九章五節 - 薄日と賢帝と龍姫
「……与羽?」
彼女は立ち上がっていた。
「待って!」
そのまま戸口へと歩いていく与羽を、手首をつかんで制止する辰海。
「少し、休ませて欲しい」
与羽はそんな辰海を振り返って言った。まっすぐで意志のこもった目をしている。先ほどまでのぼんやりとした雰囲気とは違い、自分がどこに行き何をしようとしているのかはっきりわかっているようだ。
「でも――」
「日が暮れる前には帰ってくるから」
時刻はすでに夕刻に差し掛かろうかという頃。さほど遠くまで行くつもりはないらしい。
「何を――?」
「少し、頭の中を整理しょうかな、って」
自分でも要領を得ないと思った辰海の問いに、与羽は部屋の一点を見ながら答えた。そこには、今回の戦で亡くなった人、そして未だに安否の分かっていない人の名前が記してある。
「ひとりで、大丈夫?」
「子ども扱いしないで」
わずかに歯をむき出したその顔は、苦虫を噛みつぶしたようにも、笑おうとしているようにも見える。辰海は久々に与羽の表情の変化を見た気がした。
無理をしているのは、長年そばにいた辰海には丸わかりだったが、それでもなんとか区切りをつけようとしているのがわかる。そのきっかけがなんなのか、辰海には見当もつかなかったが……。
中州全体が復興に向けて動き出したからか。ただ、時間が解決してくれたのか。それにしても、一週間という時間はまだ短い。
辰海はつかんでいる与羽の手を放すべきか否か迷った。
そんな辰海の手をさらにつかんで、与羽から引き離したのは絡柳だった。
「いけ」
そう短く言うと、与羽は口元を笑みの形に引き上げてゆっくりと歩き去った。
「絡柳先輩?」
与羽を見送ったあと、辰海は絡柳を見た。
真面目な絡柳が、仕事の途中であるにもかかわらず与羽の退出を認めるとは意外だ。
「これで与羽が今回の件に少しでもケリをつけられるのなら、な」
絡柳は与羽の出て行った戸口をにらみ据えるようにして言った。
「それに、俺のところに与羽が元気になりそうな情報が来ている。……徒歩と考えて、ちょうどいい時間だろう」
「……はい」
どう答えればよいのかわからず、辰海はただうなずいた。
頭では、もし自分が与羽の立場だったら、と考えてみる。
確かに、雷乱は辰海にとっても志を同じくする友のようなものだった。しかし、今の辰海は雷乱がいなくなったこと自体よりも、それに心を痛める与羽を心配する気持ちの方が強い。
そんな与羽が奪われたら――。
顔も知らぬ華金王の腕が、与羽の体を絡め取り――。
「おい!」
絡柳の手が辰海の肩をつかみ、乱暴に現実へと引き戻した。
「あ……」
辰海ははっとして体の力を抜いた。
無意識に爪が手のひらに食い込みそうなほど握りしめていたこぶしもほどく。
「何を考えていた?」
絡柳は自分の額に浮かんだ汗をぬぐっている。
「いや、聞かなくても容易に察せるが……。お前は、与羽ほど冷静ではいられないようだな」
「むしろ、与羽が表面だけでも落ち着いていられるのが疑問です」
大斗に意識を奪われたのち、目覚めた与羽はぼんやりとはしていたが、決して暴れはしなかった。呼びかければ応えたし、食事も着替えも自分で行える程度には自立していた。
辰海なら、きっとそうはいかない。
「与羽には大事な人がたくさんいるからな。お前はもちろん、雷乱、野火女官、乱舞、大斗――。他にもたくさん。自分が取り乱して勝手なことをしたら大事な人たちが心配する。そう思えば、冷静にふるまえるんだろう。お前たちが精いっぱい与羽を励まそうとしているのも伝わっているにちがいないしな。
一方のお前は――、自分が一番よくわかっているだろう」
辰海には、大事なものが飛びぬけて一つしかない。それを失った時、辰海は他のすべてを捨てでも取り返そうとするだろう。
絡柳は先ほどの一瞬の雰囲気の変化でそれを悟ったらしい。
与羽以外の人間に自分の思考や行動を予測されるのは不快だったが、辰海は素直にうなずいた。
開け放たれた戸から吹き込んでくる熱を帯びた風を浴びながら。




