九章三節 - 涙雨と薬師と翡翠
* * *
あたりには薬草のにおいが充満している。
城で最も広い謁見の間には所狭しとけが人が寝かされていた。縁側にもけがの治療を待つ人が何人も並んでいる。
その間を薬湯や傷薬、包帯を持った医務班が歩き回り、重傷者から順番に必要な治療を施し続けていた。
「血止めと痛み止めの薬湯です」
比呼はそう椀を差し出した。
「テメェが作ったのか?」
左袖を血で赤黒く染めた中年の男が、上目づかいに比呼をにらみあげる。
「そうです。冷めるとまずくなりますから、早めに――」
「ふざけんな!」
しかし、激しく怒鳴られて比呼はたじろいだ。
彼の周りにいた人々も何事かとこちらに疲れた視線を向ける。
「城主を殺そうとした奴の作った薬なんか飲めるか」
その言葉でささやきが広まっていく。比呼を知っている城下近郊に住む人が、遠方から来た人に比呼の話――比呼の行いを伝えているのだ。
「僕は――」
まだ自分に不信感を持っている人がいることは確信していたが、面と向かって言われるとそれを痛感させられた。自分はまだ中州では浮いた存在なのだ。永遠に比呼を疑い続ける人もいるのかもしれない。
比呼はうつむいた。
「ちょっと貸しなさい!」
しかし次の瞬間、その手から薬湯の椀が奪い取られた。
驚いて顔をあげれば、隣には凪。着物のところどころに手当ての時についたと思われる血のしみがある。
多くの人が見守る中で、彼女は比呼の作った薬湯を一気にあおった。
「凪!?」
突然の行動に比呼も驚いたが、それ以上に彼の周りの兵士たちは驚いていた。治療や手当ての時はとても穏やかに接してくれる凪の勢いと、元暗殺者の作った薬をためらいもなく飲んだことに。
「ちょっと苦いけど、ただの薬湯よ」
そう言って、凪は手の甲で口をぬぐいながら、半分ほど薬湯の残っている椀を男に押し付けた。彼も渋々椀に口をつける。
毒見でもするように少しだけなめて苦さに顔をしかめ、次の瞬間一気に薬湯を流し込んだ。
「ふん」とすこぶる機嫌の悪い様子で、比呼に空になった椀を突き返す。
「ありがとうございます」
それを両手で受け取りながら、比呼は穏やかにほほえんだ。自然と笑みが浮かんだのだ。
「比呼。血止めと痛み止めの薬湯をあと五十人分。消毒の軟膏をつぼ一杯追加、お願い」
わずかに厳しい顔をしていた凪も表情を緩めて、そう指示を出した。彼女自身は、並んだ列の先頭――傷の手当てに戻っていく。
彼女以外の医療班の人々もせわしなく治療にあたっていた。
その間をゆっくりと歩いているのは、天駆の月主神官――空か。白と黄の神官の正装を汚しながらも、人々にやさしく声をかけて回っている。
与羽と話しているときの飄々(ひょうひょう)とした雰囲気はない。神に仕えるものにふさわしい穏やかさと落ち着きを纏っていた。
彼に声をかけられた兵たちは、どれほど取り乱していても最後には両手を合わせ厳かに瞑目する。自分や仲間の回復を、中州の勝利を祈って――。
天駆では空の仕える龍神――月主は、龍神一族の中で最も低級な神とされているが、ここではさげすまれていないらしい。
それが中州の人々の意識の問題なのか、空の力なのかわからないが……。
もし後者ならば、比呼の見習えるところがあるかもしれない。
比呼は新たな薬湯を作るために、城が貸してくれている厨房のひとつに向かいながら空を見た。彼もすぐに比呼の視線に気づいて、こちらに目を向けた。
いつも両目を覆い隠している長い前髪は他の髪と一緒に頭の後ろ、高い位置でまとめられている。
比呼をまっすぐ見据えて、空は一瞬だけとてもやさしくほほえんだ。比呼と空にはほとんど面識がないにもかかわらずだ。比呼のことを知っていてそうしたのか、ただ自分を見ていたから笑顔で応えたのかわからないが、励まされた気がして比呼は軽く一礼して厨房へ急いだ。




