九章六節 - 薄日と手向けの花
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与羽が向かったのは、中州川の最南部――月見川との合流地点だった。
わざわざ中州川を渡り、対岸から城下町に向かい合うように立ったことにさほど意味はない。なんとなく、華金兵の視点から中州城下町を見てみたかったのかもしれない。
「雷乱……」
久しぶりにその名前を口にした気がした。
彼がこの川の流れにのまれてから今まで、中州川に来ることができなかった。はじめはまだ平野部で戦いが続いていることを理由に止められ、その次は水量がまだ多く、危険だと諭された。
その後も、城主代理としての責任や、与羽を川に近づけたくないと言う人々の想いを酌んで――。
しかし、一度ここに来なければならない気がしたのだ。誰かに呼ばれている気がして。
与羽の胸には、盛りを過ぎたアジサイの花が抱えられていた。城の堀の周りに咲いていたものを手折ってきたものだ。
与羽はその中から小さな一輪を摘み取って、川に投げ入れた。
「もう一週間だぞ」
与羽はまだ水量の落ち着かない水面に話しかけた。
応えるのは、水が岩にあたって砕ける音。
流れに巻き込まれ、消えてゆくアジサイの花を、与羽はひざ下まで川に浸かってじっと見つめた。
それが見えなくなると、もう一輪花ちぎり取って流れに投げ込む。
「おい、それは誰への花だ?」
一輪ずつ、いつまでも機械的に花を投げ込み続けていた与羽の後ろでどすの利いた声がした。
「戦死者へ」
川の音に耳を傾け、流れに心をゆだねていた与羽は、夢ともうつつともつかないような世界でそう答えた。
「そーか。よかった、オレへの花じゃなくて」
そんな与羽を無理やり現実に引き戻すかのような、乱暴な低い声。
「あんたなら必ず帰ってくるって思っとったよ」
与羽の声は落ち着いて冷たくすらあったが、その肩はかすかに震えはじめていた。
「そうは見えないがな」
そして、壊れ物に触れるようにそっと頭に大きな手を置かれた瞬間、与羽の意識は完全に川から離れた。
「オレも、なるべく早く帰って来ようとしたんだぜ。でも、結構遠くまで流されて、足もくじいちまって、時間かかった。一応、関所には寄ったんだが、お前まで情報は来なかったか?」
「今の中州にそんな余裕あるか!」
与羽は水面に向かって怒鳴った。
「それもそうだな」と背後の気配がわずかに笑う。
「笑うな!」
さらに怒鳴る与羽。
「悪かった。詫びに――、土産だ。タコ捕ってきてやったぜ」
そう言って彼は半ば干物になりはじめたタコを差し出した。与羽に笑うなと言われたため真顔で。
幸いと言うべきか、与羽はいまだに水面を見つめ続けているので、彼の顔を見ることはなかったが……。渾身の冗談を言ったつもりが全く相手にされず、雷乱は小さくため息をついた。
「だが、悪気があって笑ったわけじゃねぇんだぜ。時間があいたせいで、どんな顔して帰ればいいか分からねぇんだ」
「あんたらしく……、バカらしく笑っときゃよかろうよ」
与羽の声から怒気は消えていた。
「……雷乱」
そして、消え入りそうな声でその名前を呼ぶ。
「結局笑うんじゃねぇか」
与羽の後ろで、彼は大きな体を震わせて笑った。
しかし、与羽は動かない。
それを不審に思った雷乱は、与羽の顔をちらりと見て、すぐそらした。そしてさりげなく自分の着物の袖で与羽の顔に伝う涙をぬぐってやる。
しかし与羽の涙は止まらない。
「全く。泣き虫姫サマ、帰りますよ。オレ、腹減った」
雷乱はそう言うとタコを背負い、与羽を横抱きに抱え上げた。
与羽は強く雷乱の着物をつかみ、肩に顔をうずめている。
雷乱もしっかりと与羽を抱えなおす。
「雷、あんた足大丈夫なん? くじいたんじゃ……」
与羽が雷乱の肩に顔をうずめたまま聞いた。怒った声で言うつもりだったのだろうが、その声は明らかに震えていた。
「痛てぇよ。でも、こうさせておいてくれ」
雷乱はもう一度与羽を抱えなおす。
久々に照りはじめた太陽が、二人を紅く染める。
その温かさに、与羽は涙を流しながらほほえんだ。誰にも見られないように顔を隠して。




