八章二節 - 嵐雨と漏日拠点
* * *
山の中を駆け抜ける。その身に重々しい鎧はなく、防具と言えばせいぜい衣服の下に鎖帷子を着込んでいるくらいだ。武器も数本の小刀のみ。
しかしそのおかげで、彼らは足場の悪い山道を素早く駆けることができた。
飛んでくる矢を木の幹を盾にしてかわし、相手が次の矢を射る前に間合いを詰めてその身に小刀をうずめる。
そして、小刀を振って刀身についた血を振り払い、身にかかった返り血は雨で流されるに任せて再び駆け出した。
鳥の鳴き声に似せた口笛とともに、そのわきにもう一つの影が並走する。
お互い視線を交わすこともなく、そのまま共に山を駆け下った。目指すは山脈のふもと――街道沿いにある漏日本家だ。
普段は存在しない塀や堀、柵に囲まれ、辺りには怒声、馬の嘶き、剣戟――さまざまな音で満ちている。
「飛走の姉弟か……」
山を駆け下り屋敷に飛び込んできた二人を見て、漏日拠点を統べる漏日時砂文官三位はつぶやいた。
「漏日大臣にご報告いたします」
二人のうち年上と思われる女が口を開いた。年のころは二十歳に少し満たないほどだが、その顔立ちは少女と呼ぶには大人びている。
それとは対照的に彼女の隣に知る少年の顔には幼さがみえた。
若い女は飛走蒼蘭。少年は飛走月魄。中州西部の華金山脈に住む森の民だ。今回の戦では、山脈を抜けて中州北部へ進行しようとする華金軍の足止めを行っている。
「華金山脈へ侵入した華金軍中隊二つ、ほぼ制圧完了いたしました。指揮官は一人が死亡、もう一人が捕虜に。下級兵の多くはすでに逃げ出しました。自ら武装解除し、中州へ降った者も。未だ抵抗をつづける者もおりますが、とりあえずは収束したかと」
「そうか……」
時砂――漏日大臣はその内容を噛みしめるように低く言った。
「ありがとう。ごくろうだった」
そう淡い笑みを浮かべると、飛走姉弟はかしこまって頭を下げた。
時砂はそれを穏やかに見下ろした。自分の息子と変わらないほど若いのに、本当によく働いてくれている。刃を持って人と戦うのだ。つらく苦しいこともあるだろうにそれを出さず、淡々と報告してくれた。自分の息子なら、人に刃を向けることすらできないだろう。
それがいいことなのか悪いことなのか、彼には判断できなかったが……。
「まだ、山脈に兵が送り込まれる可能性もある。山脈に展開している兵に今のうちに休んでおくよう指示を頼んでもいいか?」
「はい、もちろん」
蒼蘭が言い、月魄もその斜め後ろでうなずいた。
「しかし、くれぐれも気を抜かないように。無理をしないように」
「心得ております」
「それでは、これからも頼む」
「御意」
そして二人は一つ息をつくよりも早く退出した。ふと見た瞬間にはもういない。
「飛走の名にたがわず、風のような姉弟だな……」
そうつぶやく。
姉弟がいなくなっても、辺りに誰もいなくなったわけではない。彼の周りには、漏日拠点の指揮官を守るための兵の他に、彼に報告や指示を仰ごうとする人々もいる。
みな表情は硬いものの、勝利をあきらめた者はいない。
「漏日拠点は順調だ。このまま気を抜かずにいこう。……――負ける気がしないね」
そうにやりと笑って付け足した言葉は彼の本心だった。




