく。
口を真一文字に結んだまま、絹織物のような銀色の髪に隠れた彼女の耳に、訥々と流れ込むピアノの音色。
なぜ、世界はこの音を奪ったのだろう。
なぜ、世界はこの音を巧みに奏でられる者を奪ったのだろう。
なぜ自分だけが……生き残ってしまったのだろう。
塔からは今日もピアノの音がこぼれている。
多少、音は連続してきた気がする。全身白で彩られた彼女が奏でる音は、容貌どおりで色味がなく、それでいてひたすらに透き通っている。
この音が、近くを通りかかる誰かに聞こえるだろうか。遠くの空まで、誰か聞こえるところまで届いてはくれないだろうか。
ずっと、一人で生きていけると思っていた。コミュニケーションがある世界が当然だと勘違いして、随分とその機会を無駄にしてきた。むしろ孤独を望んでみたりもした。
しかし、見渡す限り人がいない、音もない。世界に一人残されることの残酷さを今、噛み締めている少女のピアノの声には、その孤独をかき消したい一心の、激しい不協和音が混じってゆく。
ピアノの心なんて分からない。きれいな音が紡がれていくはずの美しい楽器で、自分が発することのできる音は、こんなぐちゃぐちゃの……気持ち悪くなるような旋律でしかない。
わかっている。わかっているけど、そのような音でも、存在することがいとおしい。
……音が溢れていた頃には触れることすらなかったピアノの音は、今や彼女の中で、呼吸と同等の〝行為〟となっている。
あれからどれくらいの時が経ったのか……。
石造りの塔が時間という概念を失っているのは、時計がないからという理由だけではない。
変化があるから、時間というものは存在するのだ。来る日も来る日も同じ荒野が広がっているだけの世界では、時間の経過それ自体が意味をなさない。
無限の時間は拷問である。もしここに時計があるのなら、たった五分という時間が一日にも一年にも感じていることを知るのだろう。
……気が狂いそうな久遠の刻に取り残され、彼女はただ一つ、ピアノの響きに、時間の経過をゆだねている。
音の変化だけが、苛まれる虚無感を紛らわせてくれる。その音に乗せて踊り狂うことができれば、あるいはさらに時間を感じることもできるだろうか。いや……
彼女は拙く鍵盤に指を這わせながら、あることを思った。
(なぜ、火の海に包まれた世界で、自分だけ踊ることができなかったんだろう……)
……みな、苦しみを踊っていた。一人氷のようにたたずむ自分の周りで踊り狂って、やがて弱いものから溶けて消えていった。
その一瞬前まで、幸せを口にしていた人もいたのに。その一瞬前まで、馬鹿をやって笑い転げていた者も、罵り合っていた人もいたのに。
突如世界を覆った圧倒的な光がすべてすべてを飲み込んで……気がつけば、業火に染まる大地の上で、皆、動かなくなるまで踊っていた。なぜ……自分だけが踊れなかったのか。
思えばあの光が世界を包む直前に、叫び声を聞いた気がする。
「お前の色をよこせ!!!」
……反論の余地はなかった。すぐ、吸い込まれるような感覚に襲われた。その時にできたことは、首元を押さえて目をつむったこと。それだけ……。
風は、彼女の長い髪を巻き上げて通り過ぎていった。
そして彼女は気付いた。首元を押さえていた手が、そこから伝って根元まで、全身、抜けるように白くなっている。髪も……まるで銀糸のようなシルバーブロンドとなり、ご丁寧に着ていたワンピースまでもが色を失い、純白に染められていた。
ただ、彼女が夢中で隠した首元の飾りと、つむらずにはいられなかった瞳だけ……蒼い宝石として残っている。
(わたしは、色を失ったから生き残ったの……?)
彼女は鍵盤を叩きながら、心の中で呟いた。
それしか考えられない。だって、自分はその時まで、確かに普通の人間だったのだから。
あの火の海に巻かれて肉体が焼け爛れないわけがない。
だとしたら、なぜ、自分だけが色を失ったのか。あの声の主は誰だったのか。
大事なことは何も分からないまま、ピアノの旋律は塔の空気を縫うように滑らかに舞う。
……だんだんわかってきた。音は徐々に、美しい歌を、調べ始めたのだ。
調律は一体誰がしていたのだろう。乱れのない、確かな高音域で踊る右手が、ふとそんなことを思いながら、孤独に耐えられなくなったかのように、左手のところへと駆け下りてくる。
しかし左手は低音域を追うのに忙しく、右手の相手をしている暇はない。
(まるで……)
その様子をまるで他人事のように見つめる少女の目が、薄く閉じられる。
(あの頃の二人みたい……)
彼女には憧れの人がいた。
引っ込み思案な彼女の青い瞳は、いつもいつも彼の姿を追うのだけど、彼はいつもいつも、自分に忙しい人だった。
あんなに必死になって、彼は何を追っていたんだろう……。
世界はすべて洗い流されてしまった。あの人は……あの人の追っていたものは、すべて徒爾に暮れたに違いない。
左手が、止まった。右手はその歩調を緩めながら、左手を探すように鍵盤の上を右へ左へとさまよい、途方にくれる。
(わたし……一人なんだ……)
目の前から消え去った左手を求めて、ひたすらさまよう右手。
……あるわけがない。左手は鍵盤を離れ彼女の首元を触れているのだから……。
指先に触れる、蒼い石の付いた、黒い首飾り。
彼が一度だけ……彼女に心を許した証であった。
声の主が彼女から色を奪った時、彼女の手は咄嗟に首を護った。いや、首を護りたかったんじゃない。〝それ〟を護ったのだ。
それが彼女の一番の思い出だったから。それが唯一無二の、かけがえのない彼との繋がりだったから。
彼女が両手で覆った首飾りと、つむった目だけが、色を失わずにすんだ。
色を失うことに何の意味があったのかは知らない。だけど、彼との唯一の思い出は、それがために色を失わずにすんだ。
色味を失った彼女の首元で、蒼々と光を放つ石。それに励まされて、左手は鍵盤に戻る。
自分は一人じゃない。一人じゃない。
再び〝二人〟が歌うピアノが、塔の最上階を彩りだす。
美しい。長く長く歌い続けたそのピアノは、いつのまにか優麗な音色を奏でている。
涙が止まらないほどの寂しさを受け止めながら、もう、いるはずのない男にもう一度恋をして、そういう恋ができる喜びを、少し震える両の指で、静かに……やさしく……。
それはまるで、触れれば壊れてしまいそうな儚さを帯びてはいながら、同時に、彼女の確かな意思を表してもいるようだった。
生きよう。彼と共に生きよう。たとえ彼がこの場にいなくとも。たとえ彼が、この世界にいなくとも……。
心が、音という形となって、やがて荒野に溶ける。日が沈んでも、また昇っても……彼女の歌は止まらない。
にわかに雨が降り出した。
頬をなでるようなやさしい雨ではない。石壁を叩きつける乱暴な音が世界を支配し、彼女を挑発する。
やがて空が電気を帯びれば暗雲はいよいよ深く、世界全土に垂れ込めていった。しかし、彼女は歌い続けている。
瀑布のような雨を掻き分ける様に鳴り響くアルペシオ。まるで真冬の過酷な寒さに根を張って、地べたに張り付きながら生きる雑草のように、ひっそりと、力強く生きようとする。
しかしその音が初めて……途切れた。
「色をよこせ!!」
声というものを聞いたのはどれくらいぶりだろう。降りしきる雨の中に、彼女は確かな意思を見止めて立ち上がった。
「だれ……?」
見回しても誰もいない。壁を叩く雨が檻の中で暴れる肉食獣のように彼女を欲し、窓を叩き割って中に舞い込もうとするが、それだけだ。
いや、それだけではなかった。
突如轟音が空を砕いた。一瞬蒼白く見えた雷光が塔の石壁の一部を粉砕し、部屋から天を覗かせる。ほんの少し開いた穴からは亡霊がその手を差し入れて彼女を奪いたがっているかのように、大粒の雨が続々と舞い込んできた。
「その色をよこせ!!」
「!!」
その声は彼女の耳を通さず、直接、脳で破裂した。彼女は思わず頭を抱えてしゃがみこむ。
「だれ!?」
叫ぶしかない。
しかし、〝声〟にしてみれば、誰であるかなど、どうでもいいのだろう。脳を直接圧迫せしめる波長がとめどなく彼女を襲い、激痛に耐えかねた少女の身体が、雨に濡れ始めた部屋でのた打ち回る。
「やめて!!!!」
叫ぶ声には血が混じった。
「色をよこせぇぇ!!!」
「あなたは誰なの!? 何でわたしから何もかも奪っていくの!?」
声はそれには答えない。打ちつける雨はなおさら酷く、脳を直接刺し貫いてゆく怪電波が少女をわしづかみにして引き裂こうとする。
(殺される……!)
自分を殺すことなどは、虫けらを潰すよりも簡単なことなのだと確信した時、彼女は何を思ったかピアノを求めた。
侵食されていく脳幹をもたげながら、這いずってピアノの前に座る。そして、ありったけの力を鍵盤に押し付けた。
閃光が走るような鋭い旋律が、放電を伴って天へと突き抜けていく。
生気を取り戻す少女の瞳。叩きつけるような激しいリズムは、降り注ぐ雨をすべて飲み込むようにもうもうと新しい世界を創り上げ、暖かい風を孕んで燃え盛りはじめた。
歌があるうちは生きていられる。自分だけに残された生命の意味はわからなくても、この声の主にだけは奪われてはいけない……彼女の大脳が……いや、魂が叫ぶ。
彼女の歌はさらに激しさを増し、まるで指と指が別の生き物であるかのように、猛って踊った。
それは、世界の最期を歌った歌にも聞こえ、同時に、世界の創生を予期する胎動のようにも聞こえる。
いずれにせよ、空を突き破ってなお駆け上がる魂の旋律が、割れんばかりのエネルギーとなって雨に濡れた身体を沸騰させている。
そこに、再びの雷鳴が塔を襲った。電離した暴力的な空気が堕天した龍のようになって、先ほどよりも的確に、塔の天井を打ち砕く。
「よこせ!!!!!!」
ガラガラと崩れ始める石の天井。瓦礫が彼女とピアノに襲い掛かる。
が、少女には刹那の逡巡もない。ひたすら音に集中して、彼女の脇をかすめて突き刺さる石柱をそのままに、鍵盤を叩き続ける。
もはや部屋は暴雨をしのぐ術を持っていない。瓦礫に傷ついたピアノも彼女も、矢尻のような雨脚に晒されたまま。支柱(突上棒)が折れ、ピアノの屋根の部分であるリッドが閉じた事が救いし、音は鳴り続けた。
とはいえすでに正規の音などは出ていないのだろう。見れば少女の左肩も、肘までぱっくり裂けている。
流れ出る血を舐めて喰らっていく雨に身を投じたまま、濡れそぼる長いシルバーブロンドを振り乱しながら、しかし少女の歌はさらに激しさを増す。
左手の彼、右手の自分……自分は一人ではない。彼のくれた蒼い宝石。彼女自身の青い瞳……。
一人では、ないのだ。
血のにじむ両手が、戦場を馳せる天馬のように鍵盤の上を駆け巡る。負けるものか。
運命に、不条理に、孤独に、苦痛に、逆境に……
音は鳴り続ける。歌は止まらない。
止まるものか。止まるものか!!止まるものか!!!!
「おのれ!!」
吹きさらしの雨に打たれながら、気丈に抗い続ける少女に、天は再び雷光を宿した。渦を巻いている黒い雲が、一瞬すべて白く輝くほどの摩擦となって空を覆い尽くす。
「!!」
一条の巨大な槍と化したその光は、すさまじい光量を発しながら、彼女へと降り注いだ。
しかし彼女が見たのは、光ではない。光を遮る一つの影。
(あっ!!)
たくましい、男の背中であった。ピアノの天蓋に乗って、刃渡り二メートルにもなる直刃の剣をその両腕に携えている。
彼女が飲み込んだ息に応えるように、男はほんの少しだけ顔を覗かせ微笑む。そして閃光の迎え撃つ天に向かって跳んだ。
少女の指が、その背中を追って、渾身の音色を叩き出す。
彼だった。この世で最も愛した……そして、世界の終わりと共に見失った彼が、自分を救いに来てくれた……。
蒼い生命を湛えた首の宝石が、天の白に反射して強く輝いている。自分が……わたしができることは、自分の持ちうる最高の歌を、彼に届けること。
雷光に打ち克つ力を二人で生み出すんだ。負けるものか!!
冷たい雨と疲労に圧迫され続け、重く引きずるようだった指に、再び力強さが戻る。
叩きつけた。ただひたすらに。孤独を逸脱した魂から。自分の生命を目一杯に。ただひたすらに。音を創る。紡ぎだす。創造していく。
今日で手が壊れてもいい。二度とピアノが弾けなくてもいい。また苦しい毎日に戻っても、寂しい思いをしても、絶対に負けるものか。届け!届け!!
天に駆け上がる竜のような旋律に背中を押されて、跳躍した男の身体が加速する。神の閃光は一瞬にしてその男を貫いた。いや、
「ぜあああああああああああ!!!!!!」
満天を断ち切るほどの鋭い気合と剣撃が、光の槍を一刀にして粉砕した。
さらに加速の止まらない彼は身を翻してもう一度剣気を溜め……
そして……何かを確信したかのように、沈鬱に澱む虚無を仰ぎ、剣を袈裟に振り下ろす!!
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
……その嘶きは断末魔だったのか、それともただの雷鳴か……雨は止むことなく、いまだ走り続ける彼女の心の芯にまで降りしきる。
夜が明けた。
昨日の雨の名残が、時に雫となって石壁から滴っている。
吹きさらしとなった最上階……中央にグランドピアノの置かれたその部屋は、まるで天空に設けられたステージのようだが、実際は瓦礫に埋もれ、誰からも忘れ去られた遺跡のような、荒涼とした空間を形成している。
ピアノにそっと寄り添う少女。色を失った少女はどこまでも透き通っていて、まるでクリスタルの彫像のようだ。
彼女は打ち克った。奪われることのなかった蒼い瞳は確かな色を宿しており、一人残された世界を、静かに映し出している。
もう一つ。色を失うことのなかった首飾り。やはり蒼い宝石が埋め込まれたそれは、彼女を生かした、もう一人の男の意思だった。
幻なのだということは、わかっていた。しかし、神の最後の一撃が放たれた時、目の前に立ちはだかった彼が、ほんのわずかに見せた笑み。
……その時、小さく口が動いていたのを、彼女は確かに見た。
「生きていてくれて、よかった……」
あの時、彼女は悟った。
色を失うことで生き残ったのではない。この石が、その意思が……わたしを護ったのだ。彼が、世界の終わったあの日に、自分を救ったのだと。
それからはなぜかがむしゃらだった。
なぜ一人だけ生き残ったのかを反芻する毎日だった。寂しさを紛らすために鍵盤を叩き続け、何度この塔の高みから飛び降りてしまおうかと考えたか知れない。
しかし、唯一色を失わなかった首元に彼を感じた時、生きようと思った。
この命は彼が救ってくれたのだと知った時、なおさらその気持ちは募った。
生きなければならない。生きることが、生きる意味なのだと。彼女は絶望に打ちひしがれた刹那、感じたのだ。
音の消え去った世界。彼女はそっと……白鍵に指を伸ばす。
トン……と弾けば、ファの音が生まれた。そして、ミが……。ソも、ラも、レも……。
(生きていこう……)
音は、生きている。彼女が両手で、静かに魂を吹き込めば、その弦楽器はまた、美しい音色を奏で始めた。
それは昨日とは打って変わった、小さくて、やわらかいリズム……。
まるで、幾千の時を超えた恋人達が、再びの逢瀬に心を震わせるかのような……深く……清らかな旋律となって、傷つききった世界を癒すかのように、紡がれてゆく。
たとえ、その先に絶望しかなかったとしても、彼女の歌は止まらない。
その音が誰の元に届かなくても、孤独の孤独の孤独の孤独に苛まれても、彼女は歌い続ける。
明日また嵐がこようとも。雷鳴がすべてを打ち砕いても。
負けるものか。負けるものか……負けるものか、と……。