騒乱の影
小沢原の合戦から一年を過ぎた享禄四年の八月、再び中天にある太陽が秋の色を見せていた。田は刈入れが始まり至る所で稲の天日干しが始まる。
今年の米の取れ高は例年と変わらない事が予想され、凶作にならなかった事 への感謝の意を表す村祭りが彼方此方で催されはじめた。
凶作が続くと国政が立ち行かなくなるため米の取れ高はどの国でも関心事の中心だっただろう。当然半農半武の武士たちの心も華やいでくる。
各村の専門の百姓と半農の武家入り混じっての祭りは今年もそれが無事に済んだ事の証でもあった。
また北條領の米の取れ高に対する年貢率は凡そ四割。他国の様に七割八割も取らない事が始祖早雲よりの金科玉条だ。そのため故に特に喜びが増す。
その祭りの準備で熱の入る村を知ってか知らずか、その半ばに通る一本の道をひた走る馬上の武者がいた。
何か危急の知らせを持ったのだろう、只管に先を急いでいるようだった。
野良犬などがいても気にもかけず馬蹄にかけ、後ろも振り返らず走り去って行くさまは、後日それを見た百姓が言うには、悪鬼が一陣の風を纏って走り去って行ったようだと話していた。
そして残暑の残る小田原城にその悪鬼は到着した。
鎌倉は玉縄城から氏綱の元に危急の知らせを持った早馬だった。
小田原城の一角で馬を責めていた氏綱に届いた報は、弟氏時が身罷った知らせだ。
唐突な弟の死に氏綱は衝撃を受けた。
玉縄城を任せ、鎌倉の押さえとして全権を任せていた弟が死んだのだ。
悲しみも一入ではあるが、しかし一国の主として悲しみのままに時を過ごせない。
この知らせを聞いた氏綱は安房の里見の動静を考えて一門の誰かを早急に 玉縄城に据え置かねばならないと判断した。
それと並行して氏時の葬儀を執り行った。
里見とは小弓の義明を仲介して仮の安定を見ているが、未だ動静不安な状態と見て良いだろう。真里谷武田と示し合わせ何時又船団を率いて鎌倉の地を脅かさないとも限らず、玉縄城主不在のまま襲われれば一溜りもない。
さらに扇谷の朝興は河越に押し込めたとは言え、未だ山内の憲弘との連合も否定できないので不安定材料ではある。
様々な環境を考えて白羽の矢が立ったのは、今年十二歳になる氏康の弟で元服前の彦九郎だ。しかし少々若すぎると言う事で大道寺盛昌と福島孫九郎が補佐にあて、玉縄城の政務を執らせる事になった。
この玉縄城、元々は早雲が三浦攻めの時に扇谷上杉氏を三浦氏支援に回さぬように三浦半島の楔として築いた城だったが、外堀が相模湾まで繋がっていた為に現在は北條方の水軍を統括する拠点となっていた。
そして氏時の葬儀を済ませ玉縄城主に彦九郎を据えた享禄四年九月、意外な知らせがもたらされた。
不安材料として名を上げていた山内の上杉憲弘が上杉家を追放されたらしい。
「なに?」
氏綱は疑問の声を第一声として選ぶと、知らせをもたらした小太郎は静かに滔々と事の成り行きを説明した。
「先の小弓は義明様の采配と思われる里見の鎌倉攻めには、どうやら扇谷の朝興殿が後ろで糸を引いていた様にございます」
氏綱が鼻を鳴らした。
「我らが江戸の地を領土としてから小弓の義明様に近づいたようで、城下の江戸湾から小弓の御所までは船路で七里ほど、いつ我が江戸城の様に攻められるか分からぬと訴えたようにございます」
「左様か」
氏綱の言葉は少なかった。続けろという催促だろう。
「そこで義明様は真里谷の恕鑑殿と里見実堯殿を引き合わせ、更には扇谷の憲弘殿も含めた反北條の連合を作ろうと画策していたとの事」
顔には表わさなかったが、これには背中に冷たい物が流れる感覚を味わった。
「我が北條を取り囲もうとてか」
「左様にございます」
「中々に大層な謀よ」
「そして山内の上杉憲弘殿は朝興殿の策に乗ってこの連合に与したのでございます」
「それが先の小沢、玉縄攻めか」
「はい、そしてこれが我が方からの使者により古河公方家に知られる事になり、小弓の義明に与した事が明らかになった事で公方高基様と憲弘殿は敵対する事になりましてござる」
「うむ、しかし憲弘殿が追放された理由が分からんな」
「山内上杉家の嫡男、憲政殿を担ぐ家臣達が憲弘殿を追放したのですが、どうやら山内家では臣下の殆どが古河公方派であり、小弓に与した憲弘殿の方針を嫌った結果が出た様にございます」
「では山内家は古河公方派になったと言うか」
「は、一応は」
小太郎の顔は一瞬曇った。
「如何した」
「はい、実は憲政殿はまだ九歳。分別が付く年頃とは思えませぬが、何れかの家臣達に吹き込まれておるのでしょう、我が北條を他国の凶徒と言っておるとか」
「他国の凶徒か」
氏綱の顔が一瞬ではあるが不快なものとなった。
この『他国の凶徒』とは正当な支配者では無い者が国を盗んだ国泥棒という意味である。
初代早雲が伊豆の地を盗った時から山内家では陰ながら囁かれていたようではあるが、この所は事更に喧伝している風でもあるようだ。
「その為北條家と縁戚となった古河公方様には早々と北條家と手を切る様に勧めている者共が居るようにございます」
「そうか」
そう言ったきり、氏綱は目を瞑り黙ってしまった。
下がれとも言われない小太郎はそのまま氏綱が目を開けるのを待った。
蔀戸を開け放ち、明りを存分に入れて秋の風がさわやかに吹き抜ける。
まばらに聞こえる蝉の声が、時が過ぎるのを忘れさせてくれる様だ。
半時も過ぎたころ、氏綱が目を開けた。
「小太郎、今より手の者を使って真里谷と里見を内から切り崩せ」
「如何様に計らいまするか」
「まずは里見だ。これは今、実堯と本家の義豊とは反りが合わぬと聞き及んでいる」
「どちらを崩しまするか」
「実堯」
「実堯殿は先ごろ鎌倉に攻めて来た大将でござるぞ、簡単に靡くとは思えませぬが」
「実堯は近頃本家よりも実力を付けていると聞き及ぶ。更に小弓の指図で先の鎌倉攻めに実堯が寄せて来たなら、本家義豊を通じての指図であろう」
「良く分かりませぬが」
「義豊が分家の実堯の力を削ごうと実堯単独で鎌倉を攻めさせたと調略の使者に吹き込ませるのだ」
「なるほど、それなら本家と反りが合わぬ実堯なれば我が北條に靡くやも知れませぬな」
「それと合わせて真里谷の調略も行え」
「こちらは如何様に致しまするか」
「直接出向かず小弓の義明殿を仲介として我が北條に与するように話を進めよ」
「自らが祀り上げた小弓の公方からの下知とするのですな」
「左様。公方よりの言葉なれば無碍にもできまいて」
氏綱は立ちあがり、小太郎に直ぐに行けと下知をしてから日課である弓場に向かった。
しかし座の温まる暇も無く、再び急使が武蔵は岩付の渋江右衛門大夫から届いた。
石戸城に籠っていた太田資頼が大挙して岩付城奪還に押し寄せたとの知らせだった。
意外だったのはこの岩付城奪還軍の中に、古河公方高基の援軍がいたらしい事だ。
だがこの知らせが届いた時には時すでに遅く、岩付城は落城。
渋江右衛門大夫を始め、資頼を裏切った元家臣達を全て成敗して岩付城に入ってしまった。
この高基の動きは何を表すものなのだろう。
氏綱は即座に北條家からの公式の使者を公方家に送る事とした。表向きは 娘芳春院の御機嫌伺いと言う事にしている。
何時もの様に奏者梁田高助を通しての使者ではあったが、今回は諫言と言うよりは不可解な行動を執った公方高基の近辺の密偵と梁田家の動向を探るのが本来の目的に近い。
高基の嫡子、晴氏の室となっている芳春院に近づけば晴氏の動向も掴めるかもしれない。
この所立て続けに北條家に対して不穏な動きを見せ始めた公方家にどのような思惑があるのか。これをしかと見極めるため使者の他、元々忍び込ませてある小太郎配下の忍びを古河城と関宿城の二城に送り込んだ。
この小田原からの使者が下総の国到着より二ケ月前の七月、二代目古河公方政氏が隠居場所である武蔵は久喜の館で没していた。
そしてその政氏の遺言を携えた使者が梁田高助、晴助の元に不意に現れた。
急な来客ではあったが相手が前公方様の遺言の使者と云う事で丁重に受け入れ、手を付けていた政務を一段落させてから居城関宿城の一角で対面する事とし、暫く後倅晴氏と共に使者の前に座した。
饗応役の家臣を差し向けて懇ろにもてなしたお陰か使者は上機嫌で二人を待っていたようだ。
待たせた割には不満な顔を見せずにこれはこれは、お待ちしておりましたぞ等と高助、晴助の二人に話しかけてくる。
そして使者然とする為居住いを直し、二人が着座するのを見計らってから使者の用件として開口一番に出した言葉は、此度は道長様(政氏の法名)の御遺言を持って参った。であった。
「高助殿、晴助殿、道長様のお言葉でござる。神妙にお受けなされませ」
隠居してから数年、表には一切出る事が叶わなかった政氏が、いったい何事を使わしたのだろう。平伏しながら使者の言葉を聞き落とすまいと耳を欹てる。
「先の立河原の合戦で山内上杉家と共に道長様は戦われました。相手は扇谷上杉と今川氏親・伊勢宗瑞でござる」
「存じてござる」
ずいぶんと昔の事を引っ張り出してきたな。と思う。
「その道長様が身罷るその時まで憂えておられたのはその当時からの伊勢宗瑞の家、北條家の拡大にござる」
「只今はその北條家とは公方家は縁戚にございまするが」
「道長様が憂えておられた事はその事にござる。公方家を使って自らの勢力を拡大しようとするは明白、出来れば直ぐにでも北條とは手を切らねばならぬ。と遺言なさいました」
ほう。と高助。
「しかし今すぐに北條殿と手を切るわけには行きませぬな」
「それも言われておりました。直ぐに手を切れぬとあっても、何れ北條家は我が足利家に対して刃を向けるであろう。このため時が至るまでは形だけ和睦し、その刃が此方に向く前に手を切らねば足利家に禍根を残す。と」
道長の使者が言葉に区切りを付けた所で高助が問いを発した。
「この御遺言は他の方にも話されましたかな」
高助はチラリと晴助を見たが、晴助は神妙に平伏しているのみで表情は分からない。
「もう一人の使者が古河は晴氏様の元へ参っております」
「左様でござるか。いや、分かり申した。某も思い当たる事があるので道長様の御遺言、身にしみまする故、胸に刻んでおきまする」
使者は高助の言葉をくみ取り、我が意を得たりとばかりに事更に居住いを正し、如何にも上意であるとの素振りをみせる。
「道長様の御遺言でございまする」
使者は念を入れるかのように高助・晴助親子に言葉を投げた。
使者が去り、客間に残された親子二人。
二人の間には静かな夏の音が流れている。
ひぐらしが遠くで鳴いているようだ。この声はどことなく切ない響きがある。
夏が始まったばかりと云うのに既に終夏を思わせた。
「晴助、そなたの存念を聞かせてみよ」
遠くを見るような面持ちをしていた晴助が高助の言葉を聞き、不意に高助を見た。
「父上、私が以前より思っていた所と先代道長様の思いが重なりましてございます」
七月の心地よい風が二人の間を一瞬の間、吹き抜けた。
「そなた、以前北條家、恐るるに足りず。と申したそうじゃな」
「お聞き及びでございましたか」
晴助、悪びれる風でも無く、父の目をじっと見つめた。
「今も左様に思うか」
「北條殿は山内様、扇谷様に攻められても当家を頼るばかりで左程な手当ても致しませぬ」
「それは晴氏様の室に娘御が嫁がれたからとは思わぬのか」
「父上、確かにそれもあるでしょう。しかし今は安房の里見、上総の真里谷が朝興殿と与し、我らが敵ながら小弓の義明様との連合で包囲されておりましょう」
高助は晴助を見ながら一つ溜息を吐いた。
「北條殿はこの囲みを抜けられぬ。と申すのだな」
「はい。それと今一つ」
「なんじゃ」
「我が梁田家と古河足利家とは成氏様よりこの方婚姻を結び血縁となっておりました。しかるに如何に古河家が力落ちようとも北條家から室を呼ぶ等とは先祖に申し開きが立ちませぬ」
この晴助の言うとおり、梁田家は代々娘を公方家に嫁がせており古河公方家筆頭の家臣となっていた。
「それは儂も考えておった」
「なれば父上、高基の上様の御子息、晴氏様と縁戚になられませい」
「今暫し、今暫し待て」
「父上、決断が遅きに失すると取り返しのつかぬことに相成りますぞ」
そして関宿での親子の苦渋をよそに、岩付城攻めが発生する事になる。
武蔵は石戸城に抑え込まれていた太田資頼が旧家臣を呼び戻して勢力を盛り返し、山内・扇谷両家に援軍を依頼し、さらに古河公方家の錦の御旗を立てる事に成功した。
この公方高基の太田資頼への加担にまず驚いたのは梁田高助であったが、先の道長様御遺言の使者が古河へ渡ったと聞いていたのでそれに対する動きと納得した。
しかしこれで小田原がどう動くか、高助の不安は募るばかりだ。
高助の不安をよそに岩付攻めは進んでいる。
岩付城に直接当るのは太田資頼の兵ではあるが、後方に控える白地に黄金日の丸、五七の桐の旗が、さらに後方には笹に飛び雀、丸に二引き両などが打ち並んだ様は官軍賊軍を明白に分けた構図になっていた。
これには岩付城に立て籠もる渋江右衛門大夫の臣下にも賊軍となることを恐れた者が続出し、城の内外で騒ぎとなった。
そして城内の騒ぎを治める為に急遽、渋江右衛門大夫は小田原へ救援の使者を使わしたようだ。
しかし救援の使者が小田原に到着する前に、太田資頼の力攻めにより岩付城は落ちた。
少しの間が有ってから高助が知りえた岩付攻めの状況は、公方家・両上杉家は太田資頼の頼みで後方を取り巻いたが傍観していただけだと言う。
「上様もお人が悪い」
そう言葉をもらした。
「父上、上様は何故手を出されなかったのでございましょう」
「上様も北條家に遠慮されたのであろう」
「北條家と手を切るのは時期尚早という事でございましょか」
高助はそれには返事をせずに関宿城の足元を洗う大河に目を向けていた。
そして岩付落城の報が小田原にまで流れると、高助の予想通りに北條家からの使者を差し向けるとの知らせが入った。
そして間もなく小田原の使者が関宿城に到着する。
予想していた事もあり一応は公方家縁者の北條家の使者と云う事で懇ろにもてなしたが、小田原の使者が高助に伝えた第一声は先の太田資頼の岩付城攻めに公方の援軍を認めた事への諫言である。
これに対して高助は公方家の経緯と間違いを謝した。
しかし、先の道長の遺言を受けるまでも無く近頃拡大方針を採っている北條家に対して不安を募らせているところでもある。倅晴助の日頃の言動にも影響されていることもあっただろう。
しかし内なる思いを潜ませて表向きは北條家に従順な態度を取る事にした。
使者が関宿到着後、座の温まる間もなく芳春院様への御機嫌伺いと、高基様、晴氏様への御挨拶に参内する事になり、まず芳春院の御機嫌伺いとい称して古河城に高助に伴われて参内する人数と、関宿城に残る人数を別け、数人を関宿の地に残して古河城に出発して行った。