支配への伏線
安房の里見が鎌倉から撤退した翌年の大永七年になると、いよいよ戦国の火蓋が切られて各国に動きが現れてきた。
この年には美濃の国で西村勘九郎と云うものが現れ美濃国主土岐政頼を越前に追いやり、その弟である頼芸を美濃守護職に就けるという事件が起こっている。
次の年の享禄元年には明智光秀が誕生した。
そして享禄二年、小田原北條家では伊豆千代丸が十五歳になり元服し名乗りを新九郎氏康と改めると、同時に勝千代も元服を済ませ福島孫九郎と改めている。
更に翌年の享禄三年一月には、北條家に因縁の浅からぬ越後の長尾に虎千代が誕生した。
その頃。
扇谷の朝興が江戸城から吾那蜆城(吾名蜆とも:あがなしじみ)に入った遠山丹波守直景を攻め敗走させた後、勢いに乗って瀬田谷城(世田谷城)をも落として江戸城に攻め寄せる事件が起こった。
これに対して北條勢は、江戸詰の諸将が富永四郎佐衛門の指揮の元に硬く城門を守ったため江戸城下の根小屋を焼かれたのみで朝興を河越に追い返す事に成功している。
同年六月、再び武州河越に居た扇谷朝興が難波田弾正、上野蔵人を率いて出陣したとの報が氏綱に伝えられた。
この知らせを受け、小田原城の一角では具足を着用した氏綱主従が軍議を開いていた。
相模衆、伊豆衆、玉縄州を参集させ、更に江戸衆からも詰め番を残して遠山や中条、朝倉氏を呼び寄せている。
具足姿の諸将が一同に会した小田原城の評定の間は、明りとりの為に蔀戸を開け放っていたが、季節は梅雨だ。濡れ縁内側は薄暗かった。
空からは何時止むとも知れぬ湿った雨が降りそぼっている。この空模様の陰鬱さは正に北條家の現在を取り巻く状況を映しているようだ。
その陰鬱さを打ち払うように氏綱は評定の口火を切った。
「此処の所、河越の朝興が良く働き我が方に幾度も攻め寄せて参っておる。此の度も朝興めが河越を発ったとの報が入った。最早これをこのまま捨て置くことはできぬ」
氏綱が居並ぶ諸将を見渡し、一度言葉を区切った。
「先の大永六年の蕨の戦にはじまり小沢城、玉縄城を山内憲弘に攻められたが、これは古河公方高基様の御子故攻めずに黙っていた。しかし今年に入ってからは扇谷の朝興が単独で軍を進め吾那蛤城と瀬田谷の二城を攻めおった。この朝興の行動は山内の陪臣による乱暴に他ならぬ」
諸将からは咳の声すらあがらない。
「ここまで雌伏したは古河公方についておる下野の小山、宇都宮、那須、下総の結城、千葉、常陸の佐竹、小田に北條家が扇谷に攻め込む為の口実と理由を植え付けるため」
一息つくと、更に静かに言葉を続けた。
「ここまで堪忍致せばこれからの扇谷、山内攻めに異論をはさむ輩も現れるまい。此度はその両上杉家に鉄槌を下す為に軍を起こす事とした」
氏綱が言い終わると、右脇に控えていた十六歳の新九郎氏康が颯と立ち上がり、身に纏った色々縅の具足を鳴らしながら氏綱の横に立ち並んだ。
「此度は倅氏康の初陣とする。皆々、氏康を助け大いに働け。力の限りを尽くして攻めかかり武功を見せよ」
元服を済ませたとは言え未だ少年の面持ちを残す氏康だが、後年相模の獅子と呼ばれる片鱗を見せた戦いが始まろうとしていた。
「いざ扇谷の朝興を討ち払おう。府中に出陣する」
一同が鬨の声を上げ、小田原城追手門から続々と行軍が始まった。先頭は江戸衆の遠山、朝倉、中条とし、玉縄衆、相模衆と続く。兵数凡そ一万五千人。
その中には氏康に着き従う福島孫九郎も初陣ながら、氏綱から送られた色々縅の具足に身を包んで同行していた。乳母子の志水小太郎や中島隼人佐も同道している。
北條軍は小田原を出発すると各所に配置した物見から連絡を受けつつ府中に向かい、朝興の軍勢が府中に入る前に小沢城に入城して朝興勢を迎え撃つ事とした。ここは現在の神奈川県川崎市多摩区菅仙谷か。
小沢城に入るとすぐさま防備を固めるために堀や土塁等を広げ逆茂木を植え込み、長期の戦にも耐えるために兵の寝起きする掘立の小屋も多数急造され、土塁内側には櫓が組まれる。氏綱は各所へ休む間もなく指揮して回っていた。
そんなとき、氏康が福島孫九郎、志水小太郎、中島隼人佐等の若侍衆を伴ってやって来た。
「父上」
どこか走り回っていたのか、顔を上気させている。
「新九郎か、如何した」
喜々とした氏康の顔は悪戯好きな悪童の様にも見え、どことなく面白く氏綱の頬笑みを誘った。
「この戦、私に先陣を承りとうございます」
「そなたは初陣ぞ。そう急く事もあるまい」
「急いているのでは御座いません、この戦で自らの力が如何程の物か確かめとうございます」
「左様か。しかしそなたは合戦の経験はあるまい」
「無理な戦立ては致しませぬ。無理と判れば早々に撤退致します故何とぞお許し下され」
目をらんと輝かせた氏康を見ると父の目から見ても不思議な安堵感が沸き起こる。これは生まれながら持った将の器なのだろうか。氏綱はこれも戦場の経験と思い定め、氏康の先陣を許した。
「では松田を付ける故充分に気を付けるのだぞ」
「ではお任せ頂けるのでございますね」
氏康は上気した顔をさらに赤くして満面の笑みを造り、じっと氏綱の目を見つめている。
氏綱はふと氏康の幼き頃を思い出した。
ほんの数年前までは少々の物音にも怯える若御子であると言われた事もあるようだが、月日とはこうも人を成長させるものであるかと感慨深くもあった。
「任せよう。見事朝興を追い払ってみせよ」
「有り難き仕合わせにございまする」
「盛秀、新九郎に付いて参れ」
氏綱と共にいた松田盛秀に新九郎の初陣を助けるよう命じた。松田がかしこまるとの返事をしたその時、にわかに馬蹄が響いてきた。
早馬が急造された小沢城の鏑木門を走り抜けて来たようだ。背中にある旗指し物で物見に放っている味方の人数であることは分かるが、念には念を入れるのが通例なので槍を持った足軽数人に行く手を遮られる。
するとその早馬に乗った伝令が、朝興勢のご報告にござると大音声を発している。それを聞きつけた氏綱達は朝興勢に何事が出来したのかと速足で伝令の下へ向かって行った。
門番に遮られた伝令の元に氏綱達が到着すると、「何事か」と声をかける松田。
それに気が付いた足軽達が一斉に片膝をついた。伝令もそれに気が付き下馬すると朝興の動向の報告を始めた。
「府中に到着した朝興勢の中から難波田弾正、上野蔵人の人数凡そ五百人が打ち物の穂先を揃えて打って出て参りました」
「朝興勢の出向く先はどこじゃ」
目を輝かせた氏康が物見に質問する。
「玉川辺りの小沢原かと思われます」
「父上、私の初陣の合戦場が決まりましたぞ」
「うむ、心してかかれよ。盛秀、何としても新九郎を守るのだ」
此の後すぐに氏康は兵を整えて朝興勢は難波田、上野が寄せてくる小沢原に出陣して行く事になる。
しかしこの氏康の軍勢、少々変わっている。
氏康の共周りには若侍が侍っており、古くから早雲、氏綱に従ってきた諸将達は別部隊とされているのだ。
これには進軍中の松田盛秀からも再三注意をされていたのだが、氏康が聞く耳を持たず、愈々になったらお前たちを頼る故、初戦は儂に任せろと云うばかりで一向に歴戦の将を入れようとしなかった。
「若には困ったもんじゃ」
盛秀の心配をよそに嬉々として軍勢を進める氏康。盛秀は自らの共周りの武者に、若の部隊の左右後方に広がって、決して朝興勢に後ろを突かれぬように布陣するよう命じた。
この小沢原、現在の神奈川県川崎市麻生区付近と言われている。史跡案内板があるようだが、当時とは多摩川の流れが変わってしまったのか、現在は多摩川から遠く離れて住宅地になっているので地図でみても今一つピンと来ない所ではある。
そしてこのころの北條家はまだまだ武蔵統一が完全ではなく、扇谷や山内の管領家に易々と領国に侵入を許している。
これは旧態然とした管領家に従う国人領主達が日和見的に動いていた事にも因るだろう。これを払拭するためには管領家を完膚なきまでに叩き潰し、北條の支配を一城支配の点から領国支配の面に変えてゆかねばならない。
さて、これを成し遂げるのは誰であろうか。
氏康が小沢原に到着したとき、既に河を挟んだ対岸には朝興勢が入り込み始めていた。
これを見た氏康は事を有利に運ぶため、朝興勢に気取られぬよう浅瀬を見つけて河を渡ってしまう事にした。
「あまりに拙速では」と盛秀に諫められたが、気にもせずに部隊を渡河させる氏康。呆れる盛秀に笑顔で答えている。
相手が備えるのを待っていたのでは勝てる戦も勝てないのは道理だろう。
また孫子曰く兵貴神速(兵は神速を貴ぶ)だ。
氏康は自軍が川を渡り終え陣を整え終わった事を確認すると、いまだ準備の整わぬ朝興勢に討ちかかって行った。まさに不意をついた攻撃になった。
この頃の合戦始めは古くからの作法を引きずっており、矢戦から始まる事が多かったが、氏康はこの型どおりの戦を嫌っていた。
最前線にいた難波田弾正は不意をつかれた攻撃でも矢戦が始まると思いこみ、弓勢を全線に並べ始めたが、氏康勢の予想外の動きをみた。
槍の穂先を揃えた氏康手飼いの若侍の一団が鬨を上げて襲いかかって来たのだ。
「なんじゃこれは、北條家は戦の仕様を忘れたか」
古くからの因習にとらわれた難波田弾正の言葉は正に時代の転換を言い現わしていただろう。
風雅人と言われた人間の性であろうか。この氏康が行った、古くからの型を破った兵法に対応が遅れた。
氏康直属の若集数百人が槍を隆々としごき、またある者は抜刀して柄に組み紐で手を縛りつけている。
氏康の号令で一団となった若侍達は鬨を上げながら地響きさせ突進していった。
これに難波田勢の弓隊は矢を放つこともままならずに後方に引き下がって行く。このため後方にいた騎馬武者や足軽の列と入り乱れてしまい混乱が始まった。
「今じゃ、押し込め」
新九郎氏康の若い声が響き渡ると、更に混乱する難波田勢に衝突した。
混乱を極めた難波田勢は散々に打ち叩かれ散らされ始めたのだが、しかし後方に備えてあった難波田弾正の倅、難波田隼人正が騎馬を引き連れ、歩卒の北條勢を討ち取ろうと百騎程が駆け付けた。
「足軽風情に何程の事やあらん、返して討ち取れ」
隼人正が混乱して後方に逃げようとしていた歩卒達を叱咤し、引き連れた騎馬隊を氏康率いる足軽隊に攻めかけさせた。
鬨を上げて攻勢になった難波田勢がかかってくると見るや、氏康が引き鐘を打ち鳴らさせて足軽隊を一斉に引かせる。
見事な集団行動だ。
「おお、これは何としたこと」
隼人正は一糸乱れぬ集団戦を初めて目の当たりにして、戦慄と感動を共に覚えた。
「北條勢、敵として不足なし、者共かかれ」
隼人正が氏康率いる足軽隊を追い始め、難波田本隊より引き離されている。それに気付かぬ隼人正は尚も氏康率いる足軽勢を追っている。
足軽勢を追うに従い騎馬陣形は細長く前後に伸びてきた。
数町ほど氏康が走り抜け、両脇の林を抜けた頃合いで颯っと左右に分かれると、その正面の川の対岸には北條勢一万の本隊が陣取っているのが見えた。
これを見た隼人正は再び戦慄を覚え、体中に生ぬるい汗が滲みだした。
手綱を握る手も冷えているのに汗が滲み出ている。
「これは我らを引き込む為の罠だったか、者共、陣に引き上げるぞ」
隼人正が悲痛な叫びをあげるが、後方の両脇の林から福島孫九郎の率いる足軽隊と志水小太郎の率いる足軽隊が現れて討ちかかり、隼人正の騎馬隊は前後に分断されてしまった。
氏康の部隊はそのまま林を駆け抜け隼人正の騎馬隊後方に抜けた。
その間に伏せておいた中島隼人佐の部隊を糾合して隼人正の退路を断つことに成功した。
「押し太鼓を打て、一兵たりとも逃がさず討ち取れ」
氏康の号令で押し太鼓が打ち鳴らされると、難波田隼人正の騎馬隊に向かって全方向から打ちかかって行く。
「くそっ、罠に掛ったか」
「若殿、今ならまだ間に合います、我らが盾になりまする故お引き下され」
共周りの難波田の侍達が、この若殿を父難波田弾正の元に帰す事に全力を傾けようとしていた。
「うむ、すまぬ。皆々引くぞ」
隼人正の引き上げ命令が騎馬隊に届くが混戦乱戦の最中である、中々抜け出せずに方々で討ち取られていった。
このとき難波田の本隊では、弾正が倅を討たすなと叫んで救援の部隊を繰り出してはいたが、余りにも隼人正が敵陣深く入り込んでいたので間に合わないかと思われた。
そして殆ど討ち取られようとしていたとき、難波田弾正の部隊と上田蔵人の部隊が後詰となって戦場に到着した。どうやら朝興本隊も小沢原に到着したようだ。
これを見た氏康は頃合いとして難波田隼人正の囲みを解き、一度北條本陣に引き上げた。
一命を取り留めた隼人正はそのまま弾正の部隊に編成され、朝興本隊に合流していった。
すでに未の刻(午後二時ごろ)を過ぎた頃である。
這々の体で逃げ帰った隼人は、父弾正と共に朝興の前に緒戦の報告に赴いたが帰って来たのは辱めの言葉だった。
「北條ごときに緒戦を打ち負かされるとは何たる体たらくじゃ」
朝興が先の敗戦を聞いて激怒していた。
「聞くところによると隼人の相手をしたは十六歳になったばかりの氏綱の倅、新九郎氏康とか言うではないか。しかも初陣ぞ」
この朝興の言葉を聞いた隼人正は顔を赤くしながらただ黙ってうつむくしかなかった。
「親子共々に面目これなく、ただただお恥ずかしい限りにてございます」
父弾正も自らが近くに居ながら倅を危うく討たれかけた事に負い目を感じていたようだ。
「儂が戦建てを見せて進ぜる、そなた等も付いて参れ」
朝興が難波田弾正親子に云い捨て、上杉全軍を持って進軍を開始した。
上田蓮順、曽我神四郎・丹波守父子、毛利丹後守、大胡重行、古市小太郎、小野三河守を一陣から三陣に備え、曽我兵庫、本城、小幡、大石を後備えとして進軍させ、初戦の敗退を払拭するべく一気に北條勢を叩く心づもりでいた。
朝興は中軍に備え、難波田親子は朝興の近くに置かれた。
対する北條軍も、未だ本隊と合流していない氏康勢を遊軍と定め、江戸攻めで臣下に加わった宇田川和泉守、毛呂太郎、岡本将監を遠山景直と富永四郎佐衛門の与力として分け江戸衆の一、二陣とし、御由緒家から大道寺、多目、在竹、相模衆から葛山、久嶋、朝比奈を三の陣に構え、他伊豆衆、玉縄衆を氏綱の共周りと後詰にして進軍した。
「北條め、だいぶ人数を集めたと見える」
朝興が共周りに漏らすと、近くに控えていた曽我兵庫が凡そ一万五千程はおるようでございますなと追従する。
「たかが北條ずれに何ができよう、先の吾那蛤城や瀬田谷城攻めを見よ」
「如何にも。只々我らの攻めに恐れをなして逃げて行ったはつい先ごろでございましたな」
「此の度も遊山の体で討ち払えようぞ」
申の刻(午後四時ごろ)両軍が多摩川の小沢原で激突する事になる。
六月の太陽は未だ沈まずじりじりと鎧を焦がし、槍の穂先や太刀の切っ先を煌めかせる。
各家々の家紋や印が描かれた軍兵の旗指し物が風に靡き、両陣営の本陣には大旗一流がはためく。
氏綱の陣には五色の幟と北條甍の綾地錦が、対する朝興の陣には竹に雀が周りを威圧していた。
「頃合いもよし、江戸衆押し出せ」
折烏帽子に色々縅の鎧を身に付けた氏綱が、本陣の床几に座りながら軍配を振り下ろした。
両陣押し太鼓の音と共に鬨をあげて江戸衆が第一波となり朝興勢に襲いかかる。
朝興勢からも大胡重行、小野三河が槍を合わせて来た。
氏綱が再び軍配を振り下ろす。
直後に大道寺勢が打ち出す。
「大道寺様、打ち出されました」
共周り衆が報告する。
畳み掛ける様に次々に軍勢を繰り出した。
「多目様、打ち出されました」
「在竹様、打ち出されました」
御由緒家を全て全線に投入したころ氏康が福島孫九郎と共に本陣に戻って来た。
「父上、只今戻りましてございます」
「新九郎、よくやった。初陣にしては上出来じゃ」
「有り難きお言葉にございます」
「うむ、しばらく本陣で休むが良い」
氏康の先勝に幸先が良いと氏綱は上機嫌だ。
「父上、今一度私に攻撃の御下知を下され」
「如何した」
「先ほどの一当りで上杉勢の動きが見えましてございます、是非とも打ち出す事をお許しくだされ」
「まだ戦は始まったばかりじゃぞ」
氏康の若い顔が紅潮している。上杉攻めに秘策を思い付いているのかも知れぬ。
「手柄を主人のそなたが独り占めしてはならぬ。家臣に手柄を上げさせる事を旨とせよ」
「しかし」
「まぁよい、今暫し堪えよ。時が満つればそなたを差し向ける故な」
「畏まりました」
少々不服げではあったが、父に諭されて用意された床几に腰をかけ戦況を見る事にした。そして側に侍る福島孫九郎に何やら耳打ちし、自らの部隊に休息と此の後の策を伝えさせる事は忘れなかったようだ。
戦場では風もそよともそよがぬ炎天下となり、大勢の軍兵が槍を討ちあい太刀の鎬を削っていた。
足音を轟かせ矢を放ち、逃げ遅れた足軽を馬蹄に掛ける。
あちこちで矢叫びがあがり、鬨の声も天に響き渡っていた。
名乗りを上げる武者がいるとそこに腕に覚えのある武者が近付き、一騎打ちを始める。
どちらかが討ち取りの名乗りを上げると歓声があがった。
申の刻から半時ほど過ぎた頃、愈々氏康に攻撃の下知がでた。
「新九郎、そなたの軍略しかと見せてみよ」
「畏まりました。必ずご期待に添えてみせまする」
床几を立ち、速足で自軍の兵が待つ所へ向かった。
若侍達も氏康が現れるのを今や遅しと待ちうけていた。
先程は徒立ちの戦を仕掛けていたが、此度は騎馬での攻撃を考えていたのだろう。若侍の騎馬身分の者は悉く馬を引いていた。
氏康も馬に跨り槍をしごいた。二、三度槍を振り下ろし具合を確かめると、「いざ、押し出すぞ」氏康の大音声と共に押し太鼓が鳴り響き、遊軍の騎馬部隊が前線に押して行った。
「御曹司、押し出します」
氏綱の共周りが叫ぶ。
「新九郎め、いかような陣立てを見せるか楽しみでござるな」
隣の床几に腰をかけた弟氏時が氏綱に話しかけた。
「先ほどの陣立て、見た事も無い用兵だったが新九郎自らの工夫であるかな」
「一塊りで討ちかかり、引く時も一団となって引く、これは今後の兵法に役立ちそうですな」
「面白き事を考えたものよ」
小沢原では彼方此方で追いつ追われつし鎬を削っている所に氏康の騎馬軍団が到着した。
氏康の旗印の隣には朽ち葉色地に八幡の指し物を掲げた福島孫九郎が侍っていた。これは自らが信仰している八幡大菩薩を端的にあらわした様だ。弓矢八幡、武運の神として全国で崇拝されている神である。
そして身に付けた鉄地黒漆塗り十二間筋兜には鍬形の前立てが輝き、見た目には孫九郎も新九郎も同じ鎧に同じ兜だった為、指し物を見なければ区別が付かないようになっていた。
「いざ新九郎様、参りましょうぞ」
孫九郎の声に氏康が反応する。
「者共、手筈通り陣鐘と押し太鼓の音を聞き違えるべからず、いざ討ちかかれ」
小沢原では彼方此方で敵味方入り乱れての乱戦が展開されている。
乾いた土埃が視界を遮るかのように立ち上り、其処此処を走り回る武者達の顔は土の汗が流れていた。
そこに氏康の号令一下、騎馬軍団とも言うべき一団が殺到し、名乗りも上げずに一気呵成に錐込み捻じ込んで行った。
まず目標とされたのは毛利丹後守勢だ。
騎馬の武者が名乗りを上げようと馬を乗り付けたところ、どっと押し掛け討ち取られてしまった。
「名乗りを上げる武者の口上も聞かぬとは北條め、戦のし様を忘れたか」
慌てた毛利勢も次々に騎馬武者が向かって行くが、単騎でかかって行く為に簡単に討ち取られてしまう。
丹後守が気付いた時にはほぼ壊滅状態だった。
氏康勢の鬨があがると黒備えの騎馬集団が槍の穂先を揃えて討ちかかって来る。
毛利勢が総崩れとなると後方で待ち構えていた大胡重行の一隊が、氏康勢の攻勢を足止めするため弓勢を並べ始めた。
弓勢が配置される直前、引き鐘が打ち鳴らされ攻勢だった氏康勢が一気に後方に引き返す。
矢を避けるために一時的に逃げる素振りを見せた。
「よし、北條共め我が矢を恐れ引いて行きおったわ、者共押し出すは今ぞ」
大胡重行の攻撃の下知で大胡勢が騎馬の主に長刀や槍を持った従である荒子数人が一組となって思い思いに討ち出す。
しかし再び氏康勢から押し太鼓が鳴り響くと、黒の一団が鬨を上げて襲いかかって来た。
これは集団戦対個人戦である。個人が勝てる道理が無い。方々で大胡勢が討ち取られていった。
この勢いに乗った黒色の一団が朝興勢本陣にまで迫る勢いで更に打ち出して行き散々に本陣を打倒し蹴散らし、朝興の心胆寒からしめた。
しかし朝興も思い思いに散って戦っていた家臣達を本陣に集め何とか凌ぐ。
これがために陣中深く打ち入っても氏康勢は総大将を討ち取る所まではできなかった。
だがこの合戦で扇谷の朝興に小田原北條の嫡男、氏康憎しの印象を嫌という程与える結果となる。
この合戦模様は相州兵乱記、府中軍之事にも記載されている。
『何レモ大将ノ下知ヲ受カヽルトキモ一同ニカケヒクトキモ静カニ引聚散應變進退當度シカハ一度モ終ニ打負ス』
これに対して上杉勢はまさに古風な戦いをしていた為個人が奮闘する戦いとなり、一度も勝つ事ができず終いだったようである。
そして長かった真夏の日差しも愈々暮れはじめたとき、痛手を被った朝興勢は河越に退却して行った。
深追いを避けるために氏綱が上杉勢の追い打ちを差し止めて、勝利を収めた北條勢に勝鬨をあげさせた。
氏康は勝利に酔いしれ、孫九郎、志水小太郎、中島隼人佐を引き連れて、現在勝坂と言われる坂を「勝った勝った」と叫びながら駆け上がったとの話が残っている。
この喜びの叫びは後年孫九郎、名を変えた北條綱成が合戦の定法としているが、もしかすると当日、同じ鎧同じ兜を身に着けていた孫九郎の叫びだったかも知れない。
この小沢原の戦は享禄三年六月十二日の事であった。
この年は安房の里見に義弘も誕生している。
北條家を取り巻く環境が変わり始めたこの年の夏、太陽は中天に控えてじりじりと田畑を焼いていた。