一章三節 - 薄明と突然の帰還者
「……せわしいな」
与羽が誰に言うとでもなくつぶやいた。
「わざわざ日が暮れてから帰らんでもよかろうに」
中州の西に広がる華金山脈には盗賊が出ると言う話を聞くし、狼などの危険な動物もいる。長年旅をしてきた薬師夫婦なら夜に出歩く危険は熟知しているはずだ。
しかも、馬を全力で駆けてくる。
「……何かあったんか?」
薬師夫婦の二頭の馬は、そのまま中州川にかかる橋を渡り、城下町へと入っていった。暗いこともあり、橋からやや南に離れた所にいた与羽たちには気づかなかったようだ。
普段なら名前を呼んで手を大きく振っても良かったが、今回はなんとなく不穏な雰囲気を感じた。今、与羽を見れば、眉間にしわを寄せ、唇を引き結んだ険しい顔が見られただろう。
しかし、辰海たちは皆与羽の後ろにおり、彼女が振りかえった時には、すでにいつもの少しいたずらっぽそうな明るい笑みが浮かんでいた。
「帰ろっか」
辰海たちが何か声をかける前に、与羽は立っていた岩から軽やかに飛び降りた。
そのまま足元の不安定な川原に体重を感じさせず着地すると、自分の竹刀を持ち、それで肩を叩きながら垂直な岩肌に掘られた城下へ上がるための階段を上りはじめる。
「え?」
困ったり、呆れたり、自分勝手な与羽に腹が立ったり――。色々な感情がごちゃ混ぜになり、三人は顔を見合わせた。
その間にも与羽は、後ろの三人など気にも留めず、階段を上っていく。
与羽が見てくれないのなら、けんかをする意味はない。
そもそも、さっきの間にけんかする意欲もうせてしまった。
思い思いの感情からため息をついた三人の男たちは、慌てて小さな姫君に従った。
四人でかたまり、日が暮れ、人のほとんどいない大通りを城の方へと歩く。
通り過ぎる家々には橙の灯りがともり、人の話し声が漏れ聞こえてくる。内容までは分からないが、今日の仕事について語っているような男性の声もあれば、子どもを叱っているらしき女性の声、遊んだ内容を一気に話す子どもの声もある。
通りに人はいないものの、辺りには音、匂い、光――色々なものが混ざりあい、人々の生活が五感で感じられた。
「ん~、家には帰ってないんかなぁ?」
与羽は大通りに面した一軒の家を遠巻きに見ながらつぶやいた。薬師本家。
先ほど城下町へ帰ってきた薬師朱里、沙奈夫婦の家であり、いつもは二人の娘である凪那と彼女の祖母が暮らしている。もし、薬師夫婦が帰ってきているならば、久しぶりの家族の会話ににぎわうはずだがそれもなさそうだ。
「蹄の跡、まだ先まで続いてるよ」
大斗がしゃがみこみ、淡い月光の中で通りを調べながら言った。
よほど急いでいたのか、くっきりと乾いた地面をえぐる蹄の跡が続いている。
「城まで――、ってことですか?」
「そう考えるのが妥当だね。ちょっと待ちなよ――」
与羽たちの目の前に、大通りに面した武官筆頭九鬼本家――大斗の家があった。二軒の家がごく近接して建つ中州川側が八百屋、城側が鍛冶屋だ。
その奥に二つの建物を繋ぐように屋敷が建ててある。
九鬼本家は大通りに面する屋敷の中で、広大な道場を持つ一鬼家に次ぐ敷地面積を誇っていた。