九章二節 - 涙雨と炎狐と龍姫
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城の敷地に間借りして立つ古狐の屋敷は、城以上に戦いの音が聞こえにくかった。屋敷の中でも最奥、北西の離れにいればなおさらだ。
ここは主に辰海の母――美海が過ごす場所だったが、今は非常事態ということもあり古狐に残った人の多くが集まっていた。
三十畳ほどの広い部屋には若緑色の畳が敷き詰められ、移動可能な衝立や御簾、屏風などで区切られている。
その中の一番狭い空間に辰海は座っていた。目の前には布団に寝かされた与羽。
「姫の様子はどうかね?」
御簾の向こうから鈴の転がるような澄んだ高音が尋ねた。母――美海の声だ。
非戦闘員の多くが北の町村に避難しているにもかかわらず、彼女は夫や息子がいないときに家を守るのは自分の務め、と屋敷に残っていた。
「母上……」
辰海は薄絹越しに見える美海の影に呼びかけた。
その影が肩をすくめるのがわかる。声の調子で辰海の精神状態を察したのだ。
「ちとよいか?」
彼女は、そう断りながらこちらにやってきた。
自分の身の丈近くまである黒の癖毛を緩く束ね、薄橙の小袖に濃い山吹の帯。普段ならば、この上に打掛を羽織っているが、今は何かあった時動きやすいように軽装だ。
手に持つ扇は虹色に輝く螺鈿細工の施されたもので、見るからに高価そうだった。
背はあまり高くないものの、その優雅な身のこなしのためか堂々して、威厳がある。
「どれ」
美海は辰海の隣に膝をつき、与羽の顔を覗き込んだ。わずかに汗がにじんでいるものの、ぐっすりと眠っているように見える。
「これ。起きぬか」
そう閉じた扇で与羽のほほを叩いてみても反応はない。
「何やってるんですか!? 母上」
「ちと試してみただけよ」
美海は悪びれずに答えた。
「よく眠っておる。もうちぃと、状況が落ち着くまで寝かせておいた方がよいかもしれぬ」
それには辰海も同意だった。
目覚めて再び暴れられても困るし、うなされていないのならこのまま幸せに眠らせておくのも悪くないと思ってしまった。
「どれ、安眠できる香でも焚いてみるかね。辰、お前さんも少し休まれよ。わしと女官たちが起きて見張っておくゆえ」
「はい」
辰海は素直にうなずいた。
精神的にも肉体的にもひどく疲れているのが、自分でもはっきりわかったのだ。
与羽と離れた部屋の隅に横になろうとして――。
「これ、何をしておる」
美海の扇に頭を叩かれた。
「もっと近こう寄れ」
肩をつかまれ、与羽のすぐ隣の畳に押し付けられる。
「は、母上!」
何とか与羽に背を向けようとする努力も、扇の一打ちで阻止されてしまった。
「変な気を起こすでないぞ」
さらに、与羽の手を辰海に握らせながら言う美海。
「まぁ、わしも卯龍もお前さんが与羽に何をしようが、いっこうに構わぬがな」
本気とも冗談ともつかない口調で言って、「ほほほ……」と口元を隠して上品に笑えば、衝立の向こうに控えている女官たちも笑う気配が伝わってくる。
辰海は笑えない。
「それに、この方が与羽も安心しよう」
勝手にそう結論付けて、美海は「これ以上若い二人の邪魔はできぬわ」とひとりごちながら、衝立の向こうに行ってしまった。
残された辰海は、どうすることもできない。
向こうでは、美海と女官たちが何かしらの遊戯をはじめたのか、わざとらしいくらいのにぎやかさが伝わってくる。いや、確実にわざとにぎにぎしくしている。
辰海はため息をついて与羽を見た。
「与羽」
美海や女官には聞こえないように、小さな声で呼んでみる。
――なんだか、懐かしいな。
口元が緩みそうになるのを、辰海は慌てて引き締めた。
そっと空いた手で与羽の前髪を額になでつけてあげる。
「きっと雷乱は戻ってくるから、今はゆっくり休んでて」
そして辰海は祈るように目を閉じた。
遠く響く、鉦と剣戟の音を聞きながら――。




